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第36話 ─潤─

 せっかくの人気店でのディナーの味を、潤はほとんど覚えていない。  いくらとイカの入ったたらこクリームに舌鼓をうっていた天は、一口食べるごとに「美味しい」と感激していて、それはもう愛愛しかった。  けれどやはり大人一人前は食べ切れないと嘆かれ、残りは潤が頂いたのだがその時はかなり緊張した。  何せ天が口をつけたものだ。  これは間接キスになりやしないかと考え始めると、ただでさえ自身のジェノベーゼさえ無味だったにも関わらずもっと味が分からなかった。  味の保証は出来ない。 そう思っていられたのは、入店から十分ほどだけである。  あとは何が何だか分からぬまま、レモン水で喉を潤した緊張しきりの潤は支払いをしようとしていた。 「え、ちょっ……今日は俺が……!」 「いいってば。 あ、会計分けなくて結構です」  財布を出して張り切っていた天を遮り、それを見越していた潤が先に札を出してウエイターに微笑んだ。  店を出ると案の定、財布を握ったままの天は潤を見上げて噛み付く。 「潤くんっ、今日は俺が払うって言ったじゃん! 絶対全額返すからな!」 「要らないよ。 ていうか、僕と居る時にお財布出したらその場で静電気お見舞いするから」 「なんでだよっ」 「……理由なんて分かりきってる。 天くんだからだって言ったじゃない」 「そんなの理由になってな……」 「ほら見て、イルミネーションが綺麗だよ。 二十時の解散まで夜のお散歩しよ」 「…………っ」  支払いに関してお互い譲らない者同士だが、潤の方が一枚上手だった。  静電気を怖がる天はサッとポケットに財布をしまい、苦い顔をして「ごちそうさまでした」と頭を下げて隣に並ぶ。  潤が指差した先には、まさにカップルのデートスポットと化したイルミネーションスペースが在った。  駅前に特設されたそこへ歩むまで、天は納得がいかないとむくれたままである。  けれど潤には、頑なに支払いを譲らない理由があった。  それというのも、「お礼」を受けてしまうと即座に天との関係が絶たれるような気がしていたから。  朝晩の通話や日中のメッセージを欠かさないのも、天が潤の前からフェードアウトしないようにするためだった。  何故それほどまでに繋ぎ留めておきたいのかは分からない。  天の目を盗み、通常一つでいいカプセルを二つレモン水で流し込んだ潤の脳が、彼との関係を絶たせてはいけないと指令を送ってくるのでただそれに従っている。  潤と二十センチは差がありそうな背の低い天を見下ろし、そのつむじを見ているだけで心がグラグラした。 「……天くんはどうしてバイト三昧だったの?」  大木に巻き付けられた色鮮やかなイルミネーションライトを眺めながら、何気なく先程の会話を思い出す。  目の前のカップルがイチャつき始めたので、二人はそっと示し合わせたかのように場所を移動した。 「えっ、う、ーん……母子家庭、だから」 「そっか。 お母さんを助けてたんだね」 「ま、まぁな。 そういや、例の片思いの人はどうなった?」  空いていたベンチに天を腰掛けさせ、潤は傍にあった自販機でホットの缶コーヒーを二本買った。  もちろん微糖だ。  指先に触れないよう注意してそれを手渡すと、「ありがと」と受け取る天の表情は未だ複雑そうである。 「あー……気になる?」 「そりゃあね。 その話を聞くために俺は今ここにいる。 潤くんが抱えてること、全部吐き出しな?」 「男らしいね」 「えっ、ほんと? 俺男らしい? ちゃんと歳上っぽくやれてる?」 「あはは……っ、その発言は男らしくない」 「ぷはっ……」  ようやく屈託のない笑顔を見せてくれた。 ケラケラと笑う歳上らしくない天は、コートのボタンを一番上まで留めて、缶コーヒーを両手で持ち暖を取っている。  憎い静電気さえ無ければ、潤がその手を取り、温めてやるのに。  それに、だ。 二十時解散という厳しい決まりを天が設けているため、Briseに寄って挽きたての温かなコーヒーをご馳走する時間も無い。  寒空の下、様々な灯りが美しいイルミネーションを前に缶コーヒーに口をつけるのも悪くはないが、潤の考えるスマートなデートとは到底言えなかった。 「───最近ね、その人がすごく思い悩んでて。 ここ一週間くらい、相談というか愚痴をよく聞かされてる」 「……なんで?」 「相手が既婚者だって事は言ったよね? なんか夫婦間でトラブル発生みたい」 「マジでっ? どんなトラブル?」 「旦那の方の浮気疑惑、かな」 「お、うっ!?」  足を組んで缶コーヒーを啜る潤は、隣で驚きの声を上げた天の気持ちがよく分かった。  前を見据えて数分沈黙したかと思えば、「そっかぁ」と呟いて小ぶりな唇から真っ白な吐息を零す。 「めちゃくちゃタイムリーだなぁ。 言ったじゃん、俺の上司もまさに今浮気疑惑かけられてるんだよ」 「そうだったね。 それで週末の飲み会なくなったんだっけ」 「うん。 いや〜夫婦って大変なんだね〜」  潤がそう感じたように、天も「よくある事」だと疑わない。  隣からもの言いたげな視線がビシビシ飛んできていたが、それはそんなに心地良いものではなかった。

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