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第38話 ─潤─
天の憧れの人が、女性ではなく男性だったという事実に打ちのめされている。
思い込んでいた自分が悪い。
だが天はいとも簡単に、男性の上司を思い描いて「憧れている」と言った。
その時の表情は今でも忘れられない。
心酔……とまではいかなくとも、その者に強い尊敬の念を抱いているのは天の蕩けた瞳で伺い知れた。
男性の上司が、天を可愛がっている。 同じ職場であればそれはおそらく毎日だ。
なぜこうも打ちのめされているのか、自らもさっぱり分からない。 項垂れた潤の瞳に映るのは、何の変哲もないコンクリートの床。
衣服の上からであれば静電気は起きないと伝えたはずなのに、少しも触れてこない天は「大丈夫?」と心配気に声を掛けてくるだけ。
年の差が歯痒い。 つい最近知り合ったばかりの、まだ遠い距離間がもどかしい。
潤が何をどうすれば、天に憧れてもらえるのだろうか。
……その上司は……αなのだろうか。
「潤くんってば! 大丈夫っ? 具合悪いのかっ?」
天はようやく、恐る恐るといった様子で潤のコートにツンと触れた。
何でもないよとすぐに顔を上げてやれば良いものを、潤は天の気を引きたくて項垂れたままボソリと本音を呟く。
「…………天くん、僕もう……片思いしたくない」
「……潤くん……」
美咲への思いが消えた途端、薄っすらと燃え上がりそうだった想いまでが消え去ったような気がした。
潤の切ない呟きに、天も眉を顰める。
優しい天は、きっとまた誤解し、潤を哀れんでいる。 毎日上司を心配するように潤にもそうしてくれている。
ただ、それだけではもう満足出来ないとたった今気付いてしまった。
もっと心配して。
誰かと一緒では嫌だ。
脳が勝手に、天へ注文を付けた。
「うんうん、だよな。 じゃあさ、こんな事言っても呆れないでほしいんだけど、好きな人が旦那との浮気疑惑で悩んでるなら、いっその事奪っちゃいなよ」
「奪っ……?」
歳上の無邪気な人が、とんでもない事を言い出した。
あからさまに落ち込んだ潤を見て、まさしくお手本のように誤解した天は真剣そのものである。
「そう。 潤くんもさっき言ってたじゃん、疑惑をかけられる方が悪いって。 潤くんの好きな人は今、精神的に物凄いダメージを負ってるだろ? 疑惑が浮上すること自体がよくないんだし、それを潤くんに相談してるってかなり脈アリなんじゃない?」
「いや……そんなこと……」
「今ならその片思い、やめられるかもよ」
───違う。 潤の項垂れた原因はそういう事ではない。
片思いをしたくない、それだけなのだ。
美咲を兄から奪うなど考えた事もないし、今はもっと考えられない。
たとえ万一にも「脈アリ」だとしても、潤にはそれがチャンスだと思えなくなっているのだから野心自体が無意味だ。
そこまでするほどの熱量が無い事を、天にどう伝えたらいいのか分からなかった。
「……悪い大人だ、天くん」
「あははは……っ、俺も上司に対してほんのちょっとだけ考えちゃった事なんだ。 マジで悪い大人……ていうか嫌な奴だ、俺」
「それって、上司を寝取りたいってこと?」
「そこまでは言ってないぞっ。 上司のところは番関係かもしれないから、……あ、潤くんの好きな人は番関係にあるの?」
「ううん、違う。 β同士だから」
「あ、そうなんだ。 じゃあ潤くん奪えるね!」
「……天くん……」
どうしてそう、しきりに略奪愛を勧めるのだろう。 しかもそれに近い事を天本人が望んでいそうで、さらに動揺してしまう。
今がチャンスだと思っているのは、潤ではなく天の方なのではないか。
憧れている、尊敬していると語った瞳を思えば、対象が男性だという点など何ら不自然では無かった。
子犬のような天の外見がそうさせるのか、潤も少しずつ分かってきた無邪気で素直な内面がそうさせるのか……否、両方だ。
相手がα性ならば、他の性を惹きつけるフェロモンを無条件に、かつ無意識に放っている。
天も例外なくそれにあてられているだけにしても、潤はとてもじゃないが心穏やかで居られなかった。
「俺の場合はね、どうこうなりたいと思ってたとしても出来ない。 でも潤くんは違うじゃん。 片思いやめたいなら、少しでいいから行動始めてみなよ。 いっそ奪っちゃうのか、夫婦関係の修復を手伝うのか」
「……いや……出来ないよ」
「なんでだよ。 今潤くんが言ったんだぞ? もう片思いしたくないって。 それなら……」
「天くん……っ」
気付いた時には、潤は天の両肩を掴んで真っ直ぐに瞳を捉えていた。
それ以上、何も言わないで。
そっくりそのまま、天は自身に言い聞かせているように聞こえてならない。
片思いをやめたい───この台詞がこれほどまでに二人の中で別ものとなるなど、遺伝子レベルで優秀な潤でさえ知らなかった。
見詰めた先の瞳が、まったく揺らがない。
それどころか、まだ潤を哀れんでいるように見えた。
「潤くん……? ごめん、俺……無神経だった」
「…………違うよ、……そうじゃない。 そうじゃなくて……」
「あ、もうすぐ八時だよ。 帰ろ」
「え、……」
容易く潤から逃れた天が、少しも臆する事なく立ち上がる。
空き缶をゴミ箱に放る間際、「何から何までごちそうさま」と振り向きざまに困り顔で微笑まれたその時、───。
「………………」
潤の中に初めての感情が湧いていた。
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