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第51話 ─潤─

─潤─ 「なぜ僕は入ってはダメなんですか! 友人はどうして中に入って行ったんですか! こんなっ……こんなにプンプン香ってきてるのに、あの中に入ったら友人も……!」  小さなリュックを抱えて店内へと走って行った天を追いたくとも、潤は入り口で蝶ネクタイをしたウエイターに進路妨害され、あげく胸元を強く押されて「いけません!」との台詞を何度も浴びていた。  店内に居た時から微かに感じていた、初めてのΩのフェロモン。  天を追い掛けたとしても自制できる自信はまるで無かったが、何より天が心配だった。  天がβであるなら、中から強烈に漂ってくるフェロモンに負けてしまうだろう。  潤はその性別ゆえに特に敏感なのかもしれないが、β性の者達が我慢出来ずに帰宅していく様をいくつも見掛けた。  何故、潤を置き去りにしてあんなにも勇んで店内へ駆けて行ったのか、まるで分からなかった。  このフェロモンに負けた天が別の者と交わるかもしれない。  性別に必要性も重要性も感じないが、天の事は大事だ。  他の者に触れてほしくないし、触れられてほしくもない。  潤にしては珍しく、大声で天の名を呼び続けていた。  取り越し苦労などではない。 「……っ、天くん! 天くん!」 「お客様! 落ち着いてください! そのご友人が、あなた様を引き止めていてくれと仰ったのです! 私は理由は聞いていない事になっております! どうかご容赦ください!」 「引き止めていてくれ、……? 友人がそう言ったのっ?」 「は、はい……っ」  ウエイターの鬼気迫る足止めは、何か理由があって天自らが願い出たと聞き、潤は抵抗をやめてポケットの中から例のピルケースを取り出した。  そこに入っていた五つのカプセルすべてを口に含み、唾液で飲み下す。  それでもまだ、ドクン、ドクン、という胸の音は鎮まらなかった。 「どうして……天くんもβなんだから入っちゃダメじゃない……っ」  戻るまで待てというのか。  こんな状況で、βである天が中に入ったところで何も出来やしないだろうに、一体どういうつもりで。  潤が奥歯を噛み締めたその時、唐突にフェロモンの香りが止んだ。  しかし動悸は治まらない。  カプセルの中身はまだ信憑性の低い漢方薬である。 勿論、即効性は期待出来ない。  ひとまず動悸や興奮状態を煽る香りが止んだ事にホッと胸を撫で下ろした次の瞬間───。 「うわ、……っっ」  今度は、先程とは比べものにならない濃度のフェロモンが漂ってきた。  何の効果もないであろうが、気休めに手のひらで鼻と口を押さえてしまうほど、強烈な香りだった。  潤の腕を取ったままのウエイターは、それほどこのフェロモンの違いを分かっていない。 店外に追いやられた客達の中にも、ざわめいた者は一人も居なかった。  なんなんだ、と眉を顰めて店内を睨んだ潤の視界の先に、スーツ姿の小柄な男性がヨロヨロと壁に手を付きながら歩いて来るのが見えた。  一瞬だけ、その人物が天であると思い目を見開いた潤だったが、入り口の灯りに照らされたのはまったくの別人であった。  ウエイターもすぐに男性に気付き、ハッとして駆け寄る。 「あ、あっ!? お客様……!」 「大変、です……っ、中で、……おれに抑制剤、打ってくれた子が、……倒れ……」  出て来た小柄な男性の言葉に、潤はめまいを覚えた。  どういう事だ。  天が彼に抑制剤を打った?  なぜ、それを常備していた?  そしてこのフェロモンの主は……、? 「抑制剤打ってくれた子、……? そ、それって……このにおいって……もしかして、……天くん!?」  潤はさらに目を見開いた。  そうとしか考えられない現実を前に、鼓動がだんだんと強く、早くなっている。  店内、ウエイター、男性、順に見回してすぐ、ふわりとした疑問の辻褄がようやく合った。  ───天は、 "Ω" なのだ。 「ごめんなさ、い……名前までは……でも、すごく、かわいい子、です」 「お客様お待ちください! 間もなく救急車が到着されますから! どうか抑えて……!」  鞄を肩に掛け直し、左手でゴソゴソと中を漁り目的の物を手に掴む。 なるべく遭遇したくはなかったが、未熟なαたるもの絶対に常備しておくべき代物。  天の本当の性に気付いてしまうと、より感情のコントロールが出来なくなった。  ここで救急車が到着するまで天のヒートを指をくわえて待っているだけなど、出来ようはずがない。  潤は意図して威圧のオーラを出した。  足止めは無駄だと言いたげに、先程の荒ぶった感情を捨てて無表情でウエイターを見下ろす。 「抑えられるわけないです。 僕、緊急抑制剤持ってます。 友人を助けに行きます」 「しかしあなた様は……!」 「緊急抑制剤は打つ方も半量体内に入れればフェロモンの影響は受けません。 注射針の替えもあります。 ご心配なく」 「いや、ですが、……っ」  整然と言い放った潤の腕を掴む力が、弱々しくなった。 恐らくβ性である彼は、潤の威圧オーラに負けて屈し始めたのである。  自らの緊急時に使う予定だったそれを他人のために使った天がドジを踏み、ヒートを誘発してしまったのだと瞬時に悟った潤には迷いは無かった。 「僕はαです。 しかもこの二年、予防は怠っていないαらしくないαです。 あなたは救急車が到着されたら念の為に病院に行かれてください」 「で、でも、彼も、……一緒に……」 「あなたはお客様への対応を優先してください。 彼の面倒は僕が見ます。 抑制剤投与後、僕達は速やかに裏口から出ますのでよろしくお願いします」 「は、はい、……承知致しました」  完全に屈服したウエイターと男性は、それぞれに指示を出した潤から目が離せなかった。  今や希少性となり、生まれ落ちた瞬間からピラミッドの頂点が確定するα本来の神々しさを纏った潤は、静かに店内へと入って行った。

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