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第58話 ─潤─
離れ家に戻ると、恋敵との通話が終わったらしい天は窓から夜空を見上げていた。
猫の後ろ姿のように哀愁漂う天を、潤は両親が寝静まったのを確認して本宅へ案内した。 天が「お風呂どうしよう」と呟いたためである。
天の入浴を待つ間、バスルーム前で言うまでもなく異常にドキドキしていた潤だが、彼がほかほかで出てきてからはさらに動悸が増した。
着替えが無いと渋る天に、潤は自らの寝間着を貸した。 それがいけなかった。
潤が入浴している間に離れ家に戻っていた天が、ブカブカで着ている意味がないと寝間着のズボンを脱いでいたのである。
寒がりなのだから着ておいて、と目のやり場に困った潤の申し出も聞かない。
色白でほっそりとした足が、目に焼き付いてしまった。
ほんのりと色付いた頬も、濡れた髪も、天が着るとまるでワンピースのようになる寝間着姿も、どれもこれも目に毒だ。
洗面台で髪を乾かしている天に隠れて、潤は漢方薬を余分に飲んだ。
ほんの四時間前にも五つ飲み、ベッドに入る前も五つ……過剰摂取なのは分かっていたが、お守り代わりのそれに頼らねば清く眠る自信が無かった。
「あの……ふ、二人で寝るのか……? 俺は床でいいよ? あっ、体丸めたら机の上でも寝られそう!」
この期に及んで泊まる事に恐縮している天は、勇んで潤の勉強机を指差した。 本物の猫になるつもりなのかと、平静を装った潤は端に避けてクスクス笑う。
「セミダブルだから大丈夫。 狭くてもくっついて寝たらいいじゃん」
「えぇっ!? くっついて……っ?」
「寒いからちょうどいいよ。 早く早く。 僕の湯たんぽになって、天くん」
「ゆ、湯たんぽって……っ」
布団と毛布を捲り、ポンポンとシーツを叩いて呼ぶ。 唇を尖らせた天がおずおずと近寄ってくる様があまりにも可愛くて、目眩がした。
「ね、意外といけるもんでしょ」
「……うん、まぁ……」
天の重みで、浅く沈んだマットレス。
密着すると手が出てしまいそうになるので、ほんの少し距離を取った潤は余裕ぶった笑みを浮かべた。
仰向けになった天の横顔が戸惑っている。
けれどそれ以上に、潤も己の理性と戦わなくてはならなかった。
今こそ、漢方薬の効き目が試される時がきた。
「天くん。 今まで隠しててツラかった事、僕には遠慮なく愚痴ってね」
なかなか瞳を瞑らない天の横顔に、必死で理性をかき集めている潤が優しくそう告げた。
やわらかそうな頬に触れてみたいと、脳が騒ぐ。
意識を逸らしたくて会話を紡ごうとしているのに、どうしても要らぬ邪念が湧いて困る。
「……忘れてよ、もう。 約束が違う」
「僕は、今日のヒートの事は忘れてあげるって言っただけだよ。 天くんの性別については忘れられませーん」
「なん、っ……!」
「一人くらい、僕みたいな理解者が居てもいいんじゃない? 天くんのピンチにはいつでもどこでも駆け付けるよ」
「何それ、スーパーマンみたいだ」
「そう思ってて。 僕は絶対に天くんを傷付けたりしない。 ……あ、そうだ。 八時がタイムリミットだから、その前に病院行こうね。 僕のかかりつけなら朝一で電話すれば診てもらえるよ」
「……うん。 何から何までありがと」
ごめん……と、もはや何度目か分からない謝罪の言葉を口にした天は、毛布を頭まで被って丸くなった。
仰向けだった体が、潤の方を向いた気配がする。
……ドキドキした。
抑制剤の効いた天の体からはΩ性特有のフェロモンなど出ていないはずだが、騒がしい動悸は一向に治まらない。
もっと近付きたい。 出来ることなら、こんもりとなった布団の山ごと抱き締めたい。 伝えられない潤の秘密も、想いも、甘やかでいてほろ苦い。
憎い邪念と淡い恋心が常に脳内をチラついた。
「明日もここに居てほしいな……。 天くん、嫌?」
「そこまで迷惑かけらんないよ」
「分かった。 嫌じゃないって事だね」
「なんでそうなるんだよっ」
「心配だから言ってるの。 年越しも一緒に過ごせるなんて嬉しいな」
「……潤くん……」
潤は、天の嫌がる事はしたくない。 けれど、出来るだけ共に過ごしたい。
嫌がらない領域を見定めて、無理強いとならないように言葉巧みに天を誘い、明日の約束も取り付ける事に成功した。
独りで帰せるはずがない。
おっちょこちょいで危なっかしい、Ω性の愛おしい人を。
「……潤くん、手冷たいな。 寒い?」
瞳を瞑った矢先、潤はビクッと体を竦ませた。
無になろうと頑張っていた潤の左手に、布団の中に隠れていた天がそっと触れてきたのである。
───こんなに、こんなに、頑張っているのに。
同じにおいになった天を抱き締めでもすれば、絶対に太ももに触れてしまう自信があった。
言う事を聞かなかった天が悪いと責任転嫁して、素肌をたっぷりと撫で回す自信しか無かった。
どういうつもりで触れてきたのだと、一瞬だけイラッとした潤だったが、良い方へ思い直す。
天から仕掛けられたのだから、これに乗る手はない。
「静電気が起きないのが分かったから、いっぱい触れちゃうね」
「あ、こらっ……冷たいってば! ちょっ……やめ……あははは……っ」
「ふふ……っ、天くん、くすぐられるの弱いんだ」
潤も布団の中に潜り込み、さすがに素肌には触れられなかったが、ワンピースと化した寝間着の上から天の脇腹を思いっきりくすぐった。
あり得ないほど、細かった。
暗闇の中で響く、天の笑い声がひどく心地良かった。
「弱いよ! 強い人間なんて居ないだろ!」
「え? 僕は平気だよ」
「なにっ? このっ、……このっ……」
「ほらね、効かない」
「すごい……!」
「ねぇねぇ、いつまで起きてるつもり? 早く寝ようよ、湯たんぽくん」
「潤くんが先にコショコショしてきたんだけど! てかそんな名前で呼ぶなっ」
「あははは……っ! ダメだ、楽しくて寝らんない」
緊張して、嬉しくて、ドキドキして、くすぐったくもないのに笑いが止まらなかった。
しかも、天を寝かし付けるという名目でどさくさに紛れて抱き締める事も出来た。
これは天が、仕掛けてきた事。
潤はさり気なく腕枕をして、さり気なくギュッと抱き締めて、さり気なく頭や背中を撫でて、さり気なくおでこにキスをした。
そんな事をしても不思議なほどジッとして動かない天に、「おやすみ」と囁く。
「ん、……おやすみ、五歳年下の潤くん」
「ちょっ……!? 寝る気ないじゃん!」
「あははは……っ」
潤が猛烈に嫌がる一言を放った天は、彼から責任転嫁されているとも知らずに無邪気に笑っていた。
これでまた、 "痛いほど抱き締める" 名目が増えた。
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