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第60話 ─潤─

 我が離れ家とそう大差のない、完全に何もかもから遮断された病室に佇んでいると、世の中から置き去りにされているような寂しい感覚に陥る。  ここへ案内された直後は、潤もだらりと丸椅子に掛けて項垂れていた。  昨日もそうであったが、本能を刺激された体が絶え間ない情欲を湧き立たせて、感情が追い付かないのである。  女性看護師二人がかりでドアにバリケードを張っていてもらわねば、潤はすぐさま天の元へ走っていただろう。  必死で無になろうとしていたほんの数分で、天の呻き声や吐息が聞こえなくなった。  薄っすらと漂ってきていたフェロモンの香りも、まったくしなくなった。  熱に浮かされた天の顔が、狂おしいほど芳しいにおいが、潤の寝間着を恥ずかしそうに着ていた姿と共に記憶に焼き付いた。  何も出来なかった自分が歯痒い。  ここが病院でなければ、本能のままに天を傷付けてしまっていたかもしれない自身の性が、殊更に恐ろしかった。  常に保っていなければならない理性が、甘やかな恋心を覆す寸でのところまできていた。 「……天くん……」  潤がαだという事は、天には絶対に知られたくない。  天が嫌う "支配欲" を満たすべく彼をいとも容易く組み敷き、うなじ目掛けて牙を剥くであろう自らの性がもっと、もっと、嫌いになった。 「やぁ時任くん。 彼、君が連れて来たの?」  天はどうしているだろうと気にかかり、おもむろに立ち上がったと同時に年配の男性主治医が病室に入って来た。  わずかながら入院病棟も併設されたこの内科医院に、潤は十三歳の頃からお世話になっている。  主治医とも看護師とも顔見知りで、事情を説明しただけで時間外にも関わらずすぐに診てくれる事になったのも、真面目な潤が数カ月おきに検診に赴くためであった。  冷静沈着な主治医へ、潤は頷きながら静かに腰を下ろす。 「…………はい」 「彼は、君の恋人?」 「いえ、……違います。 ……友人です」 「そうか。 彼のご両親と連絡取れるかな?」 「スマホを預っていないので……」 「……そう。 昨日打ったという緊急抑制剤は効いたんだよね?」 「それは、……はい。 僕が半量打ったので、天くんにも半量しか打てなかったんですが。 天くんは今どんな様子ですか……?」 「緊急抑制剤の点滴で眠っているよ」 「……そうですか……」  無事であるなら、安心した。  天を抱えて行った若そうな医師は見るからにαの様相だった。 潤は同性なので、忌々しいが何となしに分かってしまう。  潤は主治医を見上げ、恋人ではないけれど天が心配であると全身から滲ませた。  緊急抑制剤でヒートが治まっているのなら、すぐにでも会いに行きたい。 こうして主治医と話している時間さえ惜しい。  だがそんな潤の思いは、彼の説明によって思いきり跳ね返されてしまう。 「ここへ連れて来て正解だった。 むしろ何事もなく君と一晩過ごせたのが奇跡だ」 「えっ……? そ、それはどういう……?」 「彼、発情期に入ってる。 しかも周期を無視した突発的な発情期だから、それがどの程度の期間になるのか私達にも見当が付かない」 「そんな……っ、ちょっと待ってください、それじゃあ僕はどうしたら……!」 「発情期間中は、αである君とは接触しない方がいい。 彼は友人なんだろう?」 「………………っっ」  何度口にしても馴染まない "友人" という言葉に、潤は思わず下唇を噛んだ。  予期せぬヒートを誘発してしまい、かつ緊急抑制剤を半量しか体内に入れられなかった、これらが発情期を促した原因だろうと主治医は語った。 「その……念の為聞いておくけど、彼と性行為は?」 「してないです! 何にも……その手の事は」 「そうか」  αである潤が天の傍に居て何も起きなかった事と、約十時間も効き目があった事の二点に主治医は驚きを隠せないようである。  そこで潤の脳裏をよぎったのは、計十粒も服用した漢方薬の存在だった。  潤が体内の性質を抑え込んだ事により、天はその影響を受けず抑制剤の効き目を安定させていられたのかもしれない。  αとΩは、たとえ番相手でなくとも反応し合ってしまう。  運命の相手と出会った時、そうであると互いがすぐに認知してしまうほどの導きがあると聞くが、そうでなくても本能的に強く惹き寄せられてしまうのだ。  潤は思った。  過ちを犯す前に自衛をしていて良かった。  性別を嫌っていて良かった。  効果のほどを確認したあの漢方薬さえあれば、自分のせいで天の発情を促す事がないと分かって、良かった。 「天くんは……これからどうなるんですか。 入院、とか?」 「いいや、親御さんに迎えを頼んで、自宅で療養だ。 発情を抑える薬で何とか治まるのを待つしかない」 「そんな…………」 「せっかく来てくれたから、君の定期検診もしてしまおうと思うがいいかな?」 「……はい」  それは朝食を断る言い訳に過ぎなかったが、主治医の方からそう言われてしまうと断れず潤は渋々と頷いた。  分かった事がひとつ。  今朝は、一刻も早く天をここへ連れてきたい一心で漢方薬を飲み忘れた。 そのため天は、潤から微量に放たれるαのフェロモンを感じてヒートを起こした。  ……そうとしか考えれない。  それならば、今日は諦めるしかなかった。  誕生日の祝い直しをしたかった。 年越しの瞬間に二人で窓から冬の夜空を見上げたかった。  どうしようもなく会いたいけれど、天の嫌がる事は出来ない。  天は、自身の体が自分のものではなくなるようなヒートは嫌だと顔を歪めていた。  α性である潤は、今日は天を連れ帰れない。 「あ、ちなみに」 「…………?」  はぁ、と溜め息を吐いた潤に、扉を出て行こうと踵を返していた主治医が振り返る。 「彼、すでに番相手と出会っているね」 「────!?」 「うなじを見たところ、まだ誰のものでもないらしいが……それが君じゃないとしたらもっと一緒に居てはいけない。 間違いが起きた後では遅いからね」 「…………ッッ?」  引き戸の扉がじわりと閉じられていく様を呆然と見届けていた潤は、しばらく呼吸を忘れていた。  天はすでに、番となる者と出会っている……?  うなじに噛み跡が無いのなら、そもそも何故そんな事が分かるのだ。  潤には一切分からなかった。 理解が出来なかった。 「そんなの、……そんなの……っ」  天は知っているのだろうか。  誰とも番にはならないと断言していた彼自身に、その自覚は…………。

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