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第79話 ─潤─

 壁を作った天の守りは徹底していた。  避けはしないが、明らかに潤を遠ざけようという意思が見えるのだ。  メッセージを送れば気付いた時に返してくれる。 朝晩の短い通話も許してくれる。  だがこの一週間で言い渡されている事が二つあった。 『もう大丈夫だから、家には来ないで』 『年始で仕事が忙しいからBriseにもしばらく行けない』  自らを天の理解者だと告げてしまった手前、彼の意見を尊重して「分かった」と聞き分けよく返事をするしかなかった。  駄々をこねて、これだから五つも下の男はガキなんだと思われてしまうのも嫌だった。  身近に恋敵が居る以上、幼い振る舞いをして天の二番目の座がさらに遠ざかる事だけは避けたい。 「うぅ……気持ちわる……」  二十一時のバイト帰り、普段なら酔うはずのない電車で具合が悪くなり、潤は度々立ち止まりながら家路へと歩いていた。  天に出会う前からの日々の日課である漢方薬を変わらず飲み続けているせいなのか、体調はそんなに芳しくない。  緊急抑制剤との併用を止めれば、日中も思わず机に突っ伏してしまうほどのこの具合の悪さも、次第に無くなっていくだろうと思っていたのだがそれは甘かった。  今日は土曜日。  週末で賑わうBriseに、本来なら潤は閉店まで居なければならなかったが、この一週間常に顔色の悪い看板店員を放っておけない女性スタッフ達全員から、「心配だから帰って」と半ば強制的に帰宅を命じられた。  隠していたつもりが、そしてそれが今までとても上手だと言われていた事が、潤の悲観と共に表へ出てしまっていたらしい。  天に会いたくてしょうがなかった。  授業中もバイト中も上の空で、帰宅してからも同じベッドで眠った事があるだけに興奮して眠りも浅い。  自宅に横付けされた代行タクシーから降りてきた、顔を赤らめた兄の姿を見ると激しい嫉妬に駆られた。  潤は日々想いを募らせているというのに、豊は毎日天と顔を合わせられるだけでなく、何よりも大切な彼の心をも捕らえている。 「おぉ、潤! 今帰りか、お疲れ!」 「……飲んできたの?」 「そうなんだよ! 美咲の誤解が解けたんで、吉武との飲みも再開したんだ。 マージで、あいつめちゃめちゃ可愛いよな!」 「ちょっ、兄さん、声大きいよ」  酔っ払いと化した兄は、離れ家の方へ向かう潤の背後で大声を上げた。  いくら誤解が解けたからと、そんな危うい発言を大きな声で言う神経が分からない。  美咲が本宅で聞いていてもいけないと、潤は兄の腕を取って一旦離れ家に連れ帰る。 「性別なんてクソ食らえだっつーの、なぁ? 潤もそう思わねぇ?」 「……思うよ」  藪から棒に何なんだと眉を顰めるも、相手は酔っているのでまともに怒りを湧かせるだけ無駄だ。  会いたくても我慢を強いられている潤は、豊が天と飲みに行ったと聞いただけでも余計に具合が悪くなった。 「吉武とまだ連絡取り合ってんの?」 「うん。 これから電話するところ。 天くんにお酒飲ませ過ぎてないよね? 過度のアルコール摂取もアレを誘発しちゃうらしいんだから、気を付けてもらわないと」 「あぁ、大丈夫大丈夫! 吉武は俺より酒強えから、いっつもお開きの合図は吉武が出してくれるんだ。 顔色も全然変わんねぇしな」 「……そうなんだ」  聞きたくない。  潤の知らない所で二人だけの時間を過ごし、二人だけにしか分からない合図があるなど知らなくて良かった。  毎日の通話の様子から、天はあれ以降発情を抑えられていそうだが職場内での事は気になっていた潤が、制服を脱ぎながら振り返る。 「天くん、職場で変わりない?」 「あ〜別に変わったとこはねぇと思うけど……。 そういえば俺があげたマフラーとお揃いの柄の手袋してたんだよな。 そんなに気に入ってくれたのかねぇ。 可愛いヤツだ」  そんなに「可愛い」を連呼してくれるな、と苛ついた潤の動きがはたと止まる。  マフラーをあげた……?  天によく似合っていたあのマフラーを、豊が……? 「……え? マフラーって兄さんがあげたの? どうして? なんで天くんにそんな事するの?」 「吉武って質素な生活してんじゃん。 高卒でもそこそこの給料は貰ってるはずなんだけどな。 いっつも寒そうにしてたから、クリスマスプレゼントにあげたんだよ。 美咲との事で飲み会も無くなっちまったし、吉武には色々話聞いてもらって鬱憤っつーか愚痴も聞いてもらったりしてたし」 「クリスマスプレゼントって……」 「最初は受け取ってくんなかったんだけどな。 俺の気持ち伝えたら、嬉しそうに受け取ってくれた。 マジで可愛かった」  アルコールのせいで、日頃豊の中で抑えていた天への「可愛い」が大放出されている。  語る豊の顔は赤らんではいるが、きちんとその時の事を思い出せるほどには酔っ払っていないらしい。  とにかく潤には、理解が出来なかった。  長年付き合って結婚に漕ぎ着けた、美咲という妻が居ながら他人にプレゼントを贈ったあげく、「可愛い」の連呼とは何事か。  潤は豊に、天への想いは悟らせたはずだ。 それでも尚、豊は天を可愛がる事を自重しない。 「吉武の性別のヒトって、感情によってその都度フェロモン出たりすんのかね? 潤、知ってるか?」 「……どういう事?」 「マフラー巻いてやった時に、いい匂いしたんだよ」 「───ッッ!」 「あれがフェロモンなんだろうな。 初めて吉武のヒートに遭遇した時とは全然違う匂いだったんだよ」  豊は、天が放つ嬉しい時のふわふわとした淡いフェロモンを嗅いだ事があるのだ。  潤だけしか知らないと思っていた、欲の滾らないほのかな甘さを含んだやすらぎの香り。  勘違いしてしまいそうになった原因はその香りも大いに関係していた。  自分だけだと思っていた。  天にこの香りを放たせたのは、自分だけだと。  瞬間、嫉妬によるイライラが頂点に達した。 「兄さん、お願い。 僕から天くんを取らないで」 「……取るも何も俺には美咲が、……」 「お願い。 天くんに優しくしないで。 天くんの心奪わないで」 「………………」 「僕より長い時間一緒に居るくせに、分からないの? 天くんは、……兄さんの事が好きなんだよ」 「……は?」

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