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第83話
気を失っていた天の耳に、木製の玄関を叩く音と天の名を呼ぶ潤の声が聞こえた気がした。 いつもは穏やかそのものなその声が、焦燥感に満ちている。
───そんなに慌てて、どうしたんだろ。
会いたい気持ちが募り過ぎて、夢の中でも潤を蘇らせている。
そう思い込んだ天は火照った体がもどかしくてたまらず、握り締めたマフラーを抱き込んで薄まった彼の匂いを感じようとした。
潤に会いたい。
会いたい。
会いたい。
誰の事を好きでいてもいい。 何もしてくれなくていい。
ただ……そばに居てほしい───。
「……そ、……それ、……僕の……!」
冷え切った室内で、頬を真っ赤に染めた天の頭上で焦がれた声がした。
重たい目蓋を無理やり開いて見上げてみると、学生服を着崩した潤その人が何とも切なげに天を見詰めている。
掌で口元を覆い、見慣れない服装だとしてもその匂いと声でそれが潤だと分かった。
「んっ……、? 潤、くん、っ? なんで……? なんで、ここに……」
「ちょっと待って。 抑制剤、打つから。 これ……ヤバイ」
……抑制剤? なぜ抑制剤が必要なのだ。
ポケットから通り出した四角いケースから、清浄綿とアルコール綿のパッケージを取り出す潤をぼんやりと眺める。
虚ろながら、天はまだ酔っ払っているだけだと思い込んでいた。
この体の火照りも、呼吸の乱れも、立つ事はおろか起き上がる事も出来ない不調も、ヒートに似ているとは思ったが少しばかりそれとは違ったのだ。
闇雲に欲情しているのではなく、潤に会いたい切なさが胸を苦しくさせている。
また触れてほしいと願ってしまうから、彼の手付きや指先を思い出して下腹部が疼く。
己からフェロモンを垂れ流している自覚など、天にはまるで無かった。
「あ、ちょっ、!? 天くん!」
潤は、必要の無いものを準備しようとしている。
じわじわと腕を伸ばし、潤の掌から抑制剤の入った小箱を奪いマフラーと一緒に抱き込んだ。
これがたとえ酔いのせいではなくとも、ヒートなど起こしていない。
発情もしていない。
自身が放つフェロモンは自分では感じられないけれど、本当にそうならもっと激しい動悸で意識さえ奪われている。
天は潤に会いたくて、一番近くで声を聞きたくて、すぐには叶わないそれがもどかしくて、…… “二番目” が嫌だっただけだ。
「いい、……っ、打たなくて、いい……」
「何言ってるの! 僕ヤバイんだってば!」
天に奪われた抑制剤を取り返そうと、潤も躍起になって動く。
学校指定と思しきコートと、大急ぎでここに飛んで来た事が分かる胸元の空いたカッターシャツ姿にドキドキした。
潤の匂いが薄らいできたマフラーよりも、本人からは天の欲する匂いがする。
潤が動く度に、ふわふわと漂うその香りが天の鼻腔と本能を刺激し、気が付くと伸びてきた腕にしがみついていた。
「潤くん……、潤くん……」
「……ちょっと、……天くん。 ほんとに、……僕、……っ」
「…………潤くん……」
潤の声が、切羽詰まっていた。
フェロモンが出ているというのは本当なのかもしれない。
同性を除く性別問わず狂わせてしまうΩのフェロモンが、潤の苦悶の表情を生み出している。
今まで、このはしたない自らの性別が大嫌いだった。
誰かれ構わず誘惑し、天のような男性であっても貫かれる喜びを待つ特殊な性が、本当に嫌いだった。
潤に触れられ、ついに拓かれたΩの秘部。
彼にならいい。 彼になら、怖くてたまらなかったΩとしての欲を曝け出しても構わない。
もしも自らが、β性である潤の事も誘惑出来ているのなら……彼が後悔しないよう、フェロモンに狂わされたという言い訳を取って付けさせれば、それこそが「慰め合い」になるのではないだろうか。
「潤くん、俺、……、二番目でいい。 潤くんの二番目でいい……」
「えっ? そんな、……。 ダメだよ。 ……抑制剤返して、天くん」
「……ヤだ」
「天くん!」
「ヤだ……ヤだ……! 返さない!」
「天くん!!」
「───っっ」
潤の放った怒声に、全身が竦んだ。 瞳も怖かった。
抑制剤を取り上げようとする潤の動きも力も、本気でしかなかった。
ビクついた天は、さらに丸まって潤からの視線を交わす。
二番目さえも許してくれず、どうあっても抑制剤を取り返して天を慰めてくれるつもりのない潤の気持ちを感じると、「どうして」「何で」の思いでいっぱいになった。
「ごめん、大きな声出して。 驚いたよね、ごめんね。 でもダメなんだよ、僕だけでもいいから打たせて」
「なんで……? 俺、二番目で、いいって……」
「傷付けたくない。 天くんの心も体も、傷付けたくな……!」
チラと潤を窺った天は、潤からの優しい拒絶に絶望しながら体を起こし、後ろ手にマフラーと抑制剤を隠して彼の唇を奪った。
あれだけ重たかった体が、不思議なほどに容易く動いた。
「……なんで……」
天からの突然のキスに、潤は言葉を失くしている。
瞳を見開いて天から何歩か遠ざかると、胸元を押さえて苦しげに天を射抜いた。
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