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第1話

 婚約者が決まり、喜ばしい事だと皆が言った。だけど、俺にとっては喜ばしい事なんて一つもなかった。  経済的な理由で、俺の家が彼の家に援助をする代わりに、俺が彼の家に嫁ぐ。  政略結婚で、愛のない生活。  まだ、高校生だ。きっと、これから好きになる人も出来ただろう。けれど、もう、誰とも恋愛なんて出来ない。  だから、せめて彼を愛そうと決めたのに。  彼には恋人が居た。俺じゃ無い。俺の、双子の兄、遙真。綺麗な、オメガ。  だけど、父が彼の婚約者として選んだのは俺だった。当然俺は罵られた。  だけど、平凡で野暮ったい俺と綺麗な遙真ではどちらを、援助する側の嫁に出すなんて決まっている。  綺麗な遙真にはまだ、利用価値があるからだ。  俺を、体よく処理したに過ぎない。  どれだけの人が、不幸だというのだろう?  どれだけの人が、幸福だというのだろう?  俺は学校でも最下層の人間で、オメガの中でも目立つ存在ではなくて、そんな俺を父が疎ましく思っていることも知っていた。  家では、兄の朔真だけが俺の味方だった。味方、と言う言い方は可笑しいのかもしれないけれど。  父も母も、兄や双子の兄だけをかわいがって俺を視界に入れようともしない。俺は、家の中でも腫れ物を触るように扱われていた。けれど、朔真だけが俺と遙真を区別することなく愛してくれた。  そんな朔真に迷惑はかけたくなくて、わめく事もしなかった。入れられた学校でも、ただひたすらに、目立たないように過ごしてきたというのに。勉強だって、発情期に負けず頑張って、恥ずかしくないくらいの点数を取ってるのに、俺はやっぱりオメガで平凡と言うだけで、扱いが変わってしまう。  婚約者、泊は俺と同学年で、生徒会長を務めているアルファだ。  こんな事が無ければ、俺なんかが視界に入るような人間じゃない。  それだけ、有名で人気の高い人だった。  花組でも有名だった遙真と付き合っていると噂を耳にしたときは納得した。  遙真はかわいい、理想のオメガだから。  母さんに似た女顔に、低身長。明るい性格で、この学校のどんなオメガにも引けは取らない。  俺なんて、比べ物になるはずが無い。  はぁ、と発情期の情事後、ため息を吐いた俺はベッドサイドに置いてあったメガネを取ると、少しだけ一緒に眠っていた泊の顔を見てからベッドを下りた。  寝ている泊の口がもごもごと動く。それを見て俺は舌打ちを一つすると、泊の部屋を出て向かいにある自分の部屋へと戻る。  朝は、ともかく顔を合わせるかもしれなくて、出来るだけ正気の時に一緒に居たくは無かった。  シャワーを浴びるための準備をして、自室を出て浴室へと向かう。  ざっと、熱いシャワーを浴びれば、苛立ちも治まってくる。中に出されただろう物は掻き出されていて、毎度ホッとする。毎回、泊は子供を早く作りたいがためなのか、ゴムを付けた事など無かったから。子供が出来さえすれば、俺は用済みになるから。  けれど、俺の腹は、腹までも出来損ないのようで、何度か発情期の度に肌を重ねているが、一向に孕む気配すらない。病院にもかかった事はある。出来にくい体質だとは言われた。  それもそうかも知れない、と納得は出来た。普通のオメガ、まあ知っているのは遙真位なのだが、遙真と比べて俺の発情期は軽すぎる。抑制剤を飲んでしまえば、普通の状態と変わらないほどに。それゆえに、発情期は来ても子宮が働いていない状態が稀にあるらしい。だからこそ、閉じて受け入れない状態では、妊娠などしない。無意味かもしれない行為を毎度強いられるのは苦痛でしかないのだろう。泊は、俺を抱いていても、俺の名前なんて呼んだ事はない。けれど、寝言ではいつも恋人であった遙真の名前を呼んでいた。俺の名前を覚えているかどうかも怪しいところだ。  わふっ、とシャワーを浴びて出て、部屋に戻りベッドへと飛び込めば、欠伸が漏れる。  まだ、発情期のための休暇は残っており、明日……時間的には今日だが……も、実質休みのわけで、とりあえず眠ろう、と発情期で失った体力分、眠る事にした。  今は、この部屋だけが俺の安心できるスペースだった。  実家の部屋は粗方片付けられてしまっていて、俺の帰る場所は無い。  泊の実家に伺っても、俺は歓迎されていない様子で、使用人たちの態度も冷たく、泊のご両親は俺をどう扱っていいのかわからず、腫れ物に触れるように俺と接した。  泊の家では、当然のごとく俺は泊の部屋へと案内されて、四六時中とは言わないが、一緒に居る事が多く、一人になりたくてもなれない。  ここだけが、卒業と同時に失われると解っていても、ここだけが唯一安心できる場所だった。  ほう、とため息を吐いて、目を閉じた。  自我を失う事のない俺にとっては、フェロモンのせいで外にも出る事が出来ない発情期が何よりも嫌いだった。  目が覚めれば、日は高く昇っていて、はぁ、と再びため息を吐いた。  時計を見れば、12時前であることが伺える。たぶん、泊は学校だろうと目星をつけて自室を出た。  冷蔵庫の中に、発情期の前に買っておいた簡単に調理できるレトルトを見つけて、暖めて食べた。  発情期も、もう終わるし大丈夫だろうと自室に戻る。  発情期の最中は、決して自室に戻ったりしないで、泊が帰ってくるのを、ただじっと待つだけだったが。きっと、これで発情期が終わった事にも気がつくだろう。毎回の事だけれど。  次の日、疲れた体を引きずって学校に行けば、好機の目にさらされる。  当たり前だろう、あの泊会長の婚約者が一週間休みを取り、部屋から出ないとなれば発情期に決まっている。  下世話な話と共に、遙真に対する同情の嵐だ。  今更、父の考えなど変えようも無い事なのに。俺が、悪いわけじゃ無いのに、世間一般的には俺が悪い事になってる。  机に着くと、はぁ、とため息が漏れる。そうして、一週間休んだとして誰もノートなど貸してくれるわけも無く、次の授業の復習をする。  一応、次の学年の勉強を終わらせているので、勉強に遅れるという事はないが、やはり精神的にはきついものがある。  これが、一般生徒なら大変な事だろうが、俺は幸いかどうかはわからないが、相良の生まれだった。  日本有数の相良の家では、幼い頃からの英才教育を受けられた。  だからこそ、俺は今でも一人なのかもしれないけれど。  そんな、帰り。俺は、暗闇に閉じ込められた。  訳も解らず、手が伸びてきて犯された。  笑い声が、響く中、必死に抵抗しても無駄だった。  犯され、気がついたら放置されていた。  気がついたときには、閉じ込められて無かったからのろのろと起き上がって部屋に戻った。  無感動に、シャワーを浴びて中に出されたものを掻き出してベッドへと潜る。  もう、何も考えたくは無かった。  犯されているとき、どうして俺がこんな目にあわなきゃいけないんだって何度も思った。  体中痣だらけで、肛門に至っては切れている。  終わってみれば、誰も心配なんかしない俺がただ欲望のはけ口になっただけ。  孕みもしないから、ちょうど良かったのかもしれない。  それから何度も、俺は暗闇の中に引きずり込まれた。  泊にも、風紀にもバレないように巧妙に。そして、俺はだんだんと心が死んでいった。  心を持つから、傷つく。感情があるから、抗う。  だから、心を持たない、感情が無い、人形になってしまえばいいと。  そうすれば、楽だった。  何をされても、俺じゃ無い。人形が、人の形をしたモノが、受け止めてくれる。  それが、泊にバレた。  バレて、俺が罵られた。淫乱と、淫売と。  俺は、可笑しくて、苦しくて仕方なくて、気がついたら果物ナイフを手に持って、それを自分に突き立てていた。その間に、何か口に出した気がしたけど、覚えてない。  意識を失う直前、焦ったような泊がこちらに手を伸ばしてくる様が見えて、その様子が可笑しくて笑った。  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇  サイド:泊  発情期が過ぎてから、久しぶりに見た悠真の姿はボロボロで、犯された痕がいくつも見え隠れしていた。きっと、犯されたのは今日が初めてではないのだろう。俺は、はっ、と鼻で笑うと悠真を罵った。  お前なんかが、婚約者では恥だとも言った。  俺は、正直悠真が好きではなく、できる事なら遙真と婚約したかった。  だからこそ、こいつを嫌った。  でも、それは間違いだと、悠真のせいではないと気がついてはいたのに……。 「はっ、ははっ!そんなに俺が邪魔かよ?なら、お望みどおり消えてやる」  そう言って、キッチンに回った悠真は、果物ナイフを取り出すと、そのままためらいも無く自分の喉元へと突き刺した。  一連の流れに、一瞬脳が理解を示さず、行動が遅れた。  倒れかかった悠真に手を伸ばすももう、遅い。  慌てて、救急車を呼びながら傷口を抑えた。寮の管理人にも連絡して、救急隊員が来たら、すぐにこの部屋に通すように言って。  抑えても、後から後から流れ出てくる血に、駄目かもしれない、と青くなりながら必死で抑えた。  キッチンに有ったタオルや、布巾なども全て合わせても足りないくらいで……。  怪我人が二人いると思われるぐらい、俺は悠真の血でぬれていた。  搬送された悠真は、直ぐに手術室へと入れられ、一命を取り留めた。  が、喉元を突き刺したために、声帯を傷つけ、声を失ってしまった可能性があると。  悠真が目覚めてみない事には、なんともいえないが、と医師は言う。  切れた血管や神経は、綺麗に縫えたらしく、後遺症はあまり残らないだろうという話にはホッと息を吐けた。  相良のおじさんと、連絡は取ったが、見舞いに来るつもりは無いらしく、入院の手続きについてと、それから、俺に迷惑を掛けたというだけだった。  その対応に、少しだけイラついてしまった事は、言うまでもない。  が、堪えたのは次の日だった。  海外に居たらしい、悠馬たちの兄、朔真さんが病室に乗り込んできたときだ。  事の次第を話せば、一発殴られた後、言われた。 「解った。お前と遙真の件は俺が親父に直談判して、どうにかしてやる」  アルファでも、上位に位置し、尚且つ年上と言うこともあり、プレッシャーで押しつぶされそうになりながらも、俺は懸命に声帯を震わせて言う。 「あ、あのっ!」 「あ?まだ居たの?誰も来なかったから帰れなかったんだよな?俺が来たからもういいわ。帰れ。二度と悠真に近づくな」  そうじゃなくて、と声を上げた俺。  そうする事で、プレッシャーが強くなったが、負けてばかりいられなくて。 「お、れは、もう一度、チャンスが欲しい、です」 「チャンス、だと?」  その言葉に、俺は頷く。 「悠真と、向き合うチャンスを、ください」  俺は、土下座する勢いで頭を下げた。  俺は、どうしても悠真と話がしたかった。  それに、知りたいと思った。どうして、意識を失う寸前、死ぬかもしれないというのに、笑ったのか。  そんな俺を見て、朔真さんは少し考えた後、言った。 「……それは、悠真しだいだ」  目覚めて、悠真の意思を確認するまで、まってくれるということだ。  俺はもう一度、深くありがとうございます、と朔真さんに頭を下げた。  しかし、容態が安定してきて、一般病棟に移った悠真が一週間たっても、二週間たっても目覚める事はなかった。  医師が言うには、目覚める事を本人が拒否しているのだと。  それを引き戻すために、声をたくさん掛けてあげてくださいといっていた。  この病室に見舞いに来るのは、俺か朔真さん夫婦ぐらいだった。あとは、誰も来た覚えが無い。  双子の兄弟で、前まで好きで仕方が無かった遙真でさえ弟がこんな状態なのに、見舞いに来る気はさらさらないみたいだ。  居なくなったのを幸いと、俺にアタックしてくるが、それを俺はやり過ごして日を空けずこの病室へとかよう。  前までは、嬉しくて仕方が無かった遙真の行動も、今じゃ鬱陶しくて仕方が無い。  こうして、俺は今日も悠真に語りかける。 「悠真、夏も終わりだって言うのに、まだ今日も暑い。お前がいつも先に帰ってクーラー付けていてくれたおかげで、俺は快適に過ごせていたんだな。ありがとう」 「悠真、今日は紅葉を拾ってきた。まだ、青々とした葉が生い茂ってるのに、これだけ早めに紅葉していたみたいだ」 「悠真、今日窓を開けたら、一面真っ白でな。夜中の内に降り積もったみたいだったが、すげぇ感動した」  いろいろ、その日に起こったことを話しかけて、4月を迎えた。  俺は、大学生になり、悠真は留年が決定していた。  だが、目覚める見込みが無い悠真だ。相良の家は、悠真を中退させる事に決めたらしい。  その日、俺は、桜並木を歩き、大学から直接悠真の病室まで来た。 「悠真、春になったな。スーツ着て、大学の入学式に行って来た。まだ、卸したてで着られている感が半端無いよ」  そう言って、俺は悠真の額にかかる髪を何の気なしに払う。  すると、ムズ痒がる様に少し首を動かした悠真がゆっくりと、その目を開けた。  思わず、悠真!と叫ぶが、悠真の瞳が俺に剥く事は無く、とりあえず医師へと連絡をとナースコールを押した。  医師の診察により、悠真の視力・聴力が失われているだろうという事、そして目覚めてはいるが、精神的には全く目覚めているとは言いがたい状態の事を聞かされた。酸素吸入器は、継続して使用するとの事だ。意識があるようでない今、外す事は出来ないという。  目を開けているというのに、夢の中に居るようなそんな状態なのだという。  そんな、悠真に俺は今までどおり声を掛け続ける事にした。そのほうが良いと医師も言った。  ただ、目覚めた悠真との接し方は変わった。  まず、少しずつだが食事が出されるようになった。ただ、眠っていたために本当にほんのりと色がつく程度のおかゆからだったが。  それすら、口に入れて食べてもらえるまでに少しかかった。  悠真は、見えていないし聞こえていない。何が起こっているのかわからないからだ。  今までは、寝ている悠真に語りかけるだけだったが、起きている時には、その体を起こして、支えながら近くで話す。  聞こえているかどうかは別として、生きていると感じられるそれがとても安心できた。  ぐったりと起き上がる意思のない体でも、温度がそこに悠真が生きていることを伝えてくれた。  時折、車椅子で少し外を散歩したりもする。  やはり、反応は返ってこないけれど、外を一緒に出歩いた事もなく、俺にとってはデートと同じ感覚だった。でも、するなら本物のデートがしたいとも思ってしまう。欲張りな事だ。  その日も、いつもの様に大学の合間を縫って悠真に会いに来ていた。  何気ない日常の中、ふと思い出したように告げる。 「お前との婚約、結婚式も何も挙げないけれど、書類は提出する事になった」  前々から準備だけされていたそれを、役所に提出する。  病院の入院費は持つが、これ以上厄介者はいらない、と言った相良の判断だった。  あの、朔真さんだけが反対していたが、それも押し切られた。  相良の、現当主である義父に。  その話をすると、ぴくっ、と悠真の指が動いた。  そうして、目覚めてから何も映そうとしていなかった瞳が俺を捕らえる。 「……?」  とても、小さな声でささやく様に呟かれたそれ。久しぶりに聞く、悠真の声に間違いは無かった。  ――それで、いいのか?  そう、真っ直ぐに見つめられて呟かれたそれ。  俺は、涙が出るほど嬉しかった。 「……俺は、お前があの日自分を刺してから後悔の連続だった。  お前は悪くないのに、お前のせいだって責任転嫁したりして、お前を傷つけて。  本当は、守ってやらないといけない立場だって言うのに、お前を余計追い詰めて……俺、本当に何やってたんだろうな?  婚約したなら、お前を素直に愛する努力をすればよかったって、お前が寝てるとき何度も何度も思った。  お前と、向き合いたいと思った。  なぁ、悠真。お前からすれば俺は怖い人間かもしれない。  でも、それでも俺はお前に必要とされたいと願った。  願ってしまえば、叶えたいと思った。  叶えなきゃいけないと思った。  それが、アルファのオメガを守りたいとする本能なのか、俺自身の意思なのか、今もまだわからない。  でも、お願いだ。一緒に居させてくれないか?」  俺と共に、生きてくれないか?  そう、悠真を気がつけば抱きしめていた。悠真が、腕の中で小さく身じろぎをしたと思って少し体を離せば、その頬には涙があふれていた。  その涙をぬぐう為に伸ばした手が、途中で止まる。  悠真の首が、一度だけ縦に動いたから。  それを見て、俺の頬にも同じように涙が伝った。  悠真を今度はゆっくり、優しく抱きしめる。  ありがとう、と。 「……まずは、この病院から出るところから目標にしてみようか」  そう言うと、もう一度悠真の首は縦に振られた。  それが、また嬉しい。 「悠真……」  そう呼べば、悠真は何だよ?とでも言いたげな顔をして真っ直ぐに俺を見上げてきた。 「おかえり」  悠真は、その言葉にしばらくの後、くしゃっと何とも良いがたく、微妙に僅かに笑った。  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  サイド:悠真  俺が明確に意識を取り戻してから、1ヵ月後。  いろいろと問題ありで、通院の必要もあるがとりあえず退院する事が出来た。  普通の食事、よりは少し消化のよい物をと言われている。  体力も、通常の半分も無い。直ぐに疲れてしまう。  それでも、自分で立ち上がることが出来るようになったし、食事も出来るようになって、点滴の必要も無くなった。  あの、居心地の悪い空間に帰るのは正直否だったが、仕方が無い。  入院している最中に、学校は退学の形をとっていて、当然のことながら俺の荷物も何もかもが全て泊の実家にあるだろう。  退院の間際に、はぁ、とため息を吐けば、心配するな、と頭を撫でられた。  卒業して、大学生になってからまた伸びたらしい泊。俺は、眠ってばかりで成長も止まってしまっていた。もともと、オメガ故に成長も、あまり期待は出来なかったが、男としてのプライド的にはやっぱり悔しい。  タクシーに乗せられて、着いたのは真新しい分譲マンション。  中にはコンシェルジュも常駐しているようで、おかえりなさいませ、と声を掛けられた……らしい。  俺は、目が覚めてから一度も泊以外の声が聞けていない。  過度のストレスによるもの、らしいけれど、泊の声だけ聞こえてくるとは中々に便利なのか不便なのか。  おかげで、読唇術みたいなものを軽く覚えてしまうところだ。  医者と話すときも、泊に通訳してもらったり、何かに書いてもらったりして説明を受けていた。  これが鍵、と見せられたカード。それを泊が玄関ホールのインターフォンに差し込めば、ピッと音がして自動ドアが開いた。泊は、慣れた手つきでマンションフロアを選択する。  降りた先には、玄関のドアが二つしかなかった。  玄関から近いほうのドアの鍵穴にカードを差し込むと、再びピッと言う音がしてガチャン、と鍵が開いた音がした。  どうぞ、と開かれた部屋の中に恐る恐る足を踏み入れる。  玄関でももう広い。  きょろきょろとあたりを見回していると、後からくすくす笑う声が聞こえてくる。 「相良の家に比べたら、物珍しいことなんて無いだろう?」 「いや、でも……」  声の出し方を忘れてしまった俺は、小さめの声でそれが精一杯の声量だった。  そうして、戸惑う俺を仕方ないな、と抱えた泊。  暴れてみても、効果はいま一つの様で疲れて直ぐに止めてしまった。  靴を脱がされて、中へと案内される。広々としたリビングダイニングに、対面式のキッチン。  大きな窓の外には、広々としたテラスが広がっている。  高層マンションなどが回りに無いため、見晴らしも凄くいい。  わぁ、と小さな声が漏れる。  それに気分を良くしたのだろう、こっちだと案内された場所。  基本的に自然の温もりが感じられるようなデザインの部屋で、その部屋の中には見覚えのありすぎるモノたちがあふれ返っていた。 「お前の部屋な」  そう、言われて思わず俺の?と聞き返してしまう。 「そう、悠真のだ。何なら後でこう……プレートでも下げておくか?」  そう笑った泊に、からかわれていると知ると、いらない、と全力で拒否して一度殴った。  筋力の衰えた拳では、全く痛くも無いだろうが。  そして、その隣の部屋に入る。 「ここが俺の部屋。隣にしたから。リビングからも近い。大学の勉強とか、仕事関係とか、基本的にはここでやるから。何かあったら、直ぐに呼べよ?」  そう言って、ダークオークの家具でそろえられていたその部屋を出る。  キッチンのほうへ行き、キッチンに入る少し手前に、ロフトの階段がある。 「ここは、今ほとんど何も無いけど、物置にしても良いし、子供部屋にしても良いと思ってる」  子供、と聞いて、ハッと俺は泊を見た。  そんな俺の様子に、いい、知ってるから。と笑って頬にキスをしてきた。 「絶対に孕めないって訳じゃ無い。まぁ、その辺は気長に考えれば良いさ」  そう言って、ロフトを降りてしまう。  ロフトから降りたら、次に水周りを案内されて、リビングから遠い部屋を開いた。 「ここが、俺たちの寝室」  そこにはキングサイズぐらいのベッドが置いてあり、結構広々とした部屋だった。  クローゼットも完備されていて、左を開ければ泊の、右を開ければ俺の服が収納されていた。  意味も無く感動していると、ベッドの上にそっと降ろされた。 「今日から、ここがお前の家で帰る場所だ」  どうだ、気に入ったか?そう言った泊に俺は、頷きを一つ返した。 「じゃあ、言う事があるだろう?お前の家なんだから、帰ってきたら?」  帰ってきたら……?そうして、少し考えた後、 「ただい、ま?」  と、言った。 「そうだ、おかえり」  半信半疑だったが、泊に抱きしめられて、正解だと気がつく。  ただいまもおかえりも、久しぶりすぎて忘れていた。  そして、言葉にする事によって、ここに帰って来るんだという実感が、ここが俺の家になるのだという感覚が、今実際に理解できた気がした。  それから、俺はこの家で泊……ヒロを待つ生活だ。  ヒロ、と呼ぶようになったのは、結婚したから。自分も泊になったのだから、名前で呼ぶようになった。  俺は、生活をまだ自分で満足のいくようにはできない。だから、その間、家政婦の砌さんが来てくれている。  砌さんは、少し白髪交じりのおばあちゃん、と言うには若すぎる人で、とても優しく、時には旦那さんの話も聞かせてくれる。  俺がやりたいと思ったことには、どれだけ時間がかかろうとも手を出さないで見守ってくれる。  本当に、ありがたいと思う。  いい人だとヒロに言えば、そういう人を選んで雇ったのだといった。ヒロ自らが。  不覚にも、愛されていると感じてしまった。  そんなある日の事だ。  俺は、いつもの様に砌さんとヒロの帰りを待っていた。  砌さんの声は俺には聞こえないけれど、いつもゆっくり話したり、紙に書いてくれたりする。とても穏やかな砌さんは母親みたいで、話しているととても楽しい。  そんなおり、インターホンが鳴った。  ヒロは、鍵を持っているからチャイムは押さないし、何か無い限りはインターフォンが鳴る筈もない。  少し、驚きながら砌さんと顔を合わせてどうしようか悩む。  とりあえず、砌さんがインターフォンを取った。  どきどきと言った心臓の音が聞こえて来る様だ。  砌さんは、少し困ったような顔をして、俺に顔を向けた。  ゆっくりと、口を開いて教えてくれるのは、誰かがここに来て、叫んでいるという事。  どういうことだろうと、首を傾げて首を横に振った。  帰ってもらって、と言う言葉と共に。  勝手に、ヒロが居ないのに勝手に家に上げるわけにも行かない。  そう、伝えると砌さんは頷いて、一言二言言うと受話器を置いた。  砌さんによれば、そう伝えてもらったものの納得せず、暴れているという事。  コンシェルジュに迷惑を掛けてしまうが、仕方が無い。  ヒロが帰ってきたときに話してみることにしよう。  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇  サイド:泊  マンションの玄関ホールに着けば、くたくたな体に衝撃が走る。  見れば、遙真だった。 「……遙真か、何のようだ?」 「冷たいんじゃない?恋人に!」  お前とはもう別れただろ、とため息を吐きたくなる。  いや、実際に吐いていた。 「どうしてここに?」 「……僕、結婚する事になっちゃったんだ。だから、博之、助けて?」  そう言って、腕を絡めてきて上目遣いをする遙真に、俺はため息をもう一度はいておめでとう、と言った。  それを言ったとたん、遙真はショックを受けたような顔つきになった。 「僕が結婚しちゃうんだよ!?それでも良いって言うの!?」 「言いも何も、お前は、悠真の兄で俺の義理の兄だろう?」  暗に関係ない、と言うと俺は再びエレベーターへ向かって歩き始める。  その腕を再び引き止める遙真。 「悠真がそう言わせてるの?」  そうなんでしょ?と言う遙真の顔は薄暗くて、ぞっとした。  慌てて、その腕を振り払う。 「何言ってるんだ、お前」 「だってそうでしょ?アイツが入院してから、博之の様子がおかしく成っちゃったんだし」  だから、と言った遙真に舌打ちをして携帯を取り出すと、朔真さんに電話を掛ける。  直ぐにつながったそれに、遙真が来ていること、悠真が危ないかもしれない事を伝えると直ぐに来るといって電話が切れた。  それに焦ったのは、遙真のほう。たぶん、誰にも言わずにここに来ているのだろう。連絡を入れれば、連れ戻されるのは必須だ。  慌てて逃げようとしたその腕を掴んで、離さない。  朔真さんが来るまで、そのまま待っていた。  だが、あの義父が居る限りはまたここに来るだろう事は予想がついた。  ため息を吐きながら、それでもセキュリティを万全な場所にして良かったと改めて思った。  朔真さんの車を見送ってから、俺はエレベーターへと向かう。  ただいま、と玄関を開ければおかえり、と悠真の出迎え。  俺は、とっさに悠真を抱きしめた。 「落ち着く……」 「何の話だ?それに、ヒロ何か……変な匂いする」  なるべく話す様になった泊りから、俺は先に風呂に入って来いと背中を押された。  普段、悠真はそんな事は言わない。  ならば、遙真のフェロモンが少しついていたのかもしれない。あれだけ、近くに居たから。  悪いな、と言って俺は先に風呂に入る。  着替えは、悠真が用意しておいてくれるからそのまま風呂へと向かった。  風呂から上がると、砌さんの作ってくれたご飯を向かい合って食べながら話をする。  何気ない、その日何をして過ごしたかなんかを話すのだが、今日は少し不安そうな顔をして話す。 「誰か、解らないがここに来た見たいなんだ。ただ、誰か解らなかったし、お前が居ないのに上げるわけにも行かなくて、帰ってもらったけど……」  それが、俺には遙真だとすぐに気がついた。  きっと、遙真の声は悠真には聞こえていないし解らなかったのだろう。  俺は、伝えるべきかどうか迷って、それでも正直に今日玄関ホールで起こった出来事を説明した。  悠真は驚いたような表情をしていたが、どこかホッとしたようなそれと、不安げな表情になった。  だから、俺は言葉を重ねて態度に出す。  もう、二度と間違いたくは無いから。 「俺は、お前を愛してる。悠真」  だから、不安になる必要は無いのだと。  悠真は、少し俯きながらも頷いた。今はまだ、それでよかった。 「……俺は、お前を信じてる」  少しためらった後、悠真は顔を上げて真っ直ぐに俺を見ていった。  凄く、うれしかった。  俺が思わず嬉しさを表情に出せば、悠真はとても驚いたような顔をした。  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  サイド:悠真  その日は、二人で出かけようと前々から決めていた日だった。  早く歩く事もできない俺に合わせて、ゆっくりとウィンドウショッピングを楽しんだり、フードコートやカフェなどでお茶したり、俺にとっても楽しみな一日。  そうなるはずだった。  コーディネートを決めて、二人で家を出た。まぁ、コーデを決めるのはヒロの役目なんだけど。  今日は、映画を見た後、少し欲しいものがあったから、映画館の下のショッピングモールで俺たちは目的のものを物色し、俺が疲れてしまって休んでいたときの事。  直ぐそこで、ヒロが飲み物を買ってくるというので、おとなしく座って待っていると、現れた怪しげなとても柄の悪い二人組み。  何かを話しかけてきているようだが、俺にはさっぱりわからず、再び下を向いてヒロを待った。  話を聞かない俺に、激昂したのか、乱暴に腕を掴んできてとっさに抵抗するけれども、その腕が離れる事は無く、焦る。  声を出したところで、この騒がしい店内の中、届くはずも無いと諦めて、それでも諦め生きれずに抵抗を重ねていたら、周りがクレーターみたいになっている中、ヒロが慌てたように戻ってきた。 「悠真!!」  そうして、近づいてきたヒロは俺の腕を掴んでいる男の手を離すと、俺を抱きしめた。  それに俺がホッとすると、ヒロの来た方向に遙真の姿を見つけた。 「ヒロ、助かった……」  流石に、俺が限界でもう立っても居られなかった。  ぜーはー、と荒い息を繰り返し、ぐったりとヒロの腕に身を預けた。それを、ヒロは難なく抱えてくれる。 「これは、一体どういうことだ?」  ヒロの、怒気が増していくのが解るが、自分に向けられているものじゃ無いから、俺はただヒロが怒っているという事しか解らない。  けれど、それを宛てられた周りはたまったものじゃ無いだろう。  俺は、フォローしようにもつかれきってしまっていて、何も出来ず終には意識をなくしてしまった。  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇  サイド:泊  飲み物を買いに、疲れた悠真を置いて近くの自販機まで歩いた。その途中、遙真がにっこりと笑って俺に飛びついてきた。 「博之!これで、邪魔者は居なくなるよ」  とても楽しそうに笑う遙真。  俺は、そんな遙真を引き離して、無視しようとして慌てて悠真の元へと引き返す。  遙真が、そんな俺の腕を掴んで引きとめようとする。 「どこ行くの?俺がここに居るのに」 「黙れ、お前に関係ないだろ!」  離せ、と俺は力いっぱい遙真の腕を引き払う。  そのまま、人ごみの中悠真の元へと向かう。  悠真は、きっと遙真が雇ったんだろう、二人組みの男に腕を掴まれていて、見た瞬間に頭に血が上った。  悠真をその二人組みから引き剥がすと、抱きしめる。悠真が無事だという事を確かめたくて。  悠真は、俺に助かったと言うとそのまま気絶するように俺に体を預けて眠ってしまった。  そんな悠真の体を抱き上げながら、二人組みを俺は睨み付ける。  一体、どういうことだ?と。  二人組みは、聞いてねぇよ!とか、フリーのオメガだって聞いたから……などと言って、俺に言い訳を始める。  それはそうだろう、番の居るオメガに手を出せば、それなりの報復が待っている。  それに、俺はそれなりに上位のアルファだ。まだまだ、上には上が居るとはいえ、一介のアルファには負けない。  二人組みは、ハッとして俺の後を指差すと、そいつに頼まれたんだ!と言った。  振り返れば、そこには歪に笑う遙真の姿。  その姿をにらむ。 「どうして、邪魔をするの?そいつさえ居なくなれば、僕と一緒になれるというのに!」  そう言って、伸ばしてくる手を振り払う。 「お前は何も解っちゃ居ない。……代償は払ってもらう」  それが、たとえ未遂だとしても、自分のオメガに手を出されたのは確かで、そのアルファに命じたオメガも同罪だ。  悠真の兄だからと言うのは関係ない。俺は、この国の法律に基づいて報復する。  たとえ、それを悠真が望まなくても。これは、アルファとしての俺の性だからだ。  反対されるのは目に見えているから、ばれないようにやるが。 「名を明かせ」  ふと、にらみ付けた二人組みは、躊躇う様子を見せつつも、俺と言う上位のアルファには逆らえないようで、ボツボツと名を明かした。  その名前をしっかりと刻むと、俺は悠真を抱えたまま歩き出す。  タクシーに乗って、住所を告げると俺は携帯を取り出して朔真さんに連絡を取る。 「……朔真さん、すみません。俺の不手際でもあるんですが、悠真が遙真に襲われました。幸い、怪我は無かったのですが……」  事の次第を伝えると、朔真さんは少し息を呑んでから言った。 『……そうか。遙真の件は俺から親父に話しておく』 「出来れば、もう二度と野放しにしないで下さるとありがたいのですが……」 『解っている』  お願いします、と言うと電話はぷつり、と切れた。  朔真さんと話すときはいつも緊張する。  ホッと息を吐くと、抱えたままの悠真を一度強く抱きしめた。  悠真は、何度か学校でおかされたことがある。それすら、遙真の差し金だったのではないかと今では考えられる。  家について、ベッドに寝かせるとようやく緊張が全部取れる気がした。 「……守るから」  そう言って、悠真に口付ける。 「大丈夫だ、守られてる」  そう、聞こえてきて俺はハッとして離れれば、目が覚めたらしい悠真がにっこりと笑っていた。 「お前に、いつも守られてる。お前が居るだけで、そこが安全だと思える。俺は、お前に守られている」 「……今日だって、お前を危険に晒したばっかりだろう?」  でも、と悠真は俺を抱きしめてくれる。 「でも、お前は着てくれただろう?なぁ、ヒロ」  俺はお前に助けられてばっかりだ  そういう悠真は、最初の頃に比べるととても穏やかで、それが嘘偽り無い言葉だとわかる。  今にして思えば、悠真は俺に対して嘘など吐いた事はない。  どれだけ、俺が悠真に思われているか、解る気がした。  俺は言葉なんか出なくて、それでも何か言いたくて、ありがとう……と悠真を抱きしめた。  その声も、何だか涙でしゃがれていたが。  悠真は、何でお前がありがとうなんて言うんだよ?と笑ったが、それでも良かった。  これからも、悠真を笑顔にさせていこうと思って、自分に誓った。  その後、あの二人組みに社会的な制裁を加えた後、遙真のことを聞いた。  遙真は、早急に式を挙げて、相手方のアルファと番になることが決まった。  当初予定されていた、何万倍も早いスピードでだ。いっそのこと、海外の企業に嫁がせてくれれば良いのに、と考えてしまうが、新規開拓をしたい義父はその相手に遙真を何としても嫁がせたいみたいだ。  まぁ、相手方は相良と同等の経済力がある企業の御曹司だから当たり前かもしれないが。  俺の家の会社も立て直り、今まで以上に勢いのある会社で、ある意味義父にしてみれば、悠真を嫁がせて正解だったといわれるかもしれない。それでも、厄介払いしてきたことには変わりは無い。  相手方は、遙真を気に入っているらしく、番となれば、家からは一生出られない生活になるだろうと報告を受けた。結婚までの間も、監視をつけて絶対に屋敷の外に出さないようにすると。  そうなってくれれば、憂いが減ると少しだけ安堵する。  結婚式の招待状も届いたが、二人で当然欠席に丸をつけて出した。 「おっ、今日は機嫌よさそうだな泊」 「……気安く話しかけんな、的場」  ひでぇ、と言いながら的場は俺の前を陣取る。  俺は、軽口をたたきながらそれを許す。的場は、この大学では数少ないアルファで俺と同格ぐらいの上位種だ。  自然と回りには、オメガやカリスマ性に惹かれたアルファがよってくる。  正直、一人になりたいときに的場と居れば、面倒な事になるから避ける。 「今日は、何か用か?」 「別に?ただ、陽音がいねぇから、暇で」  それを聞いて、とりあえず暇つぶしに選ばれただけだと知ってため息を吐く。  そんな様子を面白そうに眺めている的場。 「で?お前の奥さん、順調なのか?」 「あぁ、前よりは食べられるようになったしな」  悠真は、今俺の子供を身ごもっている。あれから、少し肥えたぐらいの時に発情期がやってきて、その流れで、出来た。  つわりで、折角肉付きが良くなってきたのに、再び落ちて結構心配したが、つわりも今は落ち着いて、顔色もだいぶいい。  そう言えば、的場にはそんなこと愚痴ったか、と苦笑いだが。 「……悠基」  チャイムがして、学生が増えてきた頃、的場の後から的場の番である市村がやってきた。  おかえり、と市村を迎える的場。  その市村があっ、と声を出して俺を見た。 「ちょうどいい。泊、お前に客だ」  そう言って、市村は少し見渡して目的の人物を見つけたのだろう、手を大きく振ってここだと叫んだ。  ざわついている学生ホールで、その相手に聞こえているのか不思議だったが、問題は無かったようだ。  ふと、俺は近づいてくる匂いに違和感を感じた。それは、変な感じではなく、いつも俺が嗅いでいる匂い。フェロモンの匂い。 「……悠真?」  ふと、顔を上げてそんなはずは無いと思いながら、そちら側に目を向けると、てこてこと歩いてくる悠真の姿があり、目を見開いて驚いた。 「ヒロ」  そう言って微笑んだ悠真が、俺のところへ飛び込んでくる。  一体これはどういうことなんだと、市村に顔を向ければ市村が頷いた。 「ヒロ、忘れ物だ」  そう言って、悠真が差し出してきたものは、茶色い封筒。中を確認すると、今日提出予定の課題がごっそり入ってる。 「あ。悪いな、悠真。でも、一人で来たのか?危ないだろう」  悠真は、基本的に自発的にあの家から出る事はない。だから、携帯も持っては居ない。  昔使っていたものがあるが、それすらいらないから、と解約してしまった。  だからこそ、心配なのだが、悠真はどこ吹くそれでにっこりと笑った。 「大丈夫、世の中妊夫にも優しい」  どこかのアルファの子供を宿してると解るオメガの妊夫には優しい。何かあれば、そのアルファから何らかの制裁があることを世の中の常識として知っているから。  全く、と俺は笑って悠真の頭を撫でた。 「それより、予鈴鳴ったろ?俺たち、一緒に居てやるから。行って来い」  そう、的場に言われハッとして時計を見た。 「あぁ、もう!悠真、的場たちと待ってて。今日は次の講義が終われば帰れるから、一緒に帰ろう」  それだけ言うと、俺は悠真の返事を聞く暇なく走り出した。  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  サイド:悠真  バタバタと走っていくヒロの姿を見て、俺が笑うよりもまず先に的場が笑い出す。  同い年なので、さんやくんをつけなくていいと言われ、俺もその方が楽だったからそうさせてもらっている。 「アイツのあんな姿始めてみた!なぁ、陽音!」 「……そうだね。泊君は、結構普段から落ち着いてるから、珍しいね」  きっと、そういう会話をしているのだろう。俺は、彼らの口を読んでその会話を予測する。  ガチャガチャと言う音は聞こえるのに、やっぱり人の声が聞こえないのは奇妙な空間としか言いようが無い。  とりあえず、俺はヒロが座っていた場所に腰を下ろす。  俺が、声が聞こえない事を二人は知ってるから、メモ用紙と筆記用具を出して何かあるときのために備えてくれる。ありがたいと思う。  飲み物を勧められたが、とりあえず断って、砌さんが淹れてくれた水筒からお茶を飲む。もちろん、カフェインレスだ。  どんな話をしていただろうか?確か、市村と昔話をしていたか……、市村に”今、幸せ?”と少し寂しそうな顔で聞かれたから、にっこりと笑った。 「俺は、今とても幸せだと思う。ヒロは、俺をとても愛してくれているし、砌さんもとてもよくしてくれる。正直、実家に居た頃よりも何倍もいい暮らしだと思う。それに、今はこの子だって生まれてくる。俺は、子供の出来にくい体質だと医者から言われてた。だから、奇跡だとも思うんだこの子の存在も。だから、幸せだしこれ以上は望まない。望めば、身を滅ぼしかねない。それに、高校も中退だし、大学にも通えなかったけど、こうしてヒロを通して友達ができた事が何より嬉しいんだ。ヒロを通してでいい、俺の世界は広がってそれがとても新鮮で、嬉しくて、今が最高だと思えるんだよ」  そういったら、市村も的場も驚いたような顔をして、そしてありがとう、と俺に言ったんだ。  俺は、お礼を言われるような事をしていないから、首を横に振ったけど。  そこに、ちょうど受講を終えたヒロが帰ってくる。 「……?何の話をしてたんだ?」 「なんでもない。ヒロ」  そう言うと、ヒロは少し変な顔をしながら、俺に顔を向けた。  その頬にキスをしながら、俺は言う。 「俺は今、幸せだ」  それが、人により依存とも取られようとも、俺は幸せなんだよ今が。  END

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