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ここに両手を入れてみて

あんた、好きな男いたことあんの? 答えないでいると、彼はうっすらとため息をついて起き上がり、帰る、と呟いた。 「誰か待ってる?」 何の気なしに聞く。彼は刺すように仰向けの俺を見下ろした。だが、すぐにへらへらと笑って、 「待ってるよ」 と言った。 そしてベッドを下りて、服を着る途中でまた一瞬だけ刺すように俺を見た。 「男とは、やるだけなんじゃねえの」 「何でわかる」 「さあ、そういうのわかるだろ」 へらへらと言う。刺すと、その後誤魔化す。ネクタイを結ぼうとして、やめて、くるくると巻いているのを眺めながら、 「好きな子はいたよ」 と言った。 「あっそお、意外」 「意外かな」 彼は俺を見てから、ちょっと天井を仰いで、もう一度俺を見て、笑顔になった。 「意外つか、俺に関心ないってだけね?」 そのまま、バスルームに入っていった。 水音が響き、すぐにきれいに撫でつけた髪で部屋に戻ってきて、椅子の上のコートと鞄を手に取り、じゃあ失礼します、とこっちを見ずに頭を下げた。 起き上がった俺が何も言えないうちに、部屋から出て行った。 会ったのはその時が二回目で、俺は呆気に取られて、しばらく彼とのやり取りを反芻したが、面倒になって止めた。 次に東京に出る時に、連絡しようとして手が止まった。あの態度は、つまり俺にダメ出しをしたわけだ。 俺はほとんどいつも、若い男とセックスしたいと思っている。 機会があれば、自分よりかなり年下の男を選んで、会う算段をした。 そのくせ、ようやくその体に触れる時には、胸焼けのような微かな嫌悪感に包まれて、大して楽しめなかった。 あの子はそれを、俺の気持ちがない、と責めたのだろう。 気持ちも何も、タイミングが合うからホテルの部屋に呼んで、連絡先を教えてくれたからまた会っただけで、顔も体も記憶は曖昧だった。 もう連絡しないのが無難だったが、呼べば、あの子は必ず来るだろう。面倒がない。 案の定、会える、と返事が来た。 ———スーツ着て、ネクタイしておいで。 この間、ネクタイを結ぶかどうか迷って、首に回していったん結びかけてから乱暴に引き抜いたあの仕草が、いつ見たか、それとも実際には見たことがないか、はっきりしない映像になり、そんなことを書いてしまった。 昔のことが、するすると引き摺り出される。 好きな子はいた、と口にしたからだ。 そう、ネクタイをしている時に会ったら、結び目を引っ張られたことがあった。また縛る?という吐息混じりの声がまだ聴こえる。最近は思い出すこともなかったのに。 その時より前に、成り行きで手首を軽く縛ったことがあった。彼のブルーのネクタイで輪を作り、手出して、と言うと素直に両手を差し入れてきた。軽く輪を締めただけで、目が潤んで、顔を真っ赤にした。 その後、興奮して声も出せないくらい息が上がり、そんなにいいか?もっときつくしてあげる?と俺は言ったが、何となくそこから先には進まない方がよさそうで、結局すぐに解いてしまった。 だから、結び目を引っ張られた時には、あれ気に入ったんだね、と言いながら、他のことをした。 ドアがこつこつと叩かれて、開けると黒いコートを着た彼が、へらへらと立っていた。 「やあ、どうぞ」 「どうも」 部屋に入って、彼は重そうな鞄を床に落とし、あっつ、と言いながらコートを脱いだ。 「スーツが好きなんですか?」 「あー、変態ぽいこと書いてごめんね、でも着てきてくれたんだ」 彼は振り向いて、一瞬またあの鋭い視線で俺を見やったが、口元には笑みが浮かんでいた。 「風呂入った後、またこれ着るべき?」 「あはは、いいよ、いや、別にスーツが好きってことじゃなくてね」 彼は不思議そうな顔をして、俺に向き直る。 「こないだ会った時、君は憶えてるかどうか、好きな子がいたと言ったでしょう」 へらへらとあの笑顔になって、うん、と頷いた。 「その子がいつもスーツ着てた」 「ああ。リーマンだったんだ」 「君が着替えるの見て、急に思い出した。懐かしくなった」 言葉にすれば、また余計なことを思い出すに違いないのに、何故か言ってしまった。 「そんな顔すんなよ」 彼は笑顔のままで、俺の肩を拳で軽く突いた。 「平日の夜なら、別に言わなくても、ほぼ確実に着てくっからさ」 俺は吹き出してしまい、 「なんで?」 と尋ねた。 「え?」 「君、なんでそんな優しいの?俺の郷愁につきあう必要なんてないのに」 薄茶色の目を見開いて、彼は何故か言葉に詰まった様子で、俺はその肩を抱き寄せた。 髪の匂いに目を閉じると、やはり思い出がするすると引き摺り出される。 「お願いがあるんだけど」 顔を上げた彼の唇を掠めて、耳にキスしながら囁いた。 「後で、君のネクタイ、使っていい?」 「……結局、単なる変態かよ」 彼は呟き、くすぐったそうにしながら、俺にもたれかかる。 この子も素直に輪っかに手を突っ込んでくるだろうか。そうしたら、俺はどれぐらいの強さで輪を締める? その後、欲しがるだけ強く縛れるだろうか。あるいは。 今日はまだ、あの胸焼けを感じていない。

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