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New World

 君が気づかないフリをするから、僕も気づいていないフリをする。  今までの僕は、そうやってこの小さな世界を守ってきた。  だけど、いつまで続ければいいのだろう? 「熱でもあるの?」  僕の問いかけに君は一瞬だけ視線を向けてくれたが、すぐにまた手元の本の世界に戻ってしまう。  でも、僕はもう気づいている。  君の見ているページが、さっきから変わらないってこと。 「いや、別にないけど」  君は僕を見ることなく、ソファの背に体を沈めるようにしながら、そう素っ気なく言い放つ。  でも、僕はもう気づいている。  僕から顔を背けている君の小さな耳が、赤くなってしまっているってこと。 「あー、じゃあエアコン止める?」  僕がテーブルに置かれたリモコンに手を伸ばして尋ねると、君はそっと天井に視線を送り少しだけ考えるように静かに息を吸い込む。 「別にこのままでいいんじゃない?」  先週まで風邪をひいていた君の声はまだ少し鼻にかかるように響く。  でも、僕はもう気づいている。  その少し低く掠れた声が風邪のせいだけじゃないってこと。  君が視線を合わせてくれなくなったのは、いつからだったろう?  君の耳が赤いことに気づいたのは、いつだったろう?  君が僕の隣で(くつろ)いでくれなくなったのは、いつからだろう?  君が…… 「それ、面白い?」  君の視界に入り込むように僕はわざと体ごと乗り出す。 「あ、うん。いま、めっちゃ面白いとこ」  君はわずかに体を強張らせながらも、なんでもないことのように本のページをめくってみせる。  そのほんの小さな、紙が擦れる音さえも大きく聞こえるくらいに、部屋の中は静かだった。  だから、気づいてしまう。  本の表紙を掴む君の指先が震えていることに。  僕の隣で繰り返される君の呼吸が早くなっていることに。  耳だけでなく、頬まで赤く染まっている君に。  そして、気付かされるのだ。  僕も、君と同じだ、と。  君の肩に伸ばした自分の指先が震える。  浅い自分の呼吸音が心臓の音と相まって早くなっていく。  まるで僕が風邪をひいていたかのように、体温が上がっていく。  顔が、全身が、熱い。 〈君は気づいていないかもしれないけれど、君は嘘が下手だ〉 「なぁ、」  僕の声が耳の近くで聞こえたからだろう、君は思わずこちらに振り向いた。  至近距離で目が合う。 〈もう、その下手な嘘、やめよう〉 「ん?何?」  君はその僅かな震えを隠すように、目を細めて小さく笑って見せる。 〈君がかけているブレーキはどこ?〉 「いつから?」  僕の問いかけに君の表情は不思議そうに揺れる。 〈どこにある?〉 「何が?」  それでも君は僕が気づいていないかのように振る舞う。 〈だけど、僕はもう決めたから〉 「お前、顔赤い」  僕の言葉に初めて君の表情が崩れる。 〈そのブレーキ壊すって〉 「え?あ、やっぱこの部屋ちょっと(あつ)っ、ん……!?」  君の言葉ごと、君の熱ごと、僕は飲み込む。 〈だって、僕のブレーキは……〉 「……なんで、」  僅かに離れた君の唇から、小さく震える君の声が漏れる。  だけど、君の瞳は僕を見つめたまま止まっている。 〈もう、〉 「もうやめようぜ」  僕の言葉に、君は小さく息を呑むように表情を揺らす。 〈とっくに、〉 「な、にが?」  それでもまだ君は気づかないフリを続けようとするかのように、僕に尋ねる。  けれど、その質問さえも君の体温を帯びた吐息となって僕に触れてくる。 〈壊れているから〉 「もうバレバレだから」  君との距離を、もう一度(ゼロ)にしたい。  そんな僕を見つめたまま、君の瞳が涙で濡れていく。 〈だから、君のも壊したい〉 「だから、何が?てか、なんで、こんなこと……っ、」  もう一度君に触れようとした僕の肩を震える君の手が押し返してきたが、そんな力の入っていない抵抗なんて、ないも同然だった。  先ほどよりも強く、君の中に僕の熱を送り込む。 〈君はまだ続けるの?〉 「友達」  唇を離しながら、僕は言う。 〈僕はもう続けられない〉 「え……?」  君は泣いているのか、熱に浮かされているのか、それとも両方なのか、震える声をこぼす。 〈だから君も一緒にやめよう〉 「やめようぜ、友達」  僕の声も震える。  だって、本当はこわいから。  ひとりで変わるのはこわいから。    だから、君も変わって。  僕と一緒に変わってよ。 「……うん」  消えそうなほど小さな君の声が、すべての始まり。  ここから始めよう。  僕と君の新しい関係(せかい)を。

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