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第18話――黒田――

 田淵との蜜月が明けた朝は、実に清々しく色覚さえも変えてしまったようで、毎日見る窓からの景観でさえ、日本三景のそれらと同じだ。    隣の空白が気になり、目を覚ましても未だ夢見心地で昨夜の情事を思い出す。   現実に戻ってきた頃、黒田は手を伸ばして田淵が寝ていた場所に触れ、エアで抱きしめるつもりだった。  「冷たい」と黒田は呟く。だが、早くに目が覚めただけのことだと、すぐに早る気持ちを落ち着かせる。   「……たったこれだけのことが、我慢ならないなんて」  冷たいシーツを触るのも嫌になり、黒田は起き上がり田淵の部屋から移動した。  「おはよう」とリビングに向かえば、安寧をもたらす存在が黒田のトレーナーを借りて「彼シャツ」なるものをしてくれていた。アラサーの萌え袖だが、下半身に直接訴えかけるので、咳払いを一つして誤魔化す。  それから自然と目に入る首筋の鬱血痕が、白い肌に映えて美しい。   「おはよう、黒田君。朝ご飯すぐ食べる? 用意してるよ」 「ありがとう。もらおうかな」  気の利いた事を饒舌に言う田淵に、違和感を感じた。好きだと伝えた相手との初夜が明けた翌日の朝に、何の気まずさを感じない事があるのだろうか。田淵の社交性の低さから鑑みれば、信頼を寄せていた事実よりも体を重ねた事実の方が直近の出来事だ。  多少ドギマギしている様子が見られてもおかしくない。  やけに、「普通」を演じている。  だが、この時の黒田にとって、それを大きく問題視しなかった事を、すぐ後悔することになるとは思いもしないのだ。次は田淵についた痕が消えかかる頃に、夜這いをすることしか考えていなかった。  全ては、田淵の負担を考慮した上だ。  しかし、田淵の痕が消えかかり、頃合いだと踏んで足取り軽く帰宅すると、つつがなく進行されていた依存計画が頓挫しかけていた。    黒田は自室でひとり、頭を抱える。「ヒロキさんの普通は、俺を出し抜く演技の方だったか」。無人の家にで一人怒号を飛ばす。 「クソッ!!」  よほど、PC画面を殴りつけて破壊したい衝動に駆られた。握り締めた拳が痛い。  デスクトップのPCからは、何日もログインしていなかったサイトの閲覧記録が残されていたのだ。  それも、体を初めて繋げたあの日の翌日のことだった。    田淵の見せた普通を装う姿も、きっと恥ずかしさを誤魔化すためだろうと高を括っていたのが、黒田の最大のミスだった。  疑惑の目を一瞬でも向けられた時点で、こちらの警戒を解くことはしてはならなかった。  抵抗こそされなかったとしても、だ。  ——だから、事後になって田淵の不在に気づく羽目になるのだ。  「十中八九、アレに気づいただろうな」と黒田は低く唸り、画面を睨めつける。 「そうじゃなかったら、無許可で外出して今も帰って来ないなんて有り得ない」  容易に行き着いた推測に苛立ちが募る。静かに、だが、肩で呼吸をする。   「作った未投稿のサイト——か」  既に閲覧されているファイルを開く気になれず、そのままデリートしてしまった。口実に使用したという証拠だ。  黒田は深く息をついて、平静さを呼び寄せる。 「俺が、ヒロキさんに出し抜かれるなんて、ざまぁないな。幸せボケもいいとこだ」  そして、黒田はさらにぼやく。「相手は、あんな感じなのに平気で5、6千万を悠々と稼いでるんだ、気を抜けば逃げられる事なんて、予め予知していなかった俺の負けだよ……一旦は」。  言わずもがな、その日は田淵からの連絡なく一夜が開ける。——何度連絡しようとも、折り返しの電話は一本もないまま。  無論、昨日まで浮かれていたのだから、まさに青天の霹靂に安寧の場所を奪われたのと同然である。虚無感、強いては虚空を仰ぐ回数が頻回する。  それで眠れるわけがなかった。  一日中覚醒したままの頭で、黒田は次の手を思案する。「自分から戻って来ないのなら、絶対、連れ戻す……」。 「少しでも信用した俺が愚かだったよ。学習しないな俺は。手に入れたいなら、どんな手段を使ってでも、だろう」    自重気味に、それでも確信を持った言葉は、どっしりと座り込む黒田に重たく沈んだ。

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