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月下美人
この町の終電は早い。
今日の仕事の嫌な興奮を鎮めたくて、家路に知らない道を選んだ。
住宅街の狭い道には人通りも無く、足は重い。
ふと視界の高い所に白い影が動いて顔を上げる。
知らない道の知らない安アパートの二階の知らない窓に、白い長髪の人の姿があった。
何かを見ている。
視線を追えば、月。
成程、道が妙に明るかった訳だ。
白い長髪に目を戻そうとして、持ち主と目が合った。
男だ。
体格の良さそうな、男。
アジア調のヒラヒラした服が、月光を受けた彫りの深い顔に不似合いだった。
男が窓から消える。
二秒程して戻ってきた。
何かを投げてよこす。月明かりに翳せば、飴の包みだ。
男が見ている。
包みを解いて飴を口に入れる。
甘さと共に、花の匂いが広がった。
驚きに目を開いて男を見る。
男が笑った。
白い髪が揺れる。
咲き綻ぶ、そんな言葉が頭に浮かんだ。
男が視線を月に移した。釣られて月を見る。
静かだった。足音も車の音も無く、周囲の住宅から生活音が漂うだけ。
「日常」から切り放されたものが、ここにあった。
深く息を吐いて、目を閉じ、目を開ける。
視線を戻したアパートの窓は、閉じられていた。
足元に目を落とし、道路に沿って視線を上げる。
遠くに、行き交う車の灯りが目に入った。いつもの大通りはこの先だったのだ。
もう一度窓を見る。
あの花を再び見る事はあるだろうか。
一つだけ笑って、大通りに向かって歩き出した。
終
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