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第10話 ゴミ箱行きの想い
顧問として朝練に立ち合っていたにも関わらず、トレーニング機器で怪我をさせてしまった。これは学校側としては問題になるわけで、せっかく及川先生が淹れてくれた、実は苦手らしいコーヒーを飲む間もなく、郁登は教頭に呼ばれた。
ただ怪我自体は軽度なもので、足の爪に血豆が出来た程度で済んだから、そう大きな問題にはならいないだろう。ただ保護者への説明もあるから、教頭としても事情聴取はしておかないといけなかった。
「はぁ、マジでビビりましたよ。一瞬、パニくりました」
バタバタしている中、お互いに授業もあるわけで、郁登がようやく腰を落ち着けられたのは、昼休みだった。
音楽準備室にひとつだけポツンとあるデスクの前に、パイプ椅子を持ってきて、色々な楽器に囲まれ、ぐったりしながら座って大きく息を吐いている。
ふたりっきりの今、郁登は教頭に説明をしたり、体育の授業もあったりでよっぽど疲れたんだろう。いつも以上に口調が砕けている気がした。普段はそんなに幼いようには見えない。髪はプールのせいで茶色いほうだけど、それでも顔つきはちゃんと大人に見える。でも疲れがそうさせるのか、くったりと力の抜けきった郁登は、まるで甘えている猫みたいだった。そのしなやかさが、あの晩のセックスをしていた時の妖艶な郁登の身体と直結しそうになる。
「でもよかったね。たいした怪我じゃなくて」
「はい、マジで……」
「郁登、これ」
デスクで向かいあっている俺がポンと、疲れ切っている郁登に投げてよこしたのは、缶のオレンジジュースだ。
どうやら人から何かを断るのが嫌いな郁登は、どう断ればいいのか、俺に相談したいらしく、この昼休みをふたりだけですごす事を選択した。ついこのまえ、進路指導室でセクハラまがいの事をされたのに、それを忘れたのか、それともその危機を踏まえてでも相談に乗って欲しいのか。
でも郁登は知らないんだ。この音楽準備室が、完璧な防音になっていることを。
音楽室ならまだしも、準備室まで防音にする必要なんてない。私立で金が余っていたからなのか、鍵さえしてしまえば、この中で何が行われていても誰も気が付かない。ここにある楽器を好きなだけ、かき鳴らしても、ここでやらしく喘ぎまくってセックスしても。
「なんでオレンジジュース?」
「コーヒーダメなら、こっちのほうがいいかと思って」
まるで子ども扱いをされて怒るかなと思ったのに、本人はコーヒー、お茶よりもオレンジジュースのほうが好みらしい。クスクス笑う俺に、純粋な笑顔でお礼をして、缶のプルタブを指で引っ張った。
その仕草がまるで子どもみたいに無邪気で可愛かった。別に幼い容姿をしているわけじゃない。れっきとして成人男性に見えるし、女っぽいところもひとつもない。
それなのになんなんだろう、この色気って。そうマジマジと観察してしまう。この不思議な色気に、席が隣になった瞬間から当てられて、俺の生活が一変してしまったんだ。それだけでも質が悪いのに、今度はオレンジジュースくらいのものに無邪気に笑うとか、質が悪いっていうのを通り越して、悪魔にさえ思えてきた。
「な、なんすか?」
「……別に」
一瞬、身構えながらも、気に入ったらしいオレンジジュースをまだ飲んでいる。ここで襲い掛かったらどうなるんだろう。アルコールも入っていないんだ。やっぱり必死に抵抗するんだろうな。
「郁登って断るの、苦手なんだっけ?」
「だからそう言ってんじゃないっすか。今、その相談、を……」
あ、俺のスイッチが切り替わった事に気が付いた。
オレンジジュースの缶から唇を離して、じっと俺を見つめている。あれ、この雰囲気ヤバいか? って感じに少しだけ焦りながら、それでもここ学校だしって留まっている。そんなとこだろうか。
「あ、あああああのの」
「……?」
必死に俺のモードを通常に戻そうとしているのがわかって、ちょっと、可愛い。
「そ、それで相談なんすけど」
迫ろうかと思ったけど、本当に悩んでいるみたいだし、それに本気で可愛かったから、そのまま話を聞くことにしてあげる。
「あの、美里って、あの、元カノなんすけど」
まるでタイムスリップしてしまったんじゃないかと感じる。さっきまで続いたジェットコースターのような気持ちがまた蘇る。
あの、タイミング最悪で我儘そうな女が、現在の恋人じゃなくて、元カノっていう事だけで、ものすごく嬉しくなっている自分がいて、驚いてしまう。まるで小学生みたいだ。付き合う、付き合わない、手を繋いだ、繋いでいない、たったそれだけのことで一喜一憂してしまえる子どもみたいに、今の郁登がした告白に、内心飛び上がって喜んでいた。
「でも昨日、来てたよね? さっきも電話」
それでこの前の電話に出なかったのか。思い返してみて、全ての点が繋がって一本の線になったような気がした。
電話に出なかった。それは喧嘩をしていたからじゃない。もう別れたはずの関係だったから。そんな彼女が昨日、突然、マンション前で待ち伏せをしていた。あの時の郁登は切なそうに名前を呼んだんじゃなく、困惑していただけだった。
「復縁……したいとか?」
コクンと頷く郁登はまた困った顔をしていた。
「それを断れないって事?」
「別れようって言い出したのは向こうなんです。いきなり言われて、わかったって答えたら、今度はやっぱり別れたくないって……そう言われても……浮気、してたみたいだし」
何を言っても頷いてしまう郁登の反応がつまらないから、もう別れる、そう言われても、やっぱり郁登は頷いてしまった。彼女にしてみたら、自分を好きだから付き合っているのかどうか、わからなくなったのかもしれない。どんな我儘でも笑って頷く郁登に、つまらないと感じてしまった。
その彼女が浮気をしていたかどうか、それだって嘘かもしれない。我儘にも答えてしまう郁登の本気を知りたくて、試すようなことをしただけかもしれない。
何をしても、どんなことを試しても、いつだって反応が同じ郁登に嫌気がさした。そしてつい言ってしまった一言だった。でもその直後に彼女は後悔をして、どうにか復縁しようと、何時に帰って来るかもわからない郁登をああやって待っていた。
今朝、何度も電話をしたくらいなんだから、昨夜、俺の車を降りた後に、復縁って方向に話は向かわなかったんだろう。
「郁登は?」
「え?」
「彼女と別れたかった? それとも別れたくなかった?」
「……わかんないんす」
茶色の髪を乱暴に掻き混ぜて、そう呟いた。
「ずっと、何年だろ、高校ん時からずっと付き合ってて、もう当たり前みたいだったんすよ。だから急に別れようって言われても……でももう何年も付き合ってたのに、別れたいんだったら、よっぽどだろうから、頷くしかないんだろうなって」
「……」
「断ったりして、相手を嫌な気分にしたくないだけなのに、それをつまらないって言われても……」
そりゃ、彼女はむかつくだろ。
今、郁登の話には“好き”って一言が一度も出て来なかった。それはまるで惰性で一緒にいる、冷え切った夫婦みたいなものだ。困ったように話す郁登は、もう飲み終わったオレンジジュースの缶の縁を、指で行ったり来たり、ウロウロとしている。
そしてそれを見ながら。あんなにさっきまで嫌いだったはずの彼女に、俺の気持ちが寄り添っていく。
「じゃあ、あの晩、俺とセックスしたのも、俺を嫌な気分にさせたくないから?」
「え?」
ハッと顔を上げる。いきなり彼女の復縁相談から、隣の席の音楽教師、俺とのセックスの話に飛んで、驚いている。
「あの晩、けっこう飲んでたけど、あれも勧められて、断れずに全部飲んだから?」
「あ、あの、金沢先生?」
「それでかなり酔っ払って、誘われて、男とセックスしたのも、断れないから」
「……」
「この前、俺の車に乗って、夕飯を食べたのも、そう」
「……」
俺の顔をじっと見ながら、黙っている。
「ふざけんなよ」
そう自然と言っていた。だってそこには郁登の気持ちはひとつも入っていない。あんなに気持ち良さそうにセックスしておいて、自分から舌を絡めてキスを楽しんでおいて、あんなにやらしく喘いでおいて。
昨日、飯に誘った。車の中で、俺が馬鹿みたいに不器用にグルグルと男相手に考えて、考えて、まるで初恋みたいにひとりで一喜一憂していたのを、全て笑って、クシャリと丸めて紙くず入れに放り投げられたような気がした。
驚いて、まるで自分は何も……そんな顔をした郁登に、きっと、元カノである美里も同じ気持ちを持っている。同じように好きで、嫌いで、どうにかなりそうな気持ちを持て余していると思った。
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