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エピローグ

 湯船にゆっくりと浸かって風呂を出ると、もうすでに夜中1時過ぎだった。  タオルで水分を拭き取りながら、ふと鏡の中の自分を見た。そこに映る、倉田から付けられた所有印を指先でそっと撫でた。  自然と笑顔が広がる。  寝間着代わりのスウェットを着て、リビングへと戻った。地元に帰ってきたものの、大阪での一人暮らしに慣れてしまって今更実家に帰るのには抵抗があったため、自分で暮らすためにマンションを借りた。1LDKのそれほど広くない部屋だが、交通の便もよく気に入っている。  冷蔵庫から取り出した冷えたミネラルウォーターのボトルを開けて、水を喉に流し込んだ。  ふうっ、と一息吐いたところで、リビングの棚に仕舞っておいた一冊のアルバムに目が留まる。森本は久しぶりにそのアルバムを手に取った。穴が空くほど眺めたあの写真があるページはもう探さなくても開けるほどだった。  3年8組。そこに並んだ数々の顔の中から、ある1人だけをじっと見つめる。  白い肌に夜の闇のような黒い髪。眼鏡で隠してはいるが、その下にある綺麗な顔は森本には隠し切れていない。そっと指先でその写真をなぞった。  いつから視線を感じるようになったのかは、はっきりとは覚えていない。気付くと、いつも倉田が視界にいた。本人はおそらく森本が気付いていることは知らなかっただろう。  視線を感じる内に、森本も倉田を意識するようになった。目立たないようにいつも静かにしていたが、森本は気付いていた。  すらっとした体格に、艶のある肌と唇が綺麗だったこと。心を許した人間には優しいこと。人によく気を遣えること。そして時折見せる静かな笑顔がとても穏やかなこと。惹かれるのに時間はかからなかった。  しかし、当時の森本は別にゲイではなかったし、そんな気持ちにさせる倉田が怖かった。自分がおかしくなりそうで。  森本はその気持ちに蓋をした。倉田の視線に気付かないフリをした。けれど、心のどこかでやはり倉田と繋がっていたいと思っていたのかもしれない。  たまたま職員室に寄った時。倉田の担任の机の上に無造作に置かれた進学希望届が目に入った。一番上の紙に倉田の名前があった。森本はとっさにその希望大学を記憶し、気付いたら自分も同じ大学に希望を出していた。大学が一緒になったところで、何が変わるわけでもないのに。  倉田が森本と同じ希望大学を蹴って、地元の大学に進むことを決めたと分かったのは、卒業直前の春だった。森本は、諦めようと決めた。一緒の大学に行けなかったのは、そういうことだったのだと。倉田とは離れる運命にあったのだと。そう思うことにした。  大阪での大学生活は順調だった。新しい仲間もでき、彼女もでき、普通の平和な生活が続いた。  けれど、ふとした時に倉田を思い出した。  その倉田の影はどんどんと森本の心をむしばんでいった。彼女を抱いている時にも。いつもどこかに違和感があった。不思議だった。倉田とは触れるどころか話したことすらなかったのに。倉田と自分が交わっている姿は容易に想像ができた。  もしかしたらやはり自分は男が好きなのかもしれない。だから男の倉田を求めてしまうのかもしれない。他の男ができれば。今度こそ倉田の影とは決別できるのかもしれない。  そう思った森本は、何人かの男と関係を持った。女とするよりはしっくりとはきた。しかし、あの妙な違和感は変わらずあった。満たされることはなかった。  そして気付いた。自分は、倉田が欲しいのだと。他の誰かではなくて。倉田自身が。  その頃には、森本は大学を卒業し、大阪で教員となっていた。たまたま再会した高校の同級生に倉田が地元で教員になっていることを知らされた。その時はそうかと聞き流していただけだったが。  ある日、倉田の勤めている高校で欠員が出て、国語の教師を募集していることを知ってしまった時。考えるよりも先に体が動いた。気付けば、転勤希望を出していた。  まさかすんなり採用されるとは思っていなかったが。逆にこれはチャンスだと思えた。倉田を手に入れるための。  卒業アルバムを閉じて、元に戻す。体のあちこちに残る倉田の感触を失いたくなくて、森本はそれを閉じ込めるかのように両腕で自分の体を抱き締めた。  倉田が森本の中に入って来た時のあの痛みさえも愛おしく思えた。他の誰かの時には苦痛でしかなかったのに。  倉田が自分のことを求めてくれているなんて予想もしなかった。再会してもあれだけ避けられていたのだから。自分だけがずっと苦しんできたのかと思っていた。高校の時に感じたあの視線の意味が、今日、やっと理解できた。だから、倉田が森本を欲しいと言ってくれた時。何も考えずに受け入れた。  全く予想外の展開だったけれど。  別れる時に照れくさそうに挨拶をして帰っていった倉田の顔を思い出して、ふふっ、と笑う。  長かったけれど。やっと手に入れた。  ずっと、欲しかった。倉田という唯一無二の存在。  明日、楽しみだな。  倉田のために何かおいしいものを作ろう。酒も用意しよう。そして、ゆっくりと話そう。昔のことも。これからのことも。知っていることも。知らなかったことも。  さっそく料理のメニューを考えようと、弾む心を抑えながらキッチンへと向かった。 【完】

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