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stay home
―― 19:00
『ステイホーム おうちにいてください。外出を控えてください』
政府の緊急事態宣言を受けて都知事の記者会見が始まった。東京都だから本来僕らの地域では放送されないものだと思ったが、首相の記者会見の後に続いて放送された。
国に期待できない分、都道府県がどう動くかは重要だ。国がやらないのなら独自の判断を、周辺の県が追随するのか、距離を置くのか。それをバルーンにその他地方も出方を検討する。いいものは真似ればいいし、市民の批判が高ければ詰ればいい。
ともかく先に「保証します」と言ったら負け。国が金を出さなくても、やっていけると啖呵切るような自治体はない。せいぜい、この都知事くらいだろうと誰もが思っていただけに、「調整中」という言葉を聞いて、酷くがっかりした。
他所の庭がどれだけ安全か、他所の庭がゲートを締めないならこちらが塀を高くするか…、経済と人の命のシーソーゲームが毎日伝えられている。
休めていた手を動かして、誤字だらけのメールにもう一度目を落とした。子供を持つ家庭は振り回されてひっ迫している。子供が走り回る環境で仕事ができるわけがない。そんなこと独身のこの僕に言われなくてもわかってますよ。
テレワークってなんですか?
電気代やネット代は請求できるんですか?
そもそも接続できません。
電話にファックス、仕事の依頼は紙ベースで部長、課長、係長、チームリーダーのハンコをついて稟議を取り、同じ流れで予算案、依頼書、確認書、納品書を作成してきた創業以来の流れが、パソコンの向こうでだれが返事しているかもわからないものでもOKになったら、さすがに動揺もするだろう。ちょっと流れが変わっただけだ、できないわけがないのに。
自宅作業用に渡されたノートパソコンで、規定業務は行えるはずなのだが…。
誤字だらけのメールに電話番号らしきものがあったので、連絡してみる。
「夜分申し訳ございません。高堂です。パソコンの設定について…」
「あ、高堂さんですか、すみません本当に…あ!」
後ろというか、近辺で男の子が騒いているのが聞こえる。激しい雑音のあとで、衝撃音が続き、受話器を耳から外す。遠くで女の子が泣きだした。走って逃げていく足音と、普段物静かな町村さんが絶叫するのが聞こえた。ヒステリックに叫ぶ声が聞こえるが、何を言っているのかわからない。パタパタと足音が家中を駆け回り、泣いている子供の声が遠のく。走る子供の足音が響く。金切り声。
耳から受話器を遠のけていても聞こえる雑音。本来学校があれば、保育園があれば、このストレスとは直面しなくて済むはずだったのに。学校にも遊びにもいけない子供は、家の中で暴れるのもしかたがない。
「ぅ…、すみませんすみません!」
突然、町村さんの声が聞こえ慌てて受話器を戻した。
「大丈夫ですか?」
「うぅ、ダメです。お…夫は一人で部屋に籠って仕事して、家事は私まかせで、も…もう」
「町村さん。落ち着いてください」
嗚咽が聞こえる。少し間を置いてから言った。
「僕は思うのですが…。きっと、遠足の前の日、眠れなかったように、お子さんは今ちょっとだけ興奮してるんですよ。だって、いつもはいないお父さんとお母さんがずっとおうちにいてくれるんですから」
弱気な相槌が聞こえる。
「町村さんもいつもより少し興奮してるからわかりますよね。いつもと違うって、お子さんも感じているだけです」
「は…はい、すみません」
「僕はいいです。明日、朝起きたらお子さんに言ってあげてください。仲直りして、一緒にご飯をたべて、一緒に勉強しようって言ってあげてください。勉強始めてくれたら町村さんも仕事して。飽きたらお子さんと休憩したり、おやつ食べたりしてください」
「そ、そんな業務時間はちゃんと仕事します!」
「ちゃんとされたら、割り振る仕事がないので困ります」
笑いながら言うと、受話器の向こうで息をのむ音が聞こえた。
「スムーズにいかないのはみんな一緒です。職場じゃないんですから」
仕事の流れを急激に変えたからといって、順応できても存分に仕事をこなせるわけではない。普段ならある仕事が、どこかで詰まってしまうものだ。取引先の仕事状況も普段通り連絡すれば通じるわけでもない。手元で調べられる資料が、手元にはない。パソコンの中に見つからなければ、だれかに問い合わせなければならない。問われた誰かもディスクにあるファイルを開こうとして、自宅だったと気づく、答えを出すまで時間はかかる。部下がそうして作ったファイルを確認すべき者もまた、スムーズに仕事ができなければ、『回答待ち』の時間は増える。プライオリティを整理してくれる部下も秘書もいなければ、この『回答待ち』が一番ネックになる。
だからのんびりでいいのだ。リモートワークになっても、モニターをつけて四六時中監視しているわけではない。きっかり勤務時間から退勤時間を守ってずっとパソコンの前に座っていることが、原則ではないことを改めて伝える。
ネットワークに繋がらない理由の多くはパスワードの間違え。
「メモ帳にコピペしてみてください」
「……あれ、すみません。数字が全角になってました」
パシャパシャと打ち直す音が聞こえる。
「どうですか?」
「あ、繋がりました!」
「よかったです。じゃEUベースを開けるか確認してください」
「あれ…す、すみません。いつもショートカットやったさかい、書類の場所が…」
*
『自分自身を守るためです。家族を守るためです。大切な人を守るためです。』
緊急事態宣言が出るという話は昨日からニュースで流れていた。ロックダウン、都市封鎖はできないものの、それに代わる勢いの外出禁止令的なものが出るのだと期待していたのだが、蓋をあけてみれば、これまでとは変わりない。個人のモラルや感情に依存するものだった。
日本の喜劇王が新型コロナのせいで亡くなった。多少身近に感じた人はいたらしいが、それでもまだ出掛ける人はいるというこの事態。感染者のグラフは右肩あがりになっていても、そのグラフに自分が含まれる明日を誰も想像はしない。『賞味期限』を表示するのは企業であって、守っている限り腹は壊さない。デパートが開いてるなら、そこは安全だと判断する、それが平和の国の国民感情だ。
この危機に気づいたデパート各社や飲食チェーン店が、今回ばかりは自己判断で軒並み閉店や営業時間短縮を決めた。だが、日常的な買い物は大丈夫です、スーパーや普段通っている病院には行って構わない。酷いことを言う。スーパーの店員や医療従事者だって、いつ保菌者が近寄ってくるかわからないのに、普通に働けと。仕事がなくなって収入もなくなってしまってはどうにも生きられないのは事実だが、本当ならスーパーの店員だって、看護師さんだって「休め」って言ってもらえるなら休みたいはずだ。
交通機関に銀行、ガス、電気会社など、人間の生活に欠かせない職場は、問答無用で働けと。
我々の銀行の支店で、感染者がでてしまったからには対応せざるを得ない。フロアの人間、食堂のおばちゃんが濃厚接触者となってしまったからには、そのフロアを閉鎖するしかないという判断になった。銀行には窓口業務以外にも経済の根幹を支えている業務がたくさんある。「当たり前」にあるものがなくなるとパニックになりかねないので、窓口業務の縮小は極力しない。一人減るだけで、待合人数が増える方が怖い。だが、客に触れない業務をしているものは回避しなくてはならない。
本部の判断は早かった。次に関連部署の出勤停止だ。出勤停止ではパニックにもなりかねないし、ソースが漏れたらニュースにもなりかねない。世間にも他支店にもバレずに縮小していく必要があった。自宅待機組と時差通勤組を増やし、来月までフロアの人口密度を1割にする。
それはもう、先週金曜日にはお達しがでているので、この時間のK支店には電話はつながらないはず…。
『大切な人を……』
8コールして切る予定だったのに、1コールでつながった。
「GM業務部、高堂です」
「…え? 高堂?」
「……あ」
ビジネスマンの性で電話に出てしまったことを悔やむような声が漏れた。
「なんでそこにいる? 早く帰れ」
怒りを抑えて静かに言ってみる。
「申し訳ございません。リモートの準備に戸惑っている社員がおりまして。対応に当たっておりました」
「まだそんなこと言ってるやついるの? もー、そろそろ使えないおばちゃんとか派遣に切り替えてって」
「いえ逆に、派遣だったらテレワークの依頼はできなかったので、助かってますよ」
確かに。古株社員より派遣の方がパソコンスキルは互いが、機密情報の取り扱いはさすがに依頼できない。スマホもUSBの持ち込みも禁止の職場を、テレワークにしたからといってリモート解禁にはできない。それがネックだった。そのために優秀な派遣社員の方にも、一旦契約終了を告げなければならなかった。緊急事態宣言がGW開けに解除されたとしても、通常業務が行える保証はない。スポーツ界やライブイベントも軒並み、夏以降に順延している。この一ヶ月で終わる事態ではない、口にしないだけで、誰もがうすうす覚悟している。だからストレスが溜まるのだ。
「九条さんこそ、まだいらしたんですか?」
久々の高堂の声だ。いつもはメールのやり取りで終わる。そう、何年、十何年もメールでやり取りしているのに、一度もあったことがない人物の一人だ。
「いらしたんですよ。意外に、リモートの設定に戸惑って、な」
クスっと笑う声が聞こえた。電話で会話するのもまだ、数えるほどしかない。いつもは喧噪の中で、報告と確認、僅か1分にも満たない電話で終わる。笑い声を聞いたのも初めてだ。
「設定できました?」
「それが、共有フォルダに入れなくて…」
先ほどまで何度も繰り返した作業を、高堂に誘導されて繰り返す。広いフロアで自分ひとり。K支店のフロアはここほど大きくはないだろうが、高堂もひとり。そう思うとなんだが不思議な気持ちになった。
「まだクルクルしてる…」
「再起動してもらっていいですか?」
「あいよ。てか、そっちの方が年上なんだから敬語とかやめないか?」
「敬語…でもないですけど」
「なんつーの、そのデスマス系」
「無理ですよ、年下とはいえ九条さんの方が肩書は遥かに上なんですから」
高堂が軽やかな声を出す。自宅のPCならそろそパスワード入力画面になってもいい頃なのだが、まだシャットダウンすらできない状況だ。大企業で割り振られるPCはかなり性能の悪いものが多い。サポート終了のアナウンスがなければいまだにwin98を使っているだろう。
「帰れって言っといて、付き合わせてすまん」
「いえ、うち近いですし…」
「電車で何分?」
「…えっと」
「ん? なんだよ、そんなに遠いのか?」
「オフレコですけど、今日は自転車できました」
オフレコ。あらゆる支店の業務総括を担っている立場の自分にそういうか。言葉遣いはよそよそしいものの、少し距離を近く感じた。
「…いいんじゃない? 賢明だよ」
労災が下りるとはいえ、通勤中の交通事故はホワイトカラーでは金額がデカいだけに、原則自動車や自転車での通勤は許されていない。満員電車で新型コロナに罹ったと証明ができる場合、労災は下りるだろうか? そんなことを考えるよりは賢明だ。
「なぁ。緊急事態宣言が出たってことは、スーパーとか混んでるのかな?」
「だと思いますよ。僕も帰りに寄る予定ですけど」
黒い画面になった。再起動するつもりがあるのかないのかわからないが、黙って画面を見るのに飽きて、見えやしないのに受話器の方を見る。
「どうせならたくさん買い溜めしとけよ?」
「そりゃしますよ。二週間出勤しなくていいって言われているんですから、とりあえず一週間分巣籠できるだけの食糧を買い込みます」
「…はは、巣籠か」
「九条さんもテレワークですか?」
「いや、うち、つか俺はとりあえず今日から3日だけ」
「…そうなんですね」
声が沈んだ。
「高堂。お前んとこで感染者が出たからお前んとこの支店だけ長いってわけじゃない。世界的に見ても取引は減ってるからGM、グローバルマネジメント業務は…」
「わかってますよ」
「だから状況をみて、下手すると他の業務に振り分けられる可能性もある」
「それを3日で見極めるんですね、九条さん。ほんと、すごい」
「…あ」
「わかってますよ。オフレコですね」
「あ、それと今『お前』っていってしまった。すまん」
「僕は『キミ』って呼ばれる方が嫌ですね。学生時代はみんなお前だったくせに、いつの間にか『キミ』なんて言い出して、なんか距離置かれた感じしません?」
「む? そうか」
お前と呼ぶと上から目線だと怒られることがよくあるので言ってみたが、高堂は違うらしい。
ようやくPCが起動して横バーがジリジリと動き出した。
「なあ…」
「はい」
「EUグループチャットに高堂入ってたよな」
「はい」
何を言い出すんだろう? 自分の口なのに疑った。受話器を握りなおして言う。
「…個人的につなぐことってできるのか?」
口にしてみたら、時間が止まった。ジリジリと動いていたはずの横スクロールも固まっているように見えた。
「できますよ。ワークグループのアドレスを変更するだけです」
「ん? ん?」
唸っているとスマホが鳴った。
「招待アドレスをメアドに送りました。会社のPCでもスマホでも自宅のPCでもいいので、そこにアクセスすれば、個人的に、僕につながります」
心臓がはねた。
「…買い物して帰宅する時間は?」
―― 20:00
約束の夜8時を少し回ってしまった。慌ててPCを起動してチャットを開く。
先ほど送ったプライベートスペースに入ると、すでに九条のアイコンはアクティブになっていた。こちらからコールすると3回目で、画面が開いた。キーボードから指を放しながらPCの前に座る九条が映った。
無防備に、ネクタイを緩める姿に、少しばかり見とれて声も出せなかった。
「もしも…、あ!」
九条が声を上げる。電話ではなく画面に高堂の姿を確認した声だろう。
「え? あ!」
画面の隅に、映し出されている自分の姿を確認した声だろう。ノートパソコンの画面の上に見つけた黒丸をのぞき込んでいる様子が見える。
「設定できたみたいですね」
「わ、喋った。え? …高堂?」
指をさされた。
「はい、そうです」
答える前にPCを引き寄せるようにする九条の動きが見えて少しドキドキした。画面を食い入るように見ている。
「ああ、なんか違う。メールの文面と声の感じで、黒髪黒縁メガネな理系男子を想像してた」
そういうものだろうか。
九条と同じ支店いた同期が2年前に辞めて証券会社に入った。年下なのに、みるみる昇進する九条と同じ部署にいることが辛かったらしい。仕事ができるというレベルではなく、明らかにリーダーシップをとる人材だと言っていた。だから九条のイメージは絵に描くような知的なイメージだったが、実際はまるで違った。自分のイメージする九条も『黒髪黒縁メガネな理系男子』というか、ウォールストリートを歩いていても負けない顔立ちとムースで固めた髪型、イタリア製のスーツ、…イメージが高すぎて笑ってしまうくらい、どこにでもいそうな健康的な、むしろビジネスマンという言葉に違和感を感じるほど健康的な印象がある。
「九条さんって、体育会系ですか?」
「チャリダーだ。週末は箱根まで行く。…今はいけないけどな」
なるほど、と頬杖をつくと
「今度一緒にいかないか?」
と続いた。
「すみません。自転車通勤といっても僕はママチャリですし、体力もないほうです」
そういうと九条は天を仰ぐようにし、背広を脱いだ。
「買い物、できた?」
「すみません。少し混んでて…。でも巣籠分は確保できました」
「ならよかった。あ、さっきの社用の共有フォルダも無事に入れたよ。サンキュ」
九条がPCを抱えたまま話すので、少し居心地が悪い感じがした。それが伝わったのか、九条は慌てて両手を放すと距離を置いて座りなおした。キッチンテーブルだろうか。背後に食器棚が見える。
「焼酎派ですか?」
ぬ? 九条が背後を振り返る。
「ビールもワインもウイスキーもいける。カクテルと甘酒以外はいける。高堂は?」
「僕も、わりとなんでも行けます」
「ホントか!」
九条の声が嬉しそうに響いた。
「なぁ。なぁなぁ、オンライン飲み会やらないか?」
―― 21:00
超ダッシュで今日中にやらなきゃいけないことを片付けて、部屋も少し片づけて、ソファーの前を見栄えよくする。誰かと飲むならダイニングよりリビングだろう。誰も招き入れたことのない部屋は、壁に掛けた自転車だけが存在感を放っている。パソコンを持って移動しないかぎり、そんなのは映るわけがないのに、少しばかり意識している自分がおかしかった。シャワーを浴びて、晩酌の準備をする。
家族がいて、子供や親や夫婦にストレスを感じている人を羨ましいと言ったら怒られそうだが、そう思った。独り暮らしだと日常の生活リズムを崩すものもいなければ、食事なり洗濯なりやってくれと言われることもないから、気分次第でサボっても困ることもなければ責められることもない。声を発しなくても一日過ごせることもあるけれど、そのせいで認知症になるかもしれないし、鬱になるかもしれない。ストレスと感じてないストレスをどこで発散すべきかわからないままの不定愁訴に敏感になる。親が恋しいわけでもないのに、家族を想う映画を見るとひたすら涙が止まらない。犬や猫が辛い思いをする小説やドラマは見てられない。誰とも話さず、ただぼうっと過ごしていると、人との話し方を忘れてしまいそうで怖い。感情が動かなくなりそうで怖い。煩わしいと思いながらも人がいる家庭が少しばかり羨ましいと思った。
特定の恋人はいないから、浮気や離婚の話はまるで分からないのに、仕事や職場の愚痴を漏らすだけで親近感が湧いてしまう。つまりは同じ境遇の人になら感情移入もできるということか? だから高堂がこんなに待ち遠しいのだろうか?
「おまたせしました」
高堂がカメラの前にお皿を並べている。小さい皿ばかりいくつも並べる。こちらのカメラの設定より、アッパー気味なので、皿に何が入っているのかわからない。すっと白い腕が伸びて、肩にタオルをかけた高堂が映し出された。洗い髪がセクシーだ。
「あれ? メガネ」
フチなしでアームがやたら細く、深いブルーのメガネをかけている。
「コンタクト外しました。黒髪黒メガネはある意味当たってたってことですよ」
グラスを手に缶ビールを注いでいる。慣れた手つきでうまい具合に泡をつくり、グラスから泡が盛り上がった状態のグラスを近づけてくる。缶のままのビールを手にする。
「とりあえず、初オンライン飲み会に乾杯」
「乾杯。お疲れ様です」
パソコン越しでも、グラスの位置を缶より下にぶつけてくるところに感心しつつ、ビールを飲んだ。
「こういう場合って、同じ食材を並べるって聞きましたけど」
「別にバーチャル空間を求めているわけじゃない。高堂と食事をしながら飲みたいだけだから」
「……」
またグラスを傾けて、高堂はあっという間に1杯を飲み干した。気にする様子もなく缶ビールを注いだ。
「そのサラダ、買ってきたやつですか?」
「うん? 今作った」
「すごい。玉ねぎの千切り、めっちゃ薄くないですか?」
「まじ? 俺千切り得意なんよ」
玉ねぎを箸でつまみ食べると、へぇと声が聞こえた。竹輪ときくらげの和え物をつまみながら高堂がビールをあおる。それだけでなんだが距離が近くなった気がした。3月初めから人と食事することを控えているので、久々に人と談話しながらの食事だった。
「九条さんって、家飲み派ですか?」
軽く首をふる。
「飲み屋だなー。軽く飲んで、家帰って明日の準備して飲みなおして寝る」
「一緒です」
そう言われるだけで嬉しくなる。自分が好きな飲み屋に連れて行きたくなってしまう。
「酒は何が好き?」
「そうですね、30越してからは焼酎になりました。最初は麦か黒糖しかだめでしたが、最近はいもも臭いの持ってこいって言いたくなります」
どうしようか。行きつけの店でもいいし、分厚い焼酎メニューがある店にも連れていきたい。
「おつまみは何が好き?」
「そうですね、魚も肉も好きです。季節を感じたいときは野菜や魚のお店にいって、盲目的に飲みたいときは焼鳥屋です」
「盲目的? わかるわ。俺はホルモンが多いかな」
「独りでホルモンは厳しいかな?」
高堂がホタテの刺身をとりながら言う。
「一番ヘビロテの立ち飲み屋がホルモンを串で出してくれるとこだよ。90分でビール4杯飲んで2000円。安くない?」
「へぇ、いいですね。串があるならいいなぁ。それより90分でビール4杯は早いでしょ?」
だから盲目的な時だって。笑いながら食事する。こんなの久々だ。先月の中旬には、食事も向かい合ってしてはいけないと言われ、後輩とランチを食べたのが最後だ。
それほど、人見知りな方ではないけれど、初対面に近い人と、こんなにもしゃべりながら飲めるとは思っていなかった。
「ねぇ、それなに?」
高堂が箸を止める。
「ごぼうですよ。ごぼうの漬物。漬物の中で一番好きかな」
「へぇ」
「九条さんは漬物で一番好きなものはなんですか?」
「えー、だいたい全部好きだな」
取りとめのない話をする。沖縄料理なら何を一番に頼む? おでんで一番好きなネタは? お店を予約したのに遅れてくる人をどう思う? お取り分け女子のあしらい方。ビアガーデンあるある…。
くだらない会話に夢中になった。
―― 22:30
空いた皿を片付けて、グラスに氷と焼酎を注ぐ。九条の方がピッチは早いが酔っている様子はない。
テレワークと決まったからと言って、明日の業務がないわけではない。先ほど町村に言ったように、自分の業務もスカスカというわけではないし、むしろ九条のほうが、仕事量は多いだろう。
そう思うと、そろそろお開きにしましょうかと、こちらが言うべきなのだろうと思うが、あえて時計をみないようにしていた。
顔を合わせたのは初めてなのに、なぜか、近しく感じていた。そろそろと言って終わりにしたくなかった。きっと明日覚えていないような、どうでもいい会話しかしていないのに…。
「高堂って方言出ないよな。どこ出身?」
「東京です。配属も高田馬場、代々木、赤坂を経てK支店です」
「ええ? そうなの?」
どこかですれ違っていたかもしれないなぁと呟く九条にかぶりを振った。
「九条さん、結構地方勤務が多かったって知ってます。帰ってくるたび昇進していることも」
「えぇ、俺そんな有名?」
茶化すように九条が言うが、グラスを置いて真顔で答えた。
「かなり。僕の周りでは九条さんの噂をしない人、いなかったかもです」
「……」
下唇を突き出して九条が表情を曇らせた。事実だ。羨望の眼差し、ライバル心、承認欲求、高嶺の花。勝手な物差しで近寄って、こうはなれないと傷ついて遠ざかっていく人を何人かみた。
「近寄っちゃいけない人だって言われました」
九条がグラスを揺らして氷が音を立てる。
「…そういうの、本人に言うなよ」
そう言われて、自分の手の中のグラスに視線を落とした。そういう人達から直接、または何かを覚ったりして傷ついたのだろうか。
「どうしてですか? 僕はますます九条さんに会ってみたいと思いましたけど」
九条がパソコンの前で両腕を組み、顔を近づけてくる。
「逆に、近寄っちゃいけない人に会ってみたいって、どうして思うの?」
自虐的に、悪ぶった笑顔を作る九条が、画面に収まっていることを不思議に思った。そうだ、これは画面越し。直接会うことはないという発言にもとれるだろうか。少しばかりを一緒に過ごしたからといって、腹を割った仲ではない。
「…どうしてでしょう?」
こんなに顔を突き合わして話しをし、お酒を一緒に飲んでいるのに、まだ会ってなかったということに気づいた。所謂、テレビで動くアイドルと一緒なのだろうか。バーチャルだ。直接会うことはないと、有機ELディスプレイの向こうは3次元の世界ではないと思っているのだろうか。
そうじゃない。さっきまで笑っていた九条の顔に触れたくて、手を伸ばした。
画面の九条の頬に触れる。
「え? 高堂?」
声がして、はっとして手を放した。無機質な画面から体温など感じるはずもないのに、何をしているんだろう。笑いながら首を振る。
「僕は高堂さんのこと、頼れる本部の人だと思ってます。ライバルでもないし、恋愛対象でもない、それだけです」
言い放って「違う」と思った。九条の顔が見れずに、グラスを持って立ち上がる。冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んで冷静さを取り戻そうとした。
こんな事態だから、少し興奮しているだけだ。こんなことがなければきっと永遠に酒を共にするということもない間柄だったに違いない。「頼れる本部の人」以上だということは自分でわかっているのに…。
グラスに氷を入れて戻ると、画面が暗転していた。
「……」
切られてしまったかとショックを受けていると、黒い画面が揺れる。ぼんやりとしたものが近寄ったり離れたり、ズームの調整をしているのが分かった。やがて映し出されたのは夜景だ。
「……あれは新宿のビル群ですね。都庁が見えます」
「あたり」
カランと音がして九条がグラスを傾けたことが分かった。ベランダへ移動したのだろう。九条の部屋からの眺めがそこにあった。
東京の夜景だ。方南町に住んでいた頃を思い出す。もう少し、ビルには窓の明かりがあったように感じるが、これもコロナの影響だろうか。
「KDDIのビルが右に見えるってことは中野あたりですか?」
「スゴイね。正解。うち中野坂上」
「すごい展望ですね、何階ですか?」
「7階だよ。たまたまこっち側に高い建物がないだけ」
「…なんだろう。随分遠くに感じますね」
「そうだな。普段はもう少し、街に明かりが溢れているから、こんな風には見えないな」
部屋の明かりを消して花火や星空を見るように、近辺の商店街の明かりが消えたために、ビル群が瞬く。
「靄もないから星も見えるよ」
パソコン画面がゆれてまた真っ暗になる。九条がカメラを空に向けたのだろうか。さすがに星は見えない。
「CO2が減って少し地球は長生きするのかな?」
考えもしなかったが、そうだろうなと思う。人が活動しなければ空も空気もキレイになる。
「人類滅亡したら、新たな生命体が生まれるんでしょうか?」
「えー? 高堂。マイナス思考」
笑い声が聞こえるけれど、画面には遠い新宿の明かりだけだ。
「プラス思考な方は何を思うんですか?」
「俺? 俺はここでとっておきのシャンパンを、昼間っから開ける夢を見る」
ザリザリとサンダルの擦れる音がして、画面が揺れながら部屋の中へと戻っていく。
「隣にはお前がいて、靄って都庁が見えないと文句をつけられる」
「!」
画面の揺れが収まって先ほどのリビングのテーブルに戻ってきたことを知るが、画面に九条は現れない。遠のきながらの声がする。
「ふつーに、サミットにごぼうの漬物売ってましたよーとか言われながら、俺は隣でキャベツや玉ねぎを千切りしてサラダやカルパッチョを作ってなだめてやるんだ」
ガラガラと氷をグラスに移す音がする。負けないように九条が声を張る。
「あー、明日は炎のガーリックライスが絶品の焼肉屋に連れていこうか、それとも、いつもいくホルモン串屋の店員に、『俺にだって友達いるんだぜ』と言いに行こうか考えながら…楽しくてしょうがない夜をスタートする」
声が近づいて、ようやく目の前に九条が戻ってきた。
「ラスト一杯は焼酎のシークワーサー割にしてみた。高堂も作ってこいよ」
「ラスト…?」
その言葉に胸が痛みを訴えた。だが、前に置かれたのはグラスというより中ジョッキサイズのものだった。
―― 23:45
もうすぐ、一日が終わり、一日がまたやってくる。
人類が滅んだとしても、地球は残る。否、地球が残るなら人類はなくならない。
希望があるかぎり、生きていけるのが人間だと思う。
強く、人を望む。いがみ合っても喧嘩しても夫婦や家族を続けるように、腹の中でどう思っていようと、円滑な業務を片付けて美味い酒を呑んでリセットし、明日を迎える。
新型コロナのせいで、多くの人が亡くなってしまった。誰もがその多くは知らない人だから、遠い世界のことと思って生きている。自分の大切な人や家族、憧れのスターやアイドルがこの世界で、自分の吐いた息を吸い、触れたものに触れ感染するとは思っていない。
唐揚げを売ってくれたコンビニの店員や、風邪薬を処方してくれたそっけない病院の先生、いつも行くのに顔も覚えてくれないランチの店員、いろんな人が、自分のために働いてくれている瞬間を忘れ、それぞれの事情を想うことなく暮らしてきた報いだとでもいうのだろうか。少しずつ自分の日常に居た人がいなくなってようやく身の危険を感じるのだろうか。
「…ケホ」
軽くせき込む高堂を、いや高堂が移るPCを引き寄せる。
「大丈夫か?」
「…こんなに、話したの、久しぶりなんで…」
飛沫が飛ぶわけがないのに、腕で口元を隠して高堂が咳き込んだ。思わず画面に手を伸ばしてみる。喉を潤すようにグラスを傾けこちらに視線を送ってくる高堂の頬に触れた。
「……」
画面の下に自分がどう映っているのか表示される。その画面が先ほどの高堂の図と同じだった。画面から温もりは感じないが…。
「VRがあるくらいだから、いつか、画面越しでも体温や脈拍を感じたりする世の中になるんだろうか」
質問ではなく、つい、言葉にしていた。
「…人が想像できることは、必ず人が実現できる。ってだれかが言ってましたよね」
高堂がいう。
「ネットを介してコロナ感染するとか?」
「そっちいかない」
茶化してみたが即座に打たれる。
「ありがとう。今日、高堂とこんなに話せてよかったよ」
すると高堂が腕を伸ばすのが見えた。カメラの位置は、顔を映しているので、それよりも接近したお互いの手は映らない。
口を閉じて、顔を揺らす。鼻から漏れる咳をした。
「高堂…」
「九条さん。僕はあなたに、会いたいです」
見えない手を空想し、指をずらす。この手は触れているだろうか。
大切な人を守れるだろうか。
「会えるよ」
さっき自分の想像した簡単な未来。この部屋に来て、一緒に酒を飲む高堂を。
なんなら俺は妄想する。画面を突き抜けて指を絡めている今を。
顔を限界まで近づけて囁いた。
「明日も、会おう。こうやって」
「明日も…」
高堂の部屋で、12時を告げる時計の音がした。
終わり
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