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第1話
「正樹さん、行ってらっしゃい」
大好きな正樹さんを、玄関でお見送りする。まるで、幸福な夢のようだ。
「あぁ、行ってくるな、優」
そう言って、正樹さんは僕の頭をぽんぽんと撫でる。よく見ないと分からないくらい、ほんの少しだけ目尻を下げる、これが彼が僕に見せてくれる笑顔。正樹さんは、どうやらポーカーフェイスらしい。
遠くから見ることしかできなかった彼のことを、近くから見ることができて、嬉しく思う。
まだ、始まったばかりの新婚生活だけど、とても幸せだった。
正樹さんは、僕の父さんの会社に勤めている。社長のくせにおっちょこちょいな父さんの忘れ物を届けに行った先で、僕は正樹さんのとりこになったのだ。
とても広い会社内で、僕は迷子になっていた。
父さんの会社では、みんな忙しそうにキビキビ働いていて、のんびりしている僕には居心地が悪い。だから、僕は父さんの会社にほとんど行ったことが無かった。その上、僕は方向音痴だった。これで、迷子にならないはずがない。
でも、忙しそうに歩いている人たちに、道を尋ねるなんて僕にはできなかった。そうして途方に暮れていた時に声をかけてくれたのが、まだ新人だった正樹さんだった。
本当に些細なことだし、今までにも迷子になっているところを助けてもらったことだって、幾度となく有る。だけど、何故か、正樹さんのことだけは忘れられなかった。
きっかけは大したことでは無いけど、僕にとっては紛れも無い初恋だった。
初めて出会ったのは、もう5年も前で、まだ僕が18歳の頃だった。
ちなみに、その後毎日のように会社に正樹さんを見るために行っていたのは秘密だ。
まぁ、それで父さんが僕の気持ちに気付いて、僕が大学を卒業してもまだ正樹さんのことが好きだったら、お見合いの話をしてやろう、と言ってくれたおかげで、今が有るんだけどね。
でも、正直不安なんだ。正樹さんがどうしてお見合いをオーケーして、僕と結婚してくれたのか、分からないから。
僕のことが好きな訳では無いのは、もう分かってる。だって、キスもその先もしてくれないから。
もしかして、社長で有る父さんに言われて仕方なくなのかな。
……こんなことでくよくよしてたらダメだよね。例え嫌々でも結婚してくれたんだから。僕が、好きになって貰えるように、頑張ればいいんだ。
そう思いながらも、いつ捨てられるのか、不安は消えず、お守りのように、左手についた結婚指輪をぎゅっと握りしめた。
掃除をしたり、晩御飯を作ったりしてたら、あっという間に夜になった。
今日の晩御飯は、正樹さんの好きなハンバーグなんだ。子供みたいで可愛いよね。喜んでくれるといいなぁ。
ふと窓の外に視線を向けると、雨が降っていた。
「正樹さん、傘持ってなかった。届けなきゃ」
僕は慌てて家を飛び出した。相合い傘がしたいから、傘を一本だけ持って駅に向かった。
駅が見えてきたところで、ちょうど正樹さんを見つけた。良かった、間に合ったみたい。
正樹さんに駆け寄ろうとして、足が止まった。
正樹さんは、隣に立つ男の人に笑いかけていた。目尻を思いっきり下げて、楽しそうに。正樹さん、あんな風に思いっきり笑うんだ……。
呆然と見つめていたら、さらにショックな出来事が起こった。連れの男性の傘に入ったのだ。
僕は悟った。やっぱり僕の片想いだったのだと。そして、正樹さんが好きなのは、今一緒の傘に入って笑いあっている、あの人なのだと。
逃げなきゃ、と思ったけど、ショックでガタガタと震える僕の足は動いてくれなかった。
近づいて来た正樹さんが、ついに僕の存在に気付き、笑顔が硬直した。
「優、なんでここに?」
僕は気付いた時には、溢れていた涙を見られないように俯いた。
「えっと、傘、持ってないと思って……。邪魔してごめんなさい」
耐えきれなくなった僕は、傘を放り出して、その場から逃げ出した。家には戻りたくなくて、闇雲に走って、たどり着いたのは公園だった。
傘を放り出して来たせいで、雨が冷たい。しかし、頰には暖かい涙が伝っていた。
「追いかけて来るはずないか……」
追いかけて来てくれるのでは無いか、と期待していた自分に気付いて、自嘲した。ほんと、バカみたいだ。
心も身体もとても寒くて、どうやら熱が出て来たみたいだった。まぁ、でもどうでもいいや。
そのまま、僕の意識はブラックアウトした。
「あれ、ここ、僕の部屋?」
いつの間に帰って来たのだろうか?正樹さんが迎えに来てくれるはずは無いし。疑問に首を傾げていると、ドアがガチャリと開いた。
ドサッと物が落ちる音がして、顔を向けると、正樹さんが駆け寄って来た。
「目が覚めたのか!? 良かった」
そう言いながら、抱きしめられた。抱きしめられるのも初めてで、パニックに陥る。
「えっ、正樹さん? どうしたんですか?」
「どうしたじゃ無いだろう。お前は公園で熱を出して倒れていたんだ。心臓が凍りつくかと思ったんだぞ! 本当に無事で良かった」
好きでも無い結婚相手に、ここまで心配してくれるなんて、本当に優しいな。僕のこと好きじゃ無いのに、惚れ直させたりしないで欲しかったよ。
「正樹さん、駅では邪魔しちゃってごめんなさい」
「邪魔……? 駅でも言ってたが、どういう意味だ?」
どうやら、腹をくくるしか無さそうだ。
「僕、正樹さんがあんな風に笑ってるの、初めて見ました。……あの人が、正樹さんの好きな人なんですよね?」
言ってる途中から、涙が溢れた。やっぱり、僕は振られるのかな?
「優、お前は何を言って……。誤解だ。俺が好きなのはお前だ、優」
こんな嘘までついてくれるなんて、本当に優しいな。でも、優しさって残酷だ。
「嘘、つかないで下さい……。僕と結婚したのは、僕の父さんが社長だからでしょ?」
「違う! お前が好きだからだ、どうして分かってくれない?」
「だって、僕には笑ってくれないし、キスもその先もしてくれないし、抱きしめられたこも、さっきが初めてだし」
言ってて惨めになって来た……。
「それは……格好悪い話だが、お前と話をするだけで、精一杯だったんだ。それから、キスは無理にして嫌がられたく無かったんだよ」
正樹さんは、顔を赤くしていて、嘘を言っているようには見えなかった。
「本当に、僕のこと好き……?」
「あぁ、愛してる」
愛の言葉と共に、キスが降って来た。ついばむように、何度も何度も繰り返される。
「正樹さん……僕も愛してます」
この後のことは、恥ずかしくて語れないけど、初夜になだれ込んだことだけは伝えておくね。
「正樹さん、行ってらっしゃい」
「あぁ、行ってくるよ、優」
そう言って、僕の額に唇を落とす。朝のお見送りに、行ってらっしゃいのキスが加わった。それから、正樹さんの笑顔も。
the happy end.
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