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第四十一話

「皆様、まずは私の話しをお聞きください。 ここは、天上の神々が人間と共に共存する神話の世界。そしてこの世界の最も偉大な神は、全ての生命の源である豊穣の地母神ダナ。 ダナの愛しき娘アリアンは、月の女神として、天上から夜の世界を照らす使命を与えられるも受け入れることができず、まだ見ぬ地上、人間の世界に思いを馳せる」  エディの口上を聞きながら、ジャンは階段下で目を閉じ寝そべっていた。物語は、月の女神アリアンが、山の頂きで眠るハリーに一目惚れする場面から始まる。エディが立ち去った後、いよいよ天上の世界に見立てた階段の踊り場に、アリアンが登場するのだ。  ロイの姿を見守れない状況に歯痒さを覚えながらも、ジャンはロイが発する初めてのセリフを待ちわびた。 「もう嫌!もう沢山!私は母のようにはなれない!女神としての使命など私には関係ない! ほら見て、地上の人間達は太陽を敬い、嬉々たる宴で大地の恵を感謝し祝うのに、夜を照らす月には見向きもせず、時に邪神のように恐れ慄く。 そんな人間達のために、なぜ私は地上を照らし続けなくてはならないの?」  聞こえてきたのは、紛うことなきロイの声。  ジャンは、夢にまで見たロイ演じるアリアンの第一声に心が震え、稽古やリハーサルとはまた違う感慨深さを覚える。 「だけど不思議な人間がいる。夜の帳が下り人々が眠りにつく頃、いつもあの山の頂きで松明を焚き、一心に月を見あげている人間。 なぜあの人間は月を見つめ、夜の闇を恐れることなく月光の下で眠りにつくのか? ああ、こんな離れていてはよく見えない。もっと近づき理由を聞いてみたい。大丈夫、私が地上を照らさずとも、人々は気にとめることもないのだから。ごめんなさいお母様、ほんの少しだけ…」    ゆっくりと階段を降りてくる音。緊張した息遣いが間近に聞こえ、眠っているジャンの頬にロイの手がそっと触れる。  ここでアリアンは、人間の青年ハリーに一目で恋に落ちてしまうのだ。 「これが人間。私達と変わらない姿。 でも私は、こんなにも美しく健やかな寝顔を見た事がない。どうかその長い影をおとす睫毛とともに瞼を開き、あなたの瞳を私に見せて欲しい」  ロイの言葉に応えるように、ジャンは徐に目を開く。そしてハリーも、アリアンの美しさに一瞬で心奪われる。 「…これは夢か?目の前にいる、この世の人間とは思えぬ女神のように美しい人。夜の闇の中、私には貴方だけが黄金に光り輝いて見える。貴方は一体誰なのですか? ああお願いだ、もしも夢なら目覚めないでくれ。例え一生目覚める事ができなくなっても構わない。貴方と出会ったこの時が永遠に続いてほしい」   アリアンに一目惚れしたハリーの台詞が、自分のロイへの想いと重なる。 「私の名はアリアン。月の女神。なぜあなたは毎晩のようにこの場所で月を見上げていたの? その理由が聞きたくて、私は貴方に会いにきた。だけど私は後悔している。あなたの瞳が、こんなにも情熱的で、琥珀色に輝く宝石のように美しいなんて…知ってしまったらもう、知らなかった頃の私に戻る事はできない。 お願い名前を教えて、その名を私に呼ばせて欲しい」  恋に燃えるアリアンの瞳。  目の前にいるのはもう、セリフを言うだけで精一杯だったロイではない。 「私の名はハリーです」 「ハリー、素敵な名だわ」 「あなたの甘美な声で名前を呼ばれただけで、私の心は喜びに震える。私の身も心も、全てすでにあなたのものだ。私が月を見ていたのは、月に魅了されたからです。 月は真っ暗な闇のなか、人々を照す希望の光のように美しく黄金に輝いたかと思えば、時に魔物を呼び覚ます妖女のように紅く禍々しい色に染まる。そんな移ろいやすい月に心奪われ、私は毎晩のように月を見つめていた。しかし今夜貴方が現れ、私がなぜこれほどまで月に惹かれたのか分かりました。 月は、月の女神である貴方そのもの。私はずっと、貴方を見つめていたのだ。私の愛が、貴方をここへ導いてくれた。 ああ、今すぐ貴方の名前を呼び、あなたをこの手で抱きしめたい。どうか私に、貴方の名を呼び触れることを許して欲しい」  ロイは頷き、ジャンの側に身体を寄せる。 「許すに決まっている。お願いハリー、私の名前を呼んで抱きしめて。貴方の目の前にいる私は女神ではない、ただの恋する一人の女」  演技だとわかっているのに、そう言って自分を見つめるロイの瞳に、ジャンはいつも心乱され、これが現実ならどんなに幸せかと思ってしまう。 「アリアン…」  台本通り、ジャンはハリーとしてアリアンの名を呼び、ロイをきつく抱きしめる。  この日から、アリアンとハリーは毎晩のように逢瀬を重ねるようになり、夜空から月が消えるのだ。  そして、天上に見立てた階段の踊り場に、オリヴァー演じるアリアンの弟グラウディオンが姿を表す。アリアンの弟グラウディオンは、実の姉弟でありながら姉を女性として愛しており、忌々しげにアリアンとハリーの逢瀬を見おろし、地母神ダナに進言する。  ちなみに地母神ダナは、目に見えぬ偉大な存在である事を表すため、二階の階上に姿を隠したダニエルが、樹脂製の拡声器を使って声だけで演じている。 「なぜだ?なぜアリアンは人間などにうつつを抜かしているのか?偉大なる母よ、アリアンをあのままにしておいていいのですか?一刻も早くあんな男とは引き離すべきです!」  嫉妬もあらわに声を荒げるグラウディオンを、ダナは静かに宥める。 「我が息子よ、落ち着くのです。アリアンは恋に溺れ、人間との恋がどんなに不毛で悲劇的ものであるか気づいていない。二人には必ず別れが訪れる。焦らずに待ちなさい」  地母神ダナの不吉な予言と共に、第一幕が終了した。  序詩役のエディが再び登場し、第二幕の場面説明をしている間、ジャンとロイは、客からは見えない階段裏に移動し身体を寄せ合う。 「俺、大丈夫でしたか?」 「ああ、完璧だ」  心配そうに尋ねてくるロイにそう応えてやると、ロイは嬉しそうに微笑む。  アリアンではない、ロイの屈託ない笑顔。  ほんの僅かな舞台の合間でも、本来のロイが見れたことで、ジャンは幸福な気持ちになり、緊張が和らいだ。 「このまま最後までいくぞ」 「はい!」  だが、物語はまだ序盤をむかえたばかりなのだ。気合いを入れなおし小声でロイに発破をかけると、ロイは力強く頷く。 「しかし、恋に溺れ、夢のように甘美な日々を送っていた二人に不安の影が忍びよる」  エディがセリフを終え、すぐに第二幕が始まる。  ジャンとロイは、自然と握り合っていた手を解き、まるで本物の恋人同士のように離れ難い寂しさを瞳に湛えたまま、再びそれぞれの立ち位置へ、観客の前へと向かった

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