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紅茶の匂いが室内に充満してしばらくしてから、アルタイルはようやく目を覚ました。
起きるのが遅かったため夜伽の相手の姿は既になかったが、その室内にはいつもと違い、お茶係の従者だけでなく執事の姿があった。
「おはようございます、アルタイル様。マリー様ですが、日付が変わってすぐに陣痛が始まりまして…今ようやく分娩室へ入られたとのことです」
「分かった。すぐ向かう」
すぐに身なりを整え、執事の案内の元、早歩きよりも駆け足に近い速さで王宮内に設けられている王族専用の病院へと向かう。
王宮内と言ってもその敷地は小さな村が1つ入ってしまいそうな大きさなので、アルタイルがたどり着いた頃には、既に赤子の泣き声が部屋に響き渡っていた。
「マリー…すまない、遅くなった」
「アルタイル様!来て下さったのですね!」
アルタイルに声をかけつつも赤子を胸に抱き愛おしそうに見つめる彼女は、出産して間もないというのに、もう既に母親の顔をしていた。
「元気な男の子ですよ。マリー様も今のところ特に異常はありません」
「そうか…マリーも子も元気で良かった」
「ありがとうございます」
アルタイルが覗き込むと、赤子は母親に抱かれて少し落ち着いたのか、泣くのを止めてつぶらな黒い瞳をぼんやりさせていた。
髪の毛は色素は薄いが綺麗な赤毛で、マリーによく似ている。
「…アルタイル様、どうかこの子を抱いて頂けますか?」
そう言いながらマリーが赤子を丁寧にアルタイルの方へと向ける。
「…いいのか、私で…?」
アルタイルが視線を彷徨わせると、その場にいた皆が笑顔で頷く。
「この子が生まれたのはすべて、アルタイル様あってのことですから。生まれたらアルタイル様に、1番最初に抱いて頂きたいと思っておりました」
「……そうか」
そんな風に言われて断るはずもなく、生まれたばかりの小さな赤子をたどたどしい手つきで受け取り、優しく抱きしめる。
「…可愛いな。手がこんなに小さい。…名前はもう、決めたのか?」
「……はい」
マリーが微笑みながら、従者のエシオに目くばせをする。
「はい。"アルベール"です。…ずっとアルタイル様のお名前から一文字でも頂きたいと思っていましたので…アルタイル様の"アル"を頂いて、アルベールと…」
エシオのその言葉にアルタイルは目を瞠り、エシオやマリー、医者を見てから、もう1度胸に抱いた赤子を見つめる。
「…アルベールか。そうか…私の名前を…」
自分の名前が呼ばれたのを知ってか知らずか、アルベールは気持ちよさそうにうっとり目を閉じた。
アルタイルはしばらくマリーやアルベールと過ごしたのちに、公務へと戻った。
いつものように夜まできっちりと公務をこなしてから自室へと戻り、湯浴みをし、部屋を出ようと扉に近づく。すると、
「…どちらへお向いですか」
そう聞いてきたのは、いつも何も言わなくても扉を開けて寝室へと案内していたアルタイルの執事だった。
「いつもの寝室にいくつもりだ」
当たり前のようにそう答えるが、執事は扉を開けずに王子の前に立ち塞がったままだ。
「あの部屋は、マリー様が出産されたため閉じられました。今後は以前同様、自室の寝室で寝起きをして頂くようになります」
そう言われ、アルタイルは目を瞠る。
「マリーは今日出産したばかりだろ。なぜそんなに早く部屋を閉じる必要がある?」
「…それが、"しきたり"ですので」
(また、"しきたり"か…)
以前からそう言われ守らされていたものもいくつかあるが、今回ほど自分の意思と関係なく始まって、勝手に終わらされるものはなかった。
それでもそれが執事の仕事だから仕方がないのは分かっているので、アルタイルは執事と扉の間に無理やり手をやり自身の手で扉を開けようとするが、それさえも執事に制される。
「…"しきたり"はわかった。だが終わるなら終わるで、挨拶くらいしてもいいと思うのだが?」
「あのしきたりは"お子様が誕生するまで"。そう定められています故、あの部屋に行ったところでもうあの者はおりません」
「…じゃあいったい何処にいる」
珍しく苛立った様子を見せるアルタイルの問いに、返答はなかった。
「…アルタイル様には、あの者の処遇を決めて頂きたく思います」
「処遇?」
「はい。夜伽の命 についた者は―…もちろん口の堅い者を選んでおりますが、それでも"しきたり"や王族から直接知りえた機密事項を他者に漏らしてしまうことの無いよう、夜伽を終えた後の処遇が、主に2通りに決められております」
表情を険しくしながらも何も言わないアルタイルに、執事はそのまま話を続けた。
「―…1つは、今後夜伽の"しきたり"が必要となった場合に、実際に行ったことのある経験者として、次に夜伽の命 を受けた者の指導や相談役などをして頂く"語り手"になって頂きます。…ただ、王族のほとんどが一夫多妻になった今では、この"しきたり"はもう何百年と行われたことがございませんでしたので…実際には語り手の仕事を行うというよりも、"語り手の仕事がいつ来てもいいように隔離された部屋で監視されながら余生を過ごす"ということになるでしょう。
そしてもう1つは―…
…他者に決して漏らすことの無いように、その口を封じる…というものです」
「……っ」
その言葉にアルタイルは思わず目を瞠る。
「…もし後者を選ばれる場合は、明日の晩餐の中に毒を混ぜ込むようになっておりますので…今すぐ答えを出していただく必要はありませんが、明日の晩餐までに決めるようになっております。そこまでが"しきたり"でございます」
「…"しきたり"、か…」
しばらくの沈黙の後にまつ毛を伏せてぽつりと呟やかれたその言葉からは、アルタイルの感情が読み取れない。
アルタイルは無言のまま執事に背を向け自室内の寝室の方へ歩いて行き、その扉の前で立ち止まると、一呼吸してから執事の方へと振り返った。
「…考えなくとも、答えは既に決まっている。晩餐の前にあの者に直接挨拶に行きたい。それくらいは許されるだろう…?」
「…はい。その点は前例もあります故、可能です」
その答えを聞くとアルタイルは無言で頷いて、寝室へと入っていった。
無表情でありながらも綺麗な淡い青緑のその瞳には、揺らぐことのない決意が宿っていた。
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