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第1話

 ‪ 夕焼けの空が辺りを赤く染め上げて、空の隅っこの方に闇が迫る。障子に照らされていた赤も色あせて、何処ともなくひんやりとした風が吹いた。‬  そろそろだな、ちょうど窓から差し込む明るさが完全に途絶えて、蝋燭に火を付けた瞬間、ピッタリにその男は現れた。‬ ‪「邪魔しますよ」‬ ‪ 片手をヒョイっとあげてひょうきんな振る舞いをしてガララと開戸を開けて、まるで我が家のようにズカズカと悪びれもせず入ってくる。  私はいつもの事なので、適当に手を上げ蝋燭の近くに原稿用紙を広げた。  はてさて、何を書こうかと考える暇も無くゴトゴト音がする。男が勝手に戸棚を開けて酒を漁っているのは知っていた、がそれを咎めはしない。酒を見つけたのかお猪口を二つ、それまた当たり前のように私の側に持ってきて、酒を注いで一口グイッと煽る。 「ッカー、やはり先生良い酒を用意してらっしゃる」 「そうかい」 「所で先生、今日はちょっと面白い話がありましてね?」  ほうら始まった。ろくに挨拶もせずに酒をかっくらっては今日は、とその日1日の出来事を面白おかしく話し始めるのだ。私はその話には全く興味はないが、男の表情が面白いモノだからつい手を止めて男を見てしまう。 「そんで、吉川の奴がこう言ったんでさぁ。女に渡す金がありゃ博打を打ってらぁって」  と、吉川とやらの真似なのだろうか。眉をキッと上げて、目をカッと見開いて、口をひょっとこの様にすると、あぐらをかいていた片足を上げダンッ!と畳を踏みつけた。かと思うと、袖を片手で掴み、もう片手を持ち上げてぐるぐる振り上げた。 「って感じで、浮気を疑われてキレちまったんですがね?博打を打つってのも頂けなくて結局そのまま夫婦喧嘩っすわ。わははは、本当に犬も食わねや」  と吉川の真似をやめ、犬の真似をして笑い転げて床に大の字に転がる。 「やー先生、結婚って面倒ですやね。でもその年齢でしょ、良い人はおるんですか」  ガバッと起き上がりまた酒を飲む。勿論いる訳が無く、私は無言を貫いた。  蝋燭の火が、手に持つ万年筆の影を揺らすのをなんと無く目で追う。 「ははは、先生はお顔は良いのだから。もっと愛想良くすりゃ、女に苦労はしませんでしょ」 「君も話が面白い、私の所なんかに毎晩来ずにいれば、良い縁談もあるんじゃないのかい」  つい口から滑り出た言葉に、私がこんな男の縁談なんてどうでも良い事なのにつまらない事を口に出したと、顎を触る。男の口上が止まるや否や、私はその後頭を少しかいてから、また原稿用紙に目をやる、その間数分も掛かって居ない筈だが妙に静かだと思い、常に喋り続ける男が口を止めればこんなに長い時静かに感じるモノなのかと、脳はそんなにも時間も分からぬ程、簡単に馬鹿になれるモノかとやれやれとかぶりを振る。  静かになった男の方はと言えば、いつの間にか正座をして背をシャキリと伸ばし、先程のひょうきんさは抜けて、何処かキリリとした面持ちでこちらを見ているので、更に私の脳内は何がなんだか分からなくなってしまい、はて縁談の話は何か男の何処か触れてはいけない所にでも触れたのかと思って見たが、いつも一方的に話すだけの男の真の素性を私は知らない。聞いた事が無いからだ。 「先生、自分はここで酒を飲む方が楽しいのです」 「まぁただ酒だからね」 「先生は自分の話をずっと聞いてくださる」 「暇だしね」 「先生…先生は……自分がお邪魔ですか?」  何故その様な話に、とペンを置いてゆっくりと床に手を置きくるりと座ったまま男に向き合えば、目線があってはてさてどうしたモノかと私は思案に暮れるのだ。男の顔はシャンとした佇まいに反して表情は段々と不安げに眉が垂れ下がり、先程までのキリリとした顔が崩れて来ているのが目に取れて少しおかしくなってしまったが、何分相手はとても真面目なようなのでグッと堪えて「邪魔では無いよ」と応えると男は明らかに目尻を避げて、破顔した。  ははぁ、成る程成る程。縁談なんて話を持ち出したモノだから、邪魔者扱いされてるのではと不安になったのだろう。しかし不思議なモノでこの男、勝手な毎晩やってきて勝手に酒を飲んで勝手に話して勝手に寝て帰っていく。  その癖縁談の話一つでこんな姿を見せるモノだから私としては全く意味がわからない。  男は既に上機嫌でまた酒を飲み話をし出した、段々と酔いが回ってふと私の背中が重くなる。 「これ…これ、そこで寝られては困る」  万年筆を動かす手の邪魔だ、男が私の肩を背もたれにグースカとまぁだらしない顔で寝始めたモノでコレはもう今日は仕事にならないと万年筆を放り投げた。  外を見ればまだまだ闇が広がるが、微かに向こうの方からややゆるやかに淡い光が見える。  朝が近い。私は目頭をキュッと摘み上げ、また寝れなんだな、と1人心細い気持ちになるが、背にかかる重さがそれをすぐ忘れさせてくれた。  私は重度の不眠症に掛かっているのだが、薬も漢方もあまり効かず憎らしい。なら夜間に仕事をしてしまおうと執筆に取り掛かるのだが、しかしこの男が酒を飲みにくるのでそれも進まない。はぁ、と一際わざとらしいため息を吐くとふっと口元が緩んだ。やれやれこの男が来てからと言うモノ私が夜1人になる暇が全く無いでは無いか。そう悲観に暮れているフリをしていると、小憎たらしい雀の爽やかなチュンチュンと言う声と共に窓から光が差し込み始めたのであった。

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