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   ◆◆◆  三年の春、それもゴールデンウィーク明けという半端な時期に転校してくるなんて、明らかに「ワケあり」だとクラス全員に悟られている。教室から伝わる空気感が、教壇に立つ奏の全身の皮膚を痛ませた。  「横浜からきました、遠野奏です」――それだけ言って、言葉が途切れた。ろくな自己紹介が浮かばない。今までなら「特技はピアノです」で事が済んだが、その手はもう使えない。ほかの手を探して立ち尽くすうちに、察した担任が「いろいろ教えてやってくれー」と地獄の時間を終わらせてくれた。 「なんだ、花田はまた寝てるのか?」  担任が顔をしかめて見つめる先は、窓際うしろから二番目の席。机に突っ伏して寝ている生徒がいた。 「花田がホームルームに間に合ってるだけ上出来だよ」とクラスメイトが笑う。ハナダと呼ばれるその男が遅刻常習犯なのがうかがえる。  奏にあてがわれた席は爆睡男のうしろだった。奏が着席してからも、寝そべった広い背中は呼吸に合わせて心地よさそうに上下している。学校で居眠りをするなんて奏には考えられないし、周りにもそんな生徒は今までいなかった。新鮮なのでつい凝視してしまう。 「じゃあ、一限目始まるまでに花田起こしとけよ」  チャイムと同時に担任が立ち去り、教室はたちまち喧騒に包まれた。女子はセーラー服、男子は詰襟。残り一年間なので制服は替えなくていいと言われていたが、いざ登校してみると、一人だけお高く止まった校章入りのブレザーではなんとなく居心地が悪い。  身構えていた割に、予想以上に誰も話しかけてこないので肩透かしをくらった。そんなに取っつきにくいのだろうか。人と関わるのは苦手なので好都合だが。  一限目の準備をしながら教室を見渡してみる。古いセロハンテープが端っこにこびりついた黒板。フィルムに空気が入り込んだ窓。自分の机には、知らない誰かのイニシャルと「LOVE」の文字が彫られている。不自然なほどに清潔だったかつての学び舎とは何もかもが違うので、正直戸惑った。 「花ちゃん、全然起きないね」  声をかけてきたのは隣の女子だった。肩まである黒髪をふたつに結んだその子は、ななめ前の「ハナダ」を見てくすくす笑っている。 「でも、いつもは一限目の途中に駆け込んできたりするんだよ。今日は早起きがんばったのかもね。あ、あたしは山本ゆきな」 「ああ」 「よろしくね、遠野くん。なんでも聞いて」  奏がうなずくと、ゆきなは目を三日月にして笑った。それからまたハナダに目を向ける。 「花ちゃんとは幼稚園から一緒なの。花火職人のおじいちゃんと二人で暮らしてて、あとを継ぐために花火のお勉強してるんだって」  祖父と二人暮らしか。それなら両親はどこにいるのだろう。抱いた疑問は、わざわざゆきなにはぶつけなかった。  そういえば、とゆきなが瞳を輝かせる。 「遠野くん、ピアノうまいんでしょ。賞もたくさんもらってて、すごい男の子だってお母さんが言ってた」 「……ピアノは、もうやめた」  奏は視線を机に落とす。意味もなく教科書をひらき、触れないでくれと横顔に書いた。それがゆきなに伝わってか、一拍置いて「そうなんだね」と、それだけ返ってくる。気まずい空気の中チャイムが鳴ったので助かった。  ハナダが起きたのは一限目終了後の休み時間だった。奏の前で、のそっと大型動物の寝起きみたいに頭が持ち上がる。快晴の空を窓越しに見上げてから、そいつは急にななめ後ろを振り返る。 「ゆきな、俺いつから寝てた? ……あれ」  ゆきなはついさっき、ほかの女子に誘われてトイレへいった。ハナダは数度のまばたきのあとに、今度は奏へと視線をずらす。うっかり目が合ってしまったので、とりあえず「トイレにいったぞ」と教えてやった。 「あ、転校生だろ。前にゆきなが言ってた、例のピアノの奴だ」  思わずむっと眉を詰めた。ピアノの話はもうしたくないので、無視をして前の授業の内容をノートにまとめ続けた。けれどハナダは引かずに体ごと奏のほうを向き、背もたれを抱きしめながらヘラヘラ笑っている。 「名前は?」 「自己紹介なら朝にした」 「寝てて聞いてないもん」 「寝てるほうが悪い」 「俺、花田大和。大和でいいよ」  花田大和。でかい図体の割にあどけない笑顔だ。黒髪短髪。羽織っただけの学ランに、第一ボタンのあいたYシャツ。男女ともにウケのよさそうな人当たりのいいスポーツマンタイプ。奏がどう関わっていいか一番わからない類いだ。  よろしく、と手を差し出されたので、奏もおずおずと片手を出す。ささやかな握手かと思いきや、容赦のない強さで握りつぶされて肩が跳ねた。とっさに振り払う。 「バカ、痛い!」 「びっくりした?」  花田はいたずらが成功した子どもの目をしていた。恨めしげににらんでいると、ゆきなが席に戻ってくる。 「花ちゃんやっと起きた。遠野くんと何話してたの?」 「ふーん、遠野ってのか。下の名前は?」  完全に機嫌を損ねていたのでスルーした。花田は机上にあった奏の教科書を取り上げ、裏返す。 「あ、名前書いてあった。遠野……そう?」 「かなでだ。人のものを勝手にいじるな」 「へえ。かなで、な。たしかにピアノうまそうな名前だ」 「名前は関係ない」 「いいなあ。奏のピアノ聴いてみたい」  またピアノの話をされた。もう我慢の限界だ。花田から教科書を奪い返し、めいっぱい凄んだ。 「もう弾けないんだ。俺にピアノの話をするな」 「え?」 「俺に、ピアノの、話を、するな!」  語調を強める奏に、花田は目を点にする。隣でゆきなが控えめな笑い声を上げる。 「いいなあ、もう仲良しそう」  どこが仲良しそうに見えるんだ――心の中でゆきなに突っ込んだ。休み時間は花田のせいであっという間に終わった。

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