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【7】

 ガタガタ……と小刻みに何かが振動する音が聞こえる。  だんだんと浮上していく意識の中で、それがベッドの脇に置かれたナイトテーブルの上で着信を知らせていたスマートフォンだと気付くまでにかなりの時間がかかった。  ぼんやりとしているうちに切れるだろう――だが、その振動は止まることはなかった。  電話をかけてきた相手は余程気の長く、相当な暇人なのだろう。  重い瞼が開けられず、目を閉じたまま手を伸ばして何とかスマートフォンを探り当てると、画面をタップして耳に押し当てた。 「――もしもし」  ほとんど聞き取れないような掠れ声で電話に出ると、まだ完全に目覚めていない脳細胞に電気ショックを与えられたかのごとく、低く甘い声が鼓膜を震わせた。 『杉尾さん? 今、どこにいるんですか?』  泣きすぎて腫れた瞼が、バチッと音を立てそうな勢いで開く。  咄嗟に体を起こそうとしたが、腰に纏わりつくような重怠い痛みに顔を顰めそのままシーツに体を沈めた。 「は……はな、し……ろ?」 『――声、ずいぶんと掠れてますね? 風邪……ですか?』  その問いに応えるでもなく気怠げに髪をかき上げて、ぼんやりと天井を見上げた。  見慣れない天井……。  ゆっくりと視線だけを動かして周囲を見回す。シンプルな色使いと必要最低限に配置された家具、そして隣にはきちんとメイキングされたままのベッドが並んでおり、ここがシティホテルの一室であることが分かった。  そして……。俺はといえば、全裸で皺だらけのシーツの上に両手両脚を広げたまま仰向けに寝ている。  わずかに動かした頭に激痛が走る。 「いっ……つぅ! 頭……痛いっ」 『――え? 大丈夫ですか?』  心配そうな声音でそう問いかける華城に、俺は小さく舌打ちをした。  今、一番忘れたい男に起こされるなんて……。 「最悪……だ」  唸るようにそう呟いて、痛むこめかみを指先で押さえつつ上体を起こすと下肢が鉛のように重たい。  腰の奥が甘く疼き、体内に灼熱の棒でも突っ込まれているかのような微かな痛みに顔を顰める。  スマートフォンを片手に記憶をたどってみるがどれもこれも曖昧で、自分がどうしてこんな場所にいるのかという事も思い出せない。  ただ、この状況と酷い頭痛から察するに、記憶を失くすほど酒を飲んだ挙句、見知らぬ相手と一夜を共にした……ということだろう。  しかし、体のどこを触ってみてもベタつくことはなく、周囲を見回しても相手の気配が感じられないどころか、手掛かりになるようなものは見当たらない。それに、ティッシュや使用済みのコンドームなどのセックスの痕跡さえもない。 『――杉尾さん?』 「あ……あぁ。どっかの……ホテル、みたいだ」 『は?』 「今……。分かんないけど……ホテルにいる」  電話の向こうで華城が小さく息を呑んで急に黙りこんだ。  彼の事だ。どうせまた『尻軽女王様』と心の中で罵っていることだろう。  なんとでも思えばいい。俺はそういう男なんだから仕方ない。  お前を愛する資格も、まして愛される資格など毛頭ない。穢れた身体を晒して、巧みに男を誘う淫らな男娼と変わらないのだ。  うまく動かない頭の片隅で、昨夜見た華城と吉家の姿が蘇る。 (どうして、こういうことだけ思い出すのかなぁ……)  自身の適当すぎる記憶力にげんなりし、がくりと項垂れていると、それに追い打ちをかけるかのように華城の呆れたような声が耳に届いた。 『――今、何時だと思ってるんですか? もう会社は始まってる――』 「なんで……」  小言を言いかけた華城の言葉を遮るように、俺は声を震わせた。 「なんで……お前なんだよ。人の気も知らないで……」 『杉尾さん? 何言ってるんですか?』  ズズッと洟を啜って声を荒らげる。  八つ当たりだということは十分すぎるほど分かっている。こんなことをしても、深く抉られた心の傷が塞がるわけではない。  記憶を失うほど深酒をしたあとで、見知らぬ男とセックスしたという事実。  華城に失恋し自暴自棄になってすべてを消そうとしたにも関わらず、上書きが出来なかった現実をまざまざと見せつけられたような気がして、自分がやったことがあまりにも惨めで情けなくなる。  これは全部……華城のせいだ! 「――早く……。早く、迎えに来いっ!」  叫ぶように言い放つと、画面を力強くタップしてスマートフォンを放り投げた。  ガツンと壁にぶつかったと同時に液晶画面のバックライトが消える。 「早く来いよ……。俺を……助け……て」  もう泣きたくなんかない。それなのに、次々と溢れる涙がシーツに染みを残していく。  両手で顔を覆い、俺は年甲斐もなく大声をあげて泣いた。 「なんで……なんで……。声、聞いたら……無理……だろ。忘れろ……って、無理、だ……ろっ」  堪えきれない嗚咽に肩を揺らす。こめかみがドクドクと脈打ち、まだアルコールが抜けきらない頭が痛くなってくる。  どれだけ泣けばいい? どれだけ叫べば楽になれる?  苦しい……。苦しくてたまらない。胸が痛くて……このまま死んでしまいそう。  どこまで自分を堕とせば、どん底から這い上がろうという気持ちになれるのだろう。  まだ底が見えない暗闇に覆われた恋は、俺に更なる苦痛を与えようとしている。  どんな顔でアイツに会えと?  もう目を合わすことは出来ないだろう。あの、野性味を帯びた黒い瞳はすべてを見透かす力がある。  俺の弱いところは見せたくない。一方的に片想いし、呆気なく自己完結した相手にだけは……。  妙なところでなけなしのプライドが邪魔をする。  素直にすべてを曝け出せることが出来れば、どれだけ楽だろう。  再びベッドに倒れ込み、冷えたシーツに体を投げ出すようにして俺はきつく目を閉じた。 *****  二時間後――。  最悪な気分での二度寝から目覚めた俺は、自分が着ていた服がないことに気づき、とりあえずフロントへ連絡をした。昨夜の相手は相当気が利いた奴だったらしく、雨でぐしょ濡れになっていたスーツをホテル内のクリーニングに預けていたのだ。 スーツとワイシャツが部屋に届くのを待って、気怠げに身支度を整える。  パリッと糊のきいたシャツを着ていても、その中身は未だ腑抜けたままだ。  俺は重い体を引き摺りながらチェックアウトを済ませると、行くあてもなく足を進めていた。  何度かスマートフォンが振動し着信を知らせたが、ことごとく無視を決め込んだ。  会社を無断欠勤したことの報いは明日以降に考えれば良しとして、今日は誰とも会いたくはなかった。  とりあえず自分のマンションに帰宅しようと最寄りの駅へと足を向けた時、車道にハザードランプを点滅させて止まる一台の乗用車に気づいた。  何気なくそちらを見て、再び歩き出そうとした俺の背中を追いかける声に足を止めた。 「杉尾さん!」  訝るようにゆっくりと肩越しに振り返ると、そこにはダークカラーのスーツを着こなした華城の姿があった。 「お前……なんで?」 「あなたが迎えに来いって言ったんじゃないですか。随分と探しましたよ。携帯のGPSで何となくの場所は分かったんですが、この辺りはホテルが多くて……」  いつもと何一つ変わらない彼の様子に、俺はわずかに俯いてから空を見上げてぼそりと呟いた。 「あぁ……そうだった」  華城と電話で交わした内容を忘れていたわけではないし、助けて欲しかったのは嘘でも何でもない。しかし、失恋した相手に自分から『逢いたい』と言うのはなんとも未練がましく、自分の弱さを露呈しているようで居たたまれなかった。  そんな俺を心配そうな眼差しで見つめる華城に抑揚なく問うた。 「お前……自宅待機中じゃなかったのかよ。そんなスーツ着て……」 「昨日、松島部長から連絡があって、証拠不十分でお許しを頂きました」  そう言う事はまず、華城の相棒である俺に連絡をするべきじゃないのか?――と、自分を完全に無視した松島を恨みながら素っ気なく答えた。 「そっか……。良かったな」 あれほど『カッコイイ』と見惚れていた華城の顔をまともに見ることが出来ない。  昨日、俺が華城のマンションで見たのは、松島から待機解除の連絡があった後だったのだろうか。  ホッと肩の荷が下りた華城の気持ちの隙間に潜り込んだ吉家の行動だったのかと思うと、また腹が立ってくる。 「――とりあえず、車に乗って下さい」 「俺、今日は……仕事、出来る状態じゃない。それに、無断欠勤だし」 「部長には打合せで現地に直行していると言っておきましたから、タイムカードも押してあります」  本当に抜け目がない男だ。こんな男だから、男にも女にもモテるのは当たり前。イケメンで気配りが出来て、自分のことよりも他人を優先し気遣う。  これほど出来の良い恋人を持った吉家は幸せ者だと心から思う。あと、華城に想われていた奴も……だ。 「――悪いな。でも、今は……気分悪いんだよ。家で寝たい」 「杉尾さん……。あなた、また……」  俺を見下ろした華城の視線がワイシャツの襟元に注がれる。微かに痛む首筋に指を這わせた時、華城は小さなため息を一つ吐いてからいきなり俺の二の腕を掴むと、強引に車の助手席に押し込みシートベルトを固定した。 「お、おい……っ」  声を上げてはみたが、全身筋肉痛に苛まれ、彼と対等に張り合えるほどの体力は残ってはいなかった。なされるがまま、お世辞でも心地よいとは言えない営業車の助手席のシートに体を預け、素早く運転席に乗り込んだ華城をぼんやりと見ていた。 「――また誰かと、寝たんですか?」  カチカチとハザードランプの点滅する音が車内に響いている。その音に重なるように、華城はなぜか苦しげにに問うた。  俺は窓の外に視線を向けて、しばらく黙りこんだ。 「原因はお前なんだぞ!」と言えない自分が辛くて、何度も乾いた唇を噛みしめる。 「杉尾さんっ」  少し苛立った口調で名を呼ばれ、その声が二日酔いで痛む頭にやけに響き、顔を歪ませながら胡乱な目で華城を睨みつけた。  そして、呻くように低い声で言った。 「うるさいっ。お前にいろいろ言われる筋合いはないんだよ。俺が何をしようと勝手だろ? ただの相棒のお前に、俺を束縛する権利はない。――お前が前に言った通り、俺は尻軽男だよ。声をかけられれば誰にでも脚を開く最低な男だよ。軽蔑するだろ? これ以上、俺のプライベートに踏み込むな……」  昨夜のセックスを裏付けるようなものが首筋に残っていたのだろうか。それでなければ、こんな風に問いただすことはしないだろう。 襟元のボタンを外したままの首筋に再び指先を押し当て、熱を帯びている場所を探り当てると、俺は小さく舌打ちをした。 「――分かりました。すみません」  意外にもあっさりと引き下がった彼に、俺はまた怒りを覚えて顔を背けた。  中途半端な同情や憐れみは、心の傷を余計深いものにさせる。  吉家と抱き合い、互いに何を囁き合ったかは知らないが、やけにスッキリした顔で俺を迎えに来るなんて……。 (どの面さげてだよ……っ)  しかし、華城は俺の気持ちを知らない。また、華城に対する一方的な八つ当たりだと思うと、自分が情けなく惨めになってくる。 「――とりあえず、家まで送ってくれないか? もう、体がキツイ……」  昨夜の名残なのか、まだ体には得体の知れない熱がこもったままで、抜け切れないアルコールと相まって俺を苦しめていた。その熱を吐き出すように重々しく呟くと、華城は車を発進させた。  車内に残る華城の香水と煙草の匂い。いつもならこの体を疼かせて落ち着かなくさせる要素になるものだが、今は不快感しか感じられない。  ほんの少しだけ窓を開け、新鮮な空気を肺に送りながら、俺は流れていく景色をただ見つめていた。 「――一体、何があったんですか? その様子だと、昨夜はだいぶ飲んだみたいですね」  アルコールの匂いが完全に消えていないことに気づいていたのだろう。それまで黙っていた華城が遠慮がちに沈黙を破った。 「もしかして……俺のせいですか?」 「あぁ、その通りだ! 全部、お前が悪い!」と声を大にして叫びたい衝動に駆られる。  こんなにも弱りきった自分を見せるのは本意ではない。しかし、彼の前でいつも通りに振る舞うことは、今は無理なようだ。  シャワーを浴びて髪を乾かしてはきたが、完全に乾き切っていなかったようで、緩いパーマをかけたような癖毛が今日は一段と広がっているように見える。その髪を手櫛で整えながら、早くマンションに着くことを願っていた。  気まずい空気だけが狭い車内に流れていく。  話したいことはたくさんある。華城が不在中の契約状況とか、打合せで変更になった件、それに新規案件の見積依頼など、相棒として知っていてもらいたいことは山ほどある。――それなのに口が開かない。  このまま彼とは話せなくなるのではないかという不安と恐怖が同時に襲いかかり、俺の胸をまた苦しくさせる。  素直になりたい。でも、出来ない……。  いろんなわだかまりを残したまま、自宅マンションの近くの見慣れた風景にホッと息を吐く。  車道の端に車を止め、ハザードランプのボタンを押した彼の指先が微かに震えていた。 「――明日はちゃんと仕事するから。悪いな……」  シートベルトを外し、彼の顔を見ることなく気怠げに言い放つと、体を捩じって後部座席に置かれたバッグを手に取った。  その時、俺の肩をシートに縫いとめるように華城の大きな手が押さえつけた。 「な……っ」 「――杉尾さん。何か……隠してませんか?」 「え……? 隠すって……何を、だよ」 「いつものあなたらしくないっていうか……。いくら飲んでも、誰かと一夜を過ごした後でも、今日みたいに俺の目を見ないことはなかった。一体、何があったんですか! 俺は、あなたの相棒だ。聞く権利は……ある」  答えるまで絶対にこの手を退けることはない……というほどの力で押さえつけられた俺は、真っ直ぐに見つめてくる彼の黒い瞳から視線をそらすことが出来なかった。  自分の気持ちをひた隠し、それでも虎視眈々と狙っていたはずの男。  絶対に堕とす自信はあった。――でも、それは昨日までの話だ。  くっきりとした二重瞼のおくで鈍い光を放つ黒い瞳にすべてを見透かされてしまいそうで怖い。  俺はそれでも必死に逃げようと、彼からの視線を遮断するようにそっと瞼を閉じた。 「――お前はまた、深手を負った傷に塩を塗りこむ気か?」  抑揚のない声でそう呟きながら肩を押さえた彼の手をそっと掴むと、華城が小さく息を呑んだのが分かった。  ゆっくりと大きく息を吸いこむと、俺は破裂寸前にまで膨らんだ想いを一気に吐き出した。 「ハッキリ言ってやる。――俺は、お前に失恋した」  瞼を震わせながら目を開いて、今度は挑むように彼を見据える。  わずかに目を見開いたまま動きを止めた彼に、俺は自嘲気味に笑って見せた。 「俺はお前に惚れてた。ずっと、ずっと前から……だ。ノンケのお前は、俺みたいな男に惚れられるのは迷惑なのかなって。でも、いつかは絶対に堕としてみせるって息巻いてた。そんだけ、俺には自信があった……。でも、現実はそう甘くない。お前には恋人がいた……。しかも、俺の大嫌いな奴だ。あんな奴に負けるなんて……俺はとんだ道化だ。まあ、仕方がないことだと思ってはいる。お前に惚れていながら、他の男と寝てるんだから自業自得だ。それに、こんな尻軽ビッチが穢れた体を差し出したところで嬉しくも何ともないだろうし……」  溢れそうになる涙を必死に堪える。昨夜からあれだけ泣いているのに、涙は枯れることを知らない。  肩を押えつけていた華城の手がふっと軽くなる。それでも張りついたままの手を肩から引き剥がし、俺は顔を背けたまま吐き捨てるように言った。 「――お前が聞きたかったこと。これが全部だ……。バカにするならしろ。俺は、みんなが言う女王様(クイーン)なんかじゃない。ただのヘタレた負け犬だ」  すべてを言い終えて、胸につかえていたものがスーッと消えていく気がした。  どれほどのモノが俺を苦しめていたかと、その大きさに驚く事しか出来ない。  これでもう何も隠す必要はない。潔くコンビを解消する理由付けにもなるはずだ。  後部座席からカバンを掴み寄せドアを開けようと体を戻した時、再び華城の手が俺の肩を掴んだ。そして、物凄い力で引き寄せられ、俺は瞠目して息を呑んだ。  端正な顔があっという間に間近に迫り、彼の薄い唇が驚きで半開きになったままの俺の唇を塞いだ。  無遠慮に隙間から忍んで来た厚い舌に、口内をねっとりと蹂躙される。歯列をなぞり、逃げようとする俺の舌を絡め取るように強引に口内を犯された。  舌先にわずかに感じた苦みから、また彼が煙草を吸った事が窺える。 「……っん……ふぁ……んんっ」  彼の舌技にすべてを持って行かれそうになりハッと我に返る。自分が置かれている状況を理解した体が咄嗟に動き、逃げようともがいてはみるが肩にかかった手はびくともしない。それどころか、さらに強く引き寄せられ、俺は華城の力強い腕に囲われるように体を預けるような形になってしまった。  いつ誰が通るか分からない自宅マンション前での暴挙にハラハラしつつも、口内を愛撫し続ける彼の舌の動きに翻弄される。  水音を立てて混ざり合う、どちらのものとも分からない唾液が呑み込めずに、唇の端から溢れて顎を伝った。そして、その軌跡を辿るように華城の舌が掬い取る。濡れた唇を音を立てて啄み、また角度を変えながらより深く重ねる。  まだ体内に残っているアルコールが唇に施される愛撫で熱せられ、再び酔っ払うかのように頭がボーッととして何も考えられなくなる。  掴んでいたバッグを持つ手からも力が抜け、足元にドサリと音を立てて落ちた。 「ん……ぅぁ……んっ……はぁ、はぁ……っ」  ハザードランプの点滅を知らせるカチカチという音が響く車内を、濡れたリップ音と次第に荒くなっていく吐息が淫靡な空間へと変えていく。  顔が火照り、体のどこかしこが熱く疼き始めた時、やっと彼の唇がチュッと小さな音を立てて離れた。  銀色の糸を纏わせながら離れていく唇を霞んだ視界に捉えながら、まだ物欲しげに戦慄く自身の唇をキュッと噛みしめた。 キスによって昂ぶった彼の熱い吐息をすぐそばで感じ、浅ましくも体の芯がズクリと疼いた。 「はな……し……ろ」  咎めるような目で彼を見つめ、その名を口にする。 「――誰が、誰に失恋したって?」  今までに聞いたことのないくらい甘く低い声で囁かれ、混乱する頭を何とか整理しようとする俺の抵抗を阻止する。 「俺がどれだけ嫉妬していたか、お前は気づいていると思ったんだけどな……」 唇に触れるか触れないかの距離でゆっくりと言葉を紡ぐ彼の強烈な色香にペースを崩され、普段の自分を取り戻すことが出来ない。 「――え?」  野性味を帯びた黒い瞳から放たれる熱い視線を至近距離でまともに受ければ逃げることは叶わない。すでに心も体も灼熱の矢に射抜かれた俺は身動きすら出来なかった。  わざとリップ音を立てて唇を啄む華城に、視覚だけでなく聴覚からも追い込まれる。 「お前は女王(クイーン)のままでいろ……。そうでなきゃ、下剋上は成り立たない」  彼が何を言っているのか、理解出来ない。  普段は『後輩』として接している彼が、今は俺を支配する年上の男にしか見えない。  絶対的な力でねじ伏せられ、支配されることに愉悦を感じているのはなぜだろう。  俺は失恋したはずなのに……。 「――お前が言う通り、K興産の吉家と寝た……。だが、付き合ってはいない」  崖っぷちに立たされていた俺の背中をポンと押された後で、命綱がついていたことに気づくというような、アップダウンの激しい彼の告白に、キスで逆上せたままの頭はついていかない。 「信じるか、信じないかはお前次第だ……」  そう言って、もう一度角度を変えて深く口づけた後、すっと身を引くように離れていった。  その熱を追いかけようと、わずかに覗かせた舌が名残惜しそうに戦慄く。 「明日の朝、迎えにきます。――逃げないでください」  力強い口調でそれだけ告げると、華城はハンドルに手をかけて前を向いた。  完全に脱力した俺はのろのろと体を起し、やっとの思いでドアを開けて、ふらつきながら外に出た。  ドアを閉めると同時に走り出した営業車を見送って、俺はその場に膝から崩れ落ちた。  まだ彼の感触の残る唇にそっと手を当てて、独り呟く。 「――何だったんだ。今のは……」  自身に起きたことの現実味のなさに茫然とする。しかし、夢にしてはあまりにもリアルでまだ濡れたままの唇が微かに震えている。 閉じた腿の間に違和感を感じて恐る恐る下肢に手を運ぶと、その場所は完全に勃起していた。キスだけで勃ってしまった自身が恥ずかしく、頬が熱いくらい火照っているのを感じる。  キス一つで俺のすべてを持ち去った男――華城騎士。  俺は恐ろしい男に惚れてしまったのかもしれない……と、今更ながらに身を震わせた。 *****  その日の俺は夕方まで惚けていた。  二日酔いをも醒ます強烈なキスを華城からくらった俺は、あの後すぐさまトイレに駆け込み自身を慰めた。  腑抜ける――を身を以て体感した。自慰を終えたあとは何もする気にもなれず、着の身着のままで雑然としたリビングのソファに腰掛けたまま過ごした。  窓の外が薄暗くなり始めた頃、テーブルの上に置かれたスマートフォンの着信でやっと現実世界に引き戻された俺は、画面をタップして耳に押し当てた。その瞬間、鼓膜を破らんばかりの金切り声がスピーカーから響き、咄嗟に手にしていたスマートフォンを遠ざけた。 『ちょっと~っ! 仕事サボって、何やってんのよっ』  受話音量を無視して叫ぶ夏樹の声に、靄がかかったままだった頭の中が一気に覚醒する。  ブルッと頭を軽く振って、一度画面を見つめてからおずおずと耳に押し当てた。 『夕べ、私がどんだけ心配したと思ってるのよ! 完全に着信無視してたでしょ! 喫茶店で別れた後、なんだか様子が変だったから何度も電話したのに……。そしたらマスターが出て酔っ払ってるとか言うし。今日は今日で会社にも顔出さないで、一体何をやってたわけ? 華城くんが復帰したっていうのに、相棒のあなたがいないって、どういうことよっ』  怒りとも心配ともつかない感情が溢れ出し、一気にまくしたてる彼女の言葉を遮ることは到底無理だと判断した俺は、彼女が落ち着くまで喋らせるだけ喋らせた。  言いたいことをすべて吐き出した夏樹がふぅっと吐息した瞬間を見計らって、俺は小声で切り出した。 「悪かったよ。お前には心配ばっかりかけてる……」 『――へ?』  彼女の素っ頓狂な反応に、また変なことを言ったのかと不安になる。 『――ちょっと、まだ酔ってる? どうして今日はそんなに素直なの? 今日の杉尾、気持ち悪い……。何かあった?』  彼女が驚き『気持ち悪い』と言うのも無理はないだろう。  この俺が、彼女の一方的な文句に言い返すこともせずに謝ったのだから。 「どうもこうも……。俺自身が困惑してる……」  そして、昨日の華城のマンションでの出来事から今朝までの事をすべて話した。一部記憶が抜けている部分は「仕方がない」と大目に見てもらった。  途中「マジ?」とか「ひぇ~」とか短い単語を口にした夏樹だったが、俺が想像していたリアクションは得られないまま比較的おとなしく話を聞いていた。つい先ほど、夏樹からの電話が来るまで完全に腑抜けていたことも素直に明かした。もちろん、自慰をしたことは内緒だ。 『――それは、それは。さすがの女王様(クイーン)もご心労ね……』 「まあな……。どうしていいか、正直分からなくなってきた……」 『でも、それって……。どさくさに紛れての告白だったってことでしょ? まぁ、見知らぬ人と一夜を過ごした後っていうのが、杉尾的には罪悪感拭えないけどね』 「――告白と受け取っていいのか? 俺はてっきり……」 『K興産の吉家とは付き合ってないってハッキリ言ったんでしょ?』 「でも、寝た……って」 『そんなのお互いさまじゃない! あなただって行きずりの男がいたわけでしょ? だったら面倒くさい意地なんか張ってないで、彼の胸に飛び込んだらどう? ホント、普段は強気なクセに本命には超がつくほどヘタレなんだから……』  彼女の大きなため息を聞き、呆れ顔であの大きな目を細めた顔が浮かんできて口元が自然と緩む。  今まで夏樹の恋バナは聞いたことがなかったが、俺と似ているところが多い彼女もまた、本気になった相手には内に秘めている『乙女』の部分が露呈するんだろうなぁ……と思うと可愛く思えてくる。  似た者同士が近づいて、互いに似たようなことで悩む。  もしも夏樹にそんな日が来たら、俺もこうやって彼女を慰めて、力づけてやることが出来るのだろうか。 『――とりあえず、明日は会社に来なさいよ! 松島部長が設備業者との折衝して、K邸の最終見積仕上がってるから持っていってもらわないと困るし』 「あぁ……分かってる、明日は行くから。――アイツ、迎えに来るっていうし」 『きゃ~! すでにラブラブムード? あ~あ、余計な心配して損したっていうか……うんうん。いい感じ!』  まるで自分の事のようにテンションをあげる夏樹に苦笑いして、俺は電話を切った。  夏樹と話せたことで、心なしかスッキリしている自分がいる。  のそりと立ち上がって洗面所へ向かうと、鏡に映った情けない顔をまじまじと覗き込む。  どれだけ泣けばこんなに腫れるんだ? というくらい赤くなった瞼を指先で触れて、シャツの襟元からチラリと見えた情痕に眉を顰める。  俺がスーツを着ているのを知っていて、こんなに目立つ場所に、しかもガッツリとキスマークを残していったあの男に腹が立つ。これさえなければ、華城の態度も変わらなかっただろう。  そして、あんなこと――キスすることもなかった。  一日経っても薄くなる気配のない痕に舌打ちをして、水道のレバーを捻ると冷たい水で勢いよく顔を洗った。

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