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世界は平熱をやめた
憧れが恋に変わるのはよくある話で、水嶋明月 もまた例外ではなかった。どこの現場に行っても無意識にその人を探してしまう。最近では、同じ番組で共演することもめっきり減り、最後に会ったのはいつだったか思い出せないほどになっていた。
芸人という職は、ほとほと特殊だと水嶋は思う。漫才やコントを主たる『芸』としながら、テレビで求められるのはその『芸』ではない。司会、雛壇のにぎやかし、ドッキリ、時には俳優など、たいしたスキルも持ち合わせていないのに、万能であるかのように色んなことを求められる。
最近の水嶋はコンビではなくピンで呼ばれることが多くなり、その内容は司会のアシスタントや、情報バラエティ番組のレギュラー、それから雛壇に座る時は中堅として扱われ、ここぞという時には的確なコメントをしなければならない。まだ28歳で芸歴も10年を越えていないのに『若手』として扱われなくなりつつある現状に、水嶋は身も心も疲弊しきっていた。
なにより想い人である椎堂善継 に会えないことが、水嶋の鬱屈した心により一層の影を落としている。会いたい会えない。そのふたつが振り子のように揺れ、心の沼を波立たせる。連絡先を知らないわけではない。だが、気軽に連絡出来るほどの仲ではないということは、当の水嶋が一番よく知っている。ただの後輩。それも違う事務所の。共通点はどこにもなく、交流地点があるとすれば、テレビ局のどこかでしかない。
だから、自動販売機の辺りを、喫煙所の前を、トイレの周辺を、まるで標的を失ったストーカーのようにうろついている。しかし、うろつけどうろつけど、椎堂の姿はどこにもない。今日も会えないまま空振りかと重いため息をこぼした時――。
「あれ? 水嶋くん?」
水嶋の背中に飛んでくる明るい声。それは、振り向かずともわかる、椎堂善継の声だった。
「……椎堂さん……お久しぶりです」
「ほんとだね。すげえ久しぶり。元気だった?」
水嶋より頭ひとつぶん低い身長。メガネの奥の瞳は、いつも少年のような好奇心に満ちている。水嶋より7歳も年上の椎堂は、5年前に離婚しておりバツイチの子持ちだ。
「ぼくは……まぁまぁ。椎堂さんは?」
「俺ぇ? 見ての通りよ。元気だし仕事もぼちぼち」
言いながら自動販売機に歩み寄り「なに飲む?」と聞いてくる。つまり、この場で話をすることを水嶋は許されたのだ。
「あ……じゃあ、コーヒーを」
「コーヒーね」
にこにこと屈託のない笑みを浮かべる椎堂は、誰に対しても壁がない。いつも明るく元気で、なにも考えてなさそうな顔をしながらも、類稀なワードセンスと瞬発力でもって、どんな現場でも遺憾なくその実力を発揮する天才肌だ。
「この間の大喜利観ましたよ。椎堂さん、めっちゃ活躍してはりましたね」
「いやいやいや。あんなのまぐれよ、まぐれ。大喜利なら水嶋くんだって得意でしょ?」
「いや、ぼくは……椎堂さんには敵いません」
「そう? そう思う?」
「え、はい」
椎堂の目がキラキラと無邪気に光る。
「なんかいいね、そういうの。うちのさ、事務所の後輩。ぜーんぜん敬語とか使えなくて? 水嶋くんみたいに褒めてくんないからさぁ」
あまりにも子供じみた言い分に、水嶋は呆気にとられてしまう。しかし、椎堂のこういうところが水嶋には眩しくて仕方がない。素直を絵に描いたような。少年よりも少年なアダルトチルドレン。
「お腹すかない?」
「そうですね。でも、椎堂さん時間ないでしょう?」
「んー……だからさ、今度メシ行こうよ。水嶋くん、なにが好き? 肉? 魚?」
「いえ、あの……」
「酒飲みながらおでんとかもいいね」
「……わかりました。旨いおでん屋、リサーチしておきます」
「え、マジで? 絶対だよ? 俺に社交辞令とかないからね?」
「はい」
楽しみだなあと、子供のように約束を信じて疑わない横顔に、水嶋はまた一段深い沼へと落ちていく。
「あ、もう行くわ。えーと、連絡して? あと、これ! じゃあね!」
慌ただしく立ち上がり、ポケットから取り出したなにかを水嶋へと放る。取り残された水嶋の手にあるのは、真四角のチロルチョコ。どうしてこんなものをポケットに? と、椎堂の子供っぽさに苦笑いし、コーヒーの缶をゴミ箱に入れたところで、水嶋はハッとした。
いや、まさか。
そんなわけがない。
否定の言葉をぐるぐる頭の中で転がし、水嶋は真四角のそれを丁寧にポケットに仕舞った。耳が熱い。いや、耳といわず、じわじわと身体中に広がる熱。
「……ほんま、もう……」
次に会った時、椎堂にチョコレートの意味を聞いたところで、たいした返事は返ってこないだろうと水嶋にはわかっている。それでも、水嶋の平熱を奪い去り、全身に毒のように広がった熱の責任は椎堂にあるのだ。
おでんをつつきながら、酒を酌み交わす日は、そう遠くない。
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