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1 初めまして、大好きです

 入学式当日、見事な晴天に気をよくして鼻歌交じりに階下へ降りる。真新しい紺のブレザーに赤と白のストライブ柄のネクタイは別段珍しい組み合わせではないが、涙ぐましい努力の証なので誇らしい。  リビングに行く前に洗面所の鏡でヘアスタイルをチェックしていると、そこへ香晴が顔を出して言った。 「ワックスで整えてやろうか?」  鏡越しに悪戯めいた笑みが見え、軽く肘で小突いた。 「教師の台詞じゃないよ。髪色も原則茶色意外に染めたら駄目だし、緩そうに見えてそれなりに校則は厳しいんだから」 「そうかそうか。ノアはもともと薄茶だから染める必要ないな」  笑いながら猫っ毛を撫で回され、髪型が崩れるからと叩き落とす。 「セットが済んだら、早く允にその姿を見せてやれよ。泣いて喜ぶぞ」 「はいはーい」  立ち去る香晴に適当な返事をし、改めて鏡の中の自分とその髪色を眺める。βとして産まれたからには仕方がないことだが、顔は良くも悪くも平均的、そして唯一気に入っているのは目元の泣きぼくろと香晴に指摘された髪ぐらいだ。  ふと、毛先を指に巻きつけながら、神澤の赤い髪を思い浮かべた。顔にばかり目が行って髪にまで意識が向いていなかったが、中学生の時からあの色だった気がすることを考えると、あれは生来の色なのだろうか。  そして、冷たい目を向けられた時に知った何色にも見える不思議な虹彩。あの瞳にもう一度映してもらえるならば、何だってしようと改めて思った時、リビングから允の呼ぶ声がした。 「はあい」  大声で返事をし、洗面所を出てリビングへ向かうと、海が突進して来た。この春で四歳になる海も入園式を控えているのだが、皆で甘やかして育てたせいか、大層な甘えん坊になった。 「兄ちゃん、抱っこ」  抱っこをせがむ海の望みを叶えてやりたい気持ちは山々だが、せっかくの真新しい制服が皺になりそうだ。かと言って、ノアに一番懐いている海の望みを断ると泣き出すのが目に見えている。  どう答えたものかと悩んでいると、家事を終えたらしい允が代わりに海を抱え上げた。 「やだ、兄ちゃんがいい」 「こら、兄ちゃんは今から学校に行かなくちゃいけないんだから。我がまま言うと連れて行かないぞ」 「ぶー」 「ぶーじゃなくて、はいでしょ」 「はあい」  允に叱られて大人しくなった海を見て和んでいたが、香晴が放った一言で慌てた。 「ノア、あと二十分切ってる。急いでご飯を掻き込め」 「やっば」  ノア以外は既に食事は済んでいるらしく、着替えるために別室へ向かう。その際、振り返った允が花が咲くように微笑んで、入学おめでとうと言った。明らかに目元が潤んでいたので、式中は号泣しているだろうなと想像して笑った。  車で五分ほど走った後、満開に咲き誇った桜並木の奥に校門が見えてきた。海里高等学校入学式と書かれた看板が門に立て掛けられており、新入生と思われる生徒どころか学生のどの姿も見えない。  遅刻したのかと思い、車が止まると同時に慌てて降りた。 「じゃあ、俺は先に体育館に行ってるから」  背後から分かったと聞こえた気がしたが、確かめる余裕もなく、そのまま体育館へ直行しようとした。しかし、体育館へと続く渡り廊下は生徒の列で埋め尽くされており、なかなか前へ進めない。  本来ならば教室に向かった後に新入生の列に加わるのだが、その時間はなさそうで、直接体育館に入ってから新入生を探した方がいいと判断した。 「すみません、通してください」  なんとか前に進み、人垣を掻き分けようとするも、当然ながら自分より体格のいい上級生を押しのけるのも、間を通るのも至難の業だ。舌打ちされ、頭を下げながらもゆっくり前に進んでいた時だった。  ふいに視界が開けたかと思うと、長身の赤毛の男が目の前にいて、手鏡で身なりをチェックしているところを同級生に小突かれていた。自然と高鳴る鼓動を抑えながら近付くと、その小突いていた男が確かに神澤と呼ぶ声を聞いた。 「神澤、お前は鏡なんか見なくても完璧だろ?ちょっと手鏡貸して。寝癖を直してくるの忘れたんだよ」 「駄目だ。これは俺の大事な……」 「いいじゃん。貸してって」 「おい、やめろ」  同級生に奪い取られそうになる手鏡を離すまいと揉み合ううち、手鏡がつるりと滑って落ちかけた。 「あっ」  神澤が焦って手を伸ばすが、間に合わない。 しかし、その様子をじっと見ていたノアの動きは早かった。見事に手鏡をキャッチしてみせると、神澤の前に差し出す。 「あの、どうぞ。大事な物なんですよね?」  神澤の整い過ぎた綺麗な顔が、ぽかんとノアを見て、手鏡とノアの間を視線が往復する。ごくりと生唾を飲み、震える手の平の上で手鏡を捧げ持ちながら、緊張のあまりぎゅっと目をつぶってしまうと。 「ありがとう」  それだけをぽつりと言って、神澤がノアの手から手鏡を受け取る時、僅かに指先が触れた。たったそれだけの接触で背筋が震えるほどの喜びと、同時にはっきりと感じてしまいかけたノアは、思わず口走っていた。 「は、初めまして、大好きです!」

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