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レイニング
昨夜から雨は激しく降り続き、昼前になっても雨脚が弱まることはなかった。着慣れない背広の中は蒸して、ネクタイを緩めてもちっとも良くなった気がしない。こんな日に結婚式だなんて、兄貴は本当についてない。
「真浩、ここにいたのか」
喫煙所の扉を開けて、白く輝くタキシードに身を包んだ兄貴が手を挙げる。
「式場に着いてたんなら連絡しろよ、母さん探してたぞ」
「探してたんなら電話すりゃいいじゃん、携帯持ってんだから」
兄貴は呆れたように肩を竦め、俺の隣に腰かける。
「煙草臭くなっちゃうよ、すぐ出るから外で待ってて。新郎がそんなんじゃ、相手の家族に悪いだろ」
不自然に見えるほど、白く輝くタキシード。俺の口から吐き出される煙に巻かれて、その白が汚れて霞んでしまうような気がした。兄貴は俺の指から短くなった煙草を引き抜くと、それを自らの口に咥えてひと息にフィルター近くまで吸い上げた。そして大きく煙を吐き出し、似合ってる? と涼やかな顔をして笑う。
「………似合ってるよ」
言葉尻は酷く掠れた。祝福してやるつもりなんかこれっぽっちもなかった。吐き出す煙でこのタキシードが黒く暗く汚れてしまえばいいと思った。雨でよかったと思った。この式が素晴らしいものになればいいなんて、思うはずもない。台無しになってしまえばいいとさえ思っている。願っている。最低な気分だ。
「なあ真浩、じいちゃんが作った竹とんぼ、覚えてるか」
唐突にそう訊ねる兄貴は、ぴたりと身体に張り付いたタキシードが窮屈そうで何度も脚を組み直した。
「竹とんぼ?」
訊き返せば、そう、と頷く。
「子供の頃、夏にさ、じいちゃん家に行って竹とんぼ作ってもらっただろ、覚えてない? 最初はじいちゃん家の庭で遊んでたんだけど、何度も洗濯物に絡まるから、河原に行ったろう」
そう言われてみればそんなこともあった。なんてことはない、幼少期のありふれた思い出だ。
「そしたら真浩、その竹とんぼ川に流しちゃって」
そうだ、あの日は前日が雨で、川の水嵩はいつもより増して流れも速かった。俺の手から離れた竹とんぼは、見る見るうちに方向を変え、川に吸い込まれるようにして落ちてしまったのだ。あーあ、と残念そうに呟いた幼い日の兄貴の顔が浮かぶ。
「あの後、おまえすごく拗ねちゃってさ、じいちゃんに新しいのを作ってもらおうって言ったのに、いやだって言ってきかなくて」
「そうだったっけ」
「そうだよ」
じいちゃんを悲しませると思ったのだ。縁側に座り、小さなカッターナイフ一本で器用に竹を割き、丁寧に形を整え、兄弟で仲良く使えよ、とじいちゃんは夏が来るたびに俺たち兄弟に、竹とんぼをひとつだけ作ってくれた。せっかくじいちゃんが手間をかけて作ってくれたそれを、兄弟で仲良く遊ばなければならなかったそれを、自分の失態で失くしてしまったのが酷く悲しかった。あーあ、と残念そうに呟かれた兄貴の声が、尚更その悲しみを掻き立てた。どうすることも出来ずに下流へ向かってぐんぐんと流れていく竹とんぼを見つめ、こんな気持ちになってしまうくらいなら、もう竹とんぼなんかいらないと歯を喰いしばった。泣きたい気持ちを必死に堪えて、先を行く兄貴の背を追いながら家路についたのだ。翌年の春じいちゃんは亡くなって、竹とんぼを作る人もいなくなった。川に溺れてなくなってしまった竹とんぼは、二度とこの手に戻ることはない。
「本当は欲しかったくせに」
その響きが妙に寂し気で、まさか兄貴はその日のことを根に持っているのだろうかと疑った。
「その頃から、真浩は変わらないな」
兄貴の栗色の瞳が、真正面から俺を貫いた。
「もう戻って来ないんだぞ」
何が、とは訊けなかった。やけに神妙な眼差しを俺に向ける兄貴は、幼い日の竹とんぼのことを言っているとはとても思えなかった。手のひらにじわりと汗が滲む。それが雨による湿気のせいでないことくらい分かっていた。生唾を飲み込み、何か告げなくてはと思っているのに、何故か喉はからからでひとつも言葉が紡げない。
「いくじなしだな」
兄貴は眉を下げて笑い、唇を震わせた。
「俺、本当に結婚しちゃうんだぞ」
全身から汗が噴き出し、思わず兄貴の身体を抱き締めた。つやつやと滑らかなタキシードに、いくつもいくつも皺をつくって抱き締めた。
「兄貴、好きだよ」
焦ったように、唐突にそんな言葉が飛び出した。息が上がり全身が震え、暑いのか寒いのか分からなくなって、ダムが決壊したみたいに、情けないほど涙を流した。熱い涙が頬を伝って、兄貴のタキシードにたくさんの染みをつくった。このまま、汚れてしまえばいい。俺の吐き出した紫煙混じりの吐息で汚れて、俺の流した涙に濡れて、もうこの結婚式なんてなくなってしまえばいい。何もかも、台無しになってしまえばいいのに。
兄貴の顔は見えないけれど、俺の背にゆっくりと回された腕の体温だけは確かで、それを離して欲しくなくて、これ以上ないほどの力を込めて抱き締めた。
「何でもっと早く言ってくれないんだよ」そう言った兄貴の声は濡れていた。
「俺の気持ちが分かっていながら結婚するなんて、そんなの勝手だ、酷すぎる」
仕方ないだろ、と兄貴はひき切らせた喉から絞り出したような声で呟いた。
「兄弟なんだよ、俺たちは」
それを皮切りに、暑苦しく狭い喫煙所の中でわんわん泣いた。ふたり抱き合いながら、これが最後だと理解していた。流されてしまった竹とんぼは戻らない。死んでしまったじいちゃんは、生き返らない。それと同じだ。
全身を汗だくにしながら、身体を離して兄貴の頬を両手で包む。涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、結婚式を控える新郎の姿にはとても見えなかった。
「はは、最高だ」
こんな顔で隣に立つ新郎を、新婦はどう思うだろうか。雨脚は更に激しさを増していく。招かれたゲストたちは洒落込んでの外出が億劫になってしまうだろう。新婦の髪のセットだって、きっと湿気の所為で思うようにはいかない。そうなればいい。すべてが最悪に繋がってしまえばいい。
「真浩………」
俺の名を呼んだ兄貴の声は、甘く濡れていた。こんな声を聞くのは初めてだった。そしてタキシードの内ポケットを探り、四角い小さな箱を取り出した。
「兄貴………」
「本当はこれから、スタッフに指輪を預けに行くところだったんだ」
兄貴は細く白い指でそれを開けて見せ、ふたつ並んだ揃いの指輪を俺に差し出した。
「だからその前に………真浩」
そう言って兄貴は指輪の納められた箱を俺の膝に置き、自身の左手を差し出した。
「だけど、これサイズが………」
この期に及んでまだそんなことを言うのか、と兄貴は顔を顰めて見せた。息をのみ、恐る恐る指輪に触れた。新郎用のものなら兄貴のサイズに合わせてあるけれど、しかしそうすれば新婦用の指輪をはめるのは俺で、俺の太い指じゃ先を囲うくらいで精一杯だろうから、新婦用の指輪を兄貴の薬指に通した。最初はスムーズだったそれも第二関節でとまり、兄貴は堪らず笑みを漏らして、箱に残されたもうひとつの指輪を手に取った。
「真浩、早く手を出して」
「………うん」
汗ばんだ手のひらを腿で拭き、二三度拳を握ってから差し出した。兄貴の冷えた手が俺の手を取り、銀色に縁どられた輪っかに指が埋められる。兄貴の手が震えているのが見て取れた。結局それも第二関節で詰まってしまって、何度やってもそれ以上にはいかなかった。兄貴は笑って、俺もなるべく笑顔に見えるように表情を作って、互いの指におさまる滑稽な指輪を眺めた。
「ふふ………っ」
唇は確かに弧を描いている筈なのに、視界は霞んで、水の入ったバケツを引っ繰り返したみたいにばしゃばしゃと、雨降りの日のように頬は濡れた。兄貴も同じだ。みっともなく、情けない顔を晒しながら互いの額をぶつけ合い、兄貴が鼻を摺り寄せるとそのまま唇を重ねた。指を絡めあい、兄貴の指にはめられた指輪がするりと抜けおち、繊細な音を立てて床に転がった。だけどそれを気にすることなんてなかった。互いの唇に夢中になって、すぐ傍にある未来を思って泣いた。
じいちゃん、本当は新しい竹とんぼを作って欲しかった。俺はいつも、全てを台無しにしてしまう。そしてそれを一番に悔やむのも自分自身だ。
兄貴、本当は結婚なんてして欲しくなかった。おめでとうなんて、口が裂けても言えない。愛しているだなんて、もっと言えない。俺はあの日のように今もいくじなしだから、ここから逃げ出そうなんて言えやしなかった。狭い喫煙所で寄り添って、手を握って、唇を重ねて、そして数分もすれば離してしまう。たったそれだけのことで終わってしまう。数分後の俺は、俺じゃない誰かとキスをする兄貴を見るのだろうし、兄貴も俺じゃない誰かに、あの指輪をはめるのだろう。全てがなくなってしまえと願った。けれど、なくなりはしないのだ。どれだけ今日が雨でも、列席者は喜んでこの場を訪れるのだろうし、新婦の髪は湿気に困ることはない。ただ喜びだけに満たされた式になるだろう。それを俺はどんな気持ちで見守るのだろうか。勢いよく流されていく竹とんぼを、棺の中で目を瞑るじいちゃんを、俺はどんな気持ちで見送っただろうか。後悔はいつも無遠慮に俺を襲う。すべてがなくなってしまえ、なかったことにしてしまえ。川に流された竹とんぼも、棺の中のじいちゃんも、今日というこの日も、全部全部、なくなってしまえ。
「真浩、愛してる」
長い長いキスの合間に、兄貴はついにそう告げた。教会の鐘がなる。雨が五月蠅く屋根を叩く。目の前の兄貴を抱き締めた。暑い喫煙所だった。背広の中は不快に蒸れていた。この手を離せばもう、俺たちは兄弟だった。
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