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いんぐりもんぐり

 ノンちゃんが、それはそれはかわいいピンク色をしたスニーカーを買ってきて、ノンちゃんの足のサイズだからメチャクチャでかいわけだけどひもから縫い目からゴムの底までぜんぶピンク色のしろもので、なんていうのかな、カートゥーンの世界から来たピンクだと思った。ちょっと青みがかったうすいピンク、アメリカのお菓子みたいなピンク。かなり突飛だしいくらなんでもかわいらしすぎやしないかと思ったが、ノンちゃんが履いたらちゃんと洒落た感じになったのでたいしたもんだなあと思った。こういうピンクは漫画の世界の女の子のものだと思っていた。でかくてごつくてカフェオレ色の肌の男にもすごく似合った。これまでおれはピンク色をおそれすぎていたのかもしれない。   どう? とノンちゃんは格好つけてポーズをとり、けども、すぐおどけて片足を上げてみせ、どっちにしたってきまっている。洗っていないスウェット姿でもだ。スニーカーの底のぎざぎざは波みたいにも内臓みたいにも見えた。底はちょっとだけピンク色が濃いのだ。 「かっこよくてびっくりした。ノンちゃんはなんでも似合うしなんでもかっこいいな」  おれが言ったら、ノンちゃんはぷっと笑った。二十一歳でおれの甥っ子で、いまは彼氏でもある。二人で住んでいる。なりゆきでこうなったがすっかりなじんでいて、自分でもたまに可笑しくて笑いだしたくなる。 「睦郎はおれのこと褒めすぎるよな」 「べつにお世辞言ってるわけじゃないよ、ふつうにかっこいいなって思ったんだよ」 「照れるじゃん」  狭くて暗い玄関だ。写真を撮ってくれというので撮ってやった。うちのドアは青色をしているから、なるほど、背景にするにはいい色かもしれない。外側はけっこう錆びがあるし塗装がところどころめくれているが、内側はまだちゃんと青かった。で、ドアにはマグネットをくっつけて鍵をぶらさげている。おれたちはすぐ部屋の中で鍵をなくすから。鍵にはペットボトルのおまけについてきたキーホルダーをつけており、なんのキャラクターだかおれもノンちゃんも知らないけども、水玉模様で糸目の猫をすっかり見慣れた。鼻のところが黒ずんでいる。あとでウエットティッシュで拭いとこうかなあと思う(いや毎日思うことは思うがやらずじまいだ、たぶん今日もやらない)。  それから、明るい窓辺でスニーカーだけの写真も撮った。いい感じに西日が射していた。そうしてさっき玄関で撮った写真はやはり光量が足りない気がするとノンちゃんが言うので、結局、屋上で撮り直した。おれたちの住むビルは屋上が物干し場になっている。雨ざらしでほこりっぽい竿とかロープとかハンガーとか、乾燥して割れた洗濯バサミとか、コンクリートの継ぎ目やひびに苔が生え雑草が生え散らかっているところもあり、それらを避けてどうにか靴だけ、足元だけ、きれいに映るようがんばった。からすがぶらりとやってきて、とととっと跳ね歩き、やがて去った。ばかにされているようにも励まされているようにも思えた。屋上は静かだった。アメ横のうるさい通りから四階分、ほんの何メートルか離れるだけで風の音しかしない、と思ったがそうではない、じっさい人通りが少ないのだった。下をのぞいたら通りは閑散として、シャッターを閉めている店も目立った。ざあっと吹き抜けた風がけっこう冷たかった。空は明るいけど夕方の色をしている。  上野や御徒町にビルをいくつも持っている地主のばあさんがいて、テナントの減ったところを民泊に改装しそこそこ儲けているらしかった。そのなかの一部屋におれたちは住まわせてもらっている。形ばかりの家賃を払いつつ、民泊の清掃とか客とのやりとりとかを任されている。ずいぶんラッキーな話だ。ノンちゃんが多少英語を話せるからというのもあったが、なんというかまあお情けだった(ノンちゃんは案外年寄りに好かれる)。でかいスーツケースを引きずった旅人が階段や廊下をうろうろし、おれたちは道案内してやったり写真を撮ってやったりしていた。自分たちの住む部屋だってAirbnbに登録しているからバックパッカーが泊まりに来ることがあり、知らねえやつと川の字で寝ることもあった。……ちょっと前までは。  部屋に戻るとすぐ、ノンちゃんはスニーカーの写真をメルカリにアップした。一万三千円、目立った傷や汚れなし、普段使いしています、即購入OK、などと書きこんだ。 「一万三千って高くないの」 「うん、ちょっと高めで出品した。まだ買ったばっかだし、すぐ売っちゃいたいわけでもないし」  最近ノンちゃんはメルカリにはまっていて、自分の服やら靴やら、それだけじゃなく家電もだ、すぐに売りに出しちまう。それなりに売れているのかしょっちゅうごそごそ梱包している。でかい背中をまるめ、でかい手が器用にガムテープやらなんやら留めてゆき、このあいだは扇風機を売ってしまった。まあ二台あるからいっこ残るけど夏になったらどうすんだ、うちは風の通りが悪いから二台ブンまわさないと即熱中症なのに。と言ったら、「将来の涼しさより今の四千円だろ」と口をとがらせた。たしかになとも思った。そうしてその四千円で一緒にめしを食いに行ったら、今度は着ていたマウンテンパーカーが売れたので、ノンちゃんはその場で脱いで送っちまった。店でファブリーズを借り、ずうずうしく紙袋ももらい、そのままコンビニから発送したもんだから帰りはTシャツ一枚だ。ノンちゃんは寒い寒いと腕をこすった。 「バカか?」 「でも六千円で売れたんだぜ」 「いらないものを売るもんなんじゃないの、いま着てる服まで売っちゃうことないだろ」 「でもさ、おれがいらないものはほかの誰かもだいたいいらないものっていうか、出してもぜんぜん売れねえんだよ。ふだん使ってるものだとほしい人がけっこういるっぽい、不思議なんだけどさ。だからふつうに使いながらちょっと高めの値段で出しといて、売れたら売っちゃうし、売れなきゃそのまま自分で使い続ければいいかなって」  なめらかでつやつやした肌が街灯の明かりに光った。あんまり寒くなさそうに見えた。ほとんど坊主みたいに短い髪。後頭部から首のラインが美しくカーブして、こいつはあたまの悪さとひきかえに神さまがちょっとひいきして作ったんじゃないかと思う。爪や手のひらはピンク色だ。でかい手で、バッキバキに画面の割れたスマホを器用にいじくるさまが、おれにはまぶしいもののように思える。  おれはノンちゃんにたずねた。 「使ってる物に愛着とかないの。やっぱ売らなきゃよかったなってさみしくなんないの」  ノンちゃんは首をかしげた。 「わかんない。今んとこ、売っててあんまりそういうことはない」  はっきり言う。おれは売られていく服や靴や電化製品を、自分のことだと思っている。つぎはおれだ。おれもいつかノンちゃんに捨てられるのだ。いや靴に感情移入するなんてばかみたいだ。おれに靴ほどの価値はない。ピンク色でもない。  ピザ屋の投げ入れたチラシを窓辺に広げ、ノンちゃんはスニーカーを置いた。飾ったつもりかもしれない。ごろごろ寝転がりながら眺めた。靴は履くものだけど、気にいった形や色は眺めているだけでも楽しい。わかる。おれもとなりに寝転んだ。床に毛布だけ、固いけれども、二人分の体温で毛布の中はすぐぬくもった。  ノンちゃんのまつ毛が西日に光っていた。黒くて太い。毛は線でなくて筒なんだよなあと、ノンちゃんを見ていたらまつ毛の一本一本がもつ面を意識した。光の当たり方が筒だった。髪も筒だしひげも筒だ、筒の中になんかいろんなもんが詰まっているのだろう、いや髪の毛ってなかみはすかすかなんだっけ……。くすぐってえなとノンちゃんが笑う。おれがノンちゃんのあごに手をのばしたからだ。ひげをこすってじょりじょりやった。鼻や頬っぺたも傾いた陽に照らされていた。ひげはまちがえた場所に生えてこないからすごいもんだよなあと思ったら、あごの下に一本はぐれたひげがあった。おれはそれをつまんだ。引っ張ったけど抜けなかった。 「なんだよ」 「ひげがある」 「睦郎もあるだろ」 「自分のは見えない」 「鏡見な」 「ノンちゃんはまつ毛長いな。これって枝なんかな、マカロニなんかな」 「何言ってんの?」  マカロニ一本一本に牛の骨髄を詰めた料理、というのをむかし漫画で読んだが、あれは羊の脳みそだったっけ……どっちにしたってぜんぜん味の想像がつかないな……。おれが思い出すことの半分くらいは漫画の中の話だ。ノンちゃんがまばたくと、まつ毛がばさばさいう。音がするわけでも風が起こるわけでもないが、ばさばさいっている、おれはしょっちゅう漫画の中にいるからわかる。  ノンちゃんがあくびした。眠そうだ。あくびのにおいをかごうとしたら、恥ずかしがって横を向いた。耳たぶをほそい産毛が覆っている。極小の草むらが光をまとって耳たぶの輪郭をぼやかしている。でもあれも筒で、面を持っている。手を伸ばしてたしかめようとしたらノンちゃんがうざったそうにしたのでもうやめとくことにした。「なんだよほんとに」、べつに何ってことはない。  スニーカーをじっと見つめながら、ノンちゃんがつぶやいた。 「見ようによってはイモムシみたいにも見えるよな」  おれに合わせようとしてくれたのか、ノンちゃんもよくわからんことを言いだした。いやすぐわかった。スニーカーはイモムシみたいに見えた。なんか虫。ぜんぶピンクで、でこぼこ、ぐねぐねしている。でもおれはあたまと心と口の接続がすぐバグるから、「どこが? ぜんぜんわからん」と意地悪を言った。ノンちゃんはちょっとすねた。  この靴は古着屋で手にいれたものらしいがユーズドではないという。いろんなものを扱っている店。ひみつの合言葉を言うとちょっとやばいものも出てくるとか出てこないとか、おれたちの住むアメ横にはそういうちょっといかつい感じの服屋がいろいろあって、千円くらいのTシャツから十何万もする革ジャンまでいっしょくたに扱っており、ときどきノンちゃんとひやかしに行くがおれはちょっとおっかない。店員(というか用心棒)の男もだいたいいかついし。まあ、どう見たっておれの身なりじゃ金がないのはわかるだろう、いきなりやばいものを売りつけられるってわけもないんだけど、四十三年動かしているぽんこつの体はいつぶっこわれるかわかんない、いきなりくしゃみをぶっぱなして商品に鼻水をたらしちまうとか、いやもっとやばいかも、前ぶれなくゲロを吐くとかそういうことをやらかすんじゃないかと、ありえない想像で体がこわばった。  おれはいつも最悪の想像を欠かさない。階段を降りるときは足を滑らせ頭を打つのだと思うし(去年ほんとに腰を打ったし)、包丁を使えば指を落とすさまを想像する。ノンちゃんとベランダで洗濯物を干して先にノンちゃんが部屋に入ると、あっおれ締め出されるな……と思う。べつにけんかも何もしてなくても、予感なんてなくても、いきなりガラスの扉をぴしゃりとやられて鍵を閉められちまう時がくるのだと、おれはつねにあたまのなかで最悪の予想をこねくりまわす。いやうちにベランダないじゃん。ベランダで洗濯物なんか干したことないじゃん。窓に無理やり引っかけるか屋上にのぼるかだ。これは何の記憶だ。たぶんぜんぶ妄想です。 「ピザ食いたいな」  ノンちゃんがスニーカーの下のチラシを引っ張り、言った。でもけっこういい値段がするなあとあくびもした。仰向けになって両手両足をのばし、きっと降参のポーズだ。がばっと開かれた腋をおれは枕にした。 「ピザ作ってやろうか」  ノンちゃんの腋のくぼみにちょうどよく頬が乗った。汗のにおいがしてちょっとうれしかった。 「えっ、睦郎ピザ作れんの?」 「知らない。作ったことないし、いま初めてそんなこと考えた」 「オーブンとかいるんじゃないかな」 「トースターじゃだめか」  ノンちゃんはうなった。 「うちのちっちゃいからな……おれはピザならでかくて丸いやつがいいな……」  ノンちゃんの父親は、ようするにおれの姉の夫だから義理の兄ってことになるけど、アメリカ人で黒人で横田基地に勤めており、基地は年に一度の友好祭で解放される。友好祭ではでっかいピザが売られている。でかくて丸いってああいうのだろうか。あれは生地がかたくて、食べるとあごが痛くなる。  で、あれこれ作り方を検索して、ピザはめんどくさそうとかお好み焼きにしようとかフライパンでパンが作れるとか餃子もいいなとかごそごそやるうちすっかり日が暮れて、なんだかもうじゅうぶんいろんなことをした気になったので、袋ラーメンを食べておしまい。スニーカーはずっとチラシの上でおとなしくしていた。  夜は寝る。朝も寝る。バイトがあれば出かけるけど、ない日のほうが多くなった。すると、昼も寝ておくかってことになる。ノンちゃんははじめ動揺した。おれたちどうなっちゃうんだろうと焦り、わめき、泣きそうな顔さえした。おれは気持ちの反射神経が鈍いので、すぐに焦ったり不安になったりできない。バイトないなら漫画でも読むか、なんだかいまはいろんな漫画が無料になっていることだし、読むのが追っつかなくて困るくらいだなあと、そういうおれのようすにノンちゃんはいらいらし、けども、なだめて一緒にスマホの画面をのぞきこむうちノンちゃんも漫画に夢中になった。そうして情緒不安定にかけてはおれのほうが先輩だ、自分でも意味のわからないタイミングで不安におしつぶされそうになることがあり、夜中に飛び起きて泣くなどした。ノンちゃんはちょっと呆れたが、ちゃんとおれをなぐさめてくれた。いや雑なやりかただ、眠そうにおれを抱き寄せ、自分の布団の中にひっぱりこんでおざなりに背中をなでるだけ。おれはノンちゃんの首に鼻をうずめた。汗でやわらかくなった首の皮膚にめりこませた。あるいは横から抱きついた。心臓の音や胃袋がごぽんごぽん動く音をきくと落ちついた。布団の中はノンちゃんの体温とにおいに満たされていた。でかい手がおれのケツをもむ。そのたび今はそういうんじゃないと手を払ったが、おれは流されやすいからそういうのになっちまうこともあった。  いや正直舐めていたのだ。ノンちゃんがバイトで任されている民泊は、本来なら春節はかきいれどきだったが新型コロナの影響で客足はいまいちだった。それでも二月はまだわりとふつうだったと思う。中国人は減っていたが欧米人の旅行客はそこそこ入っていたし、日本人の客なんかむしろ増えていた。なんだかんだ浅草も混みあっていたし上野もいつもどおりに見えた。おれたちは焦っていなかった。ただ三月に入ってからは、美術館や博物館、動物園が休園になりずっと開くことはなかった。行くところのない人びとが公園をうろうろしていた。ノンちゃんがメルカリにはまりだしたのはこのあたり。  あっこれはやばいやつだなとおれたちが実感したのは、オリンピックの延期でも有名人の死でもそんなの知ってたぜという非常事態宣言でもなく、ノンちゃんの父親が布マスクの作り方動画を送ってきたときだったと思う。米軍の広報ビデオで、でけえ白人の兵隊が着古したTシャツ(もちろんカーキ色だ)をじょきじょき切って不恰好な感じで口に巻き、こんなもんはマスクではなく口に布を巻いているだけで強盗かギャングかって感じだが、お前も気をつけろとノンちゃんにシェアしてきたのだった。おれたちはびびった。米軍がこんなんやってんのか? 金も人も物も無限に湧いてきそうな(いや無茶苦茶な力で湧かせているのだとは知っているけど)米軍が?  そうして社長から、しばらく民泊はクローズだと連絡がありいよいよきたなあと思った。すでにアメ横のかなりの店が閉まっていた。ガード下はうそみたいに人けがなくなった。商店会は空き巣狙いや不審者の見回りをしようということになり、おれたちも駆り出された(参加すると弁当がもらえるのでラッキーだった)。見回りったって、宿無しがおとなしく座り込んでいるのをたまに見かけるくらいだったが、やたらねずみが増えていたのでびびった。  ある日ノンちゃんが社長から百万円もらってきた。 「もらったっていうか、貸してくれたっていうか、しばらくこれでどうにかしなって」  うそだろむしろ金持ちじゃんとおれたちは浮かれたが、内心、まじでやばい、これはほんとのほんとにやばいやつなんじゃないかとこわくなった。金は貸してやるから出て行ってくれってなんのかな……もしかしたらビルを手放す可能性だってあるよな……、いややめよう、考えないようにしよう。百万円はお菓子の缶にしまった。おれとノンちゃんはくだらない言い合いが多くしょっちゅうばかばかしいけんかになるので、ちょっと前に作ったペナルティの貯金箱だ。悪かったほうが百円払う、一方的に悪いことをしたなあと思ったら五百円払うこともある、あるいは百円課金するからやつあたりさせろとか、お菓子の箱にじゃらじゃら投げ入れていた。そういう中に帯封のついた百万円を入れると現実感がない。金じゃないみたいに見えた。  夜、ふとんの上でごろごろ転がっていたら、ノンちゃんががばっと抱きついてきた。 「百万でキャンピングカー買うのってどうかな。いざとなったら車で生活できるし」  いかにも名案というふうに言う。長い足でがっちり挟まれた。足の裏が冷たいが、おれとちがってかさついていない。汗でしっとりしていて、くっつけていると気持ちよかった。 「百万じゃ買えないだろ」 「中古でも?」  指の股に指をつっこみ、ぎゅっと挟んだりぐりぐりこすりあわせたりした。おたがいに。おれたちは足の指でもしゃべっているのだと思った。 「維持費とかあるしさ……。とにかくいま金を減らさないほうがいいって、やっぱすぐ返してくれって言われたらどうすんだよ」  「そうかなあ。まあそうか。じゃあ、ちんこさわって」  じゃあってなんだ。足の指でもしゃべり足りない、それともしゃべりすぎてんのか。しゃべりすぎて、もうしゃべらんでもいいからそうなるのか。どっちにしたっておんなじことだ。おれはふとんの中にもぐった。下着ごとスウェットを下ろし、口の中でちんぽはすぐ硬くなった。まだしゃぶってとは言ってないのにとノンちゃんが笑う。みっしりと重く、熱かった。もぐったままもぞもぞやった。外から見たら布の塊がうごめいているように見えるだろう。誰にも見えやしないけど。部屋はしんとしていたが、ふとんにもぐると自分の息や唾液の音がうるさく響いた。からっぽのアメ横、からっぽの通り、まるでさかながみんな逃げちまった川だ……ちょっとちがうか? 誰もいなくなった流れるプールというか……。部屋は、なにか静かな流れの中に浮かんでいる箱だった。箱の静けさをかき消すみたいにおれはふとんの中で水音におぼれた。おれは口を前後に動かしながら、太ももの内側、キメの細かい、けどもやっぱり硬いノンちゃんの肌をなぞっていた。屋上のからすを思い出す。あれはどこから来てどこへ行ったのか。  ノンちゃんがいきなりふとんを蹴飛ばし、はがした。寒いと文句を言ったら、おれのあたまをがしっとつかんだ。 「でもおれはもう暑い」  手のひらが重たくてドキドキした。スイッチ入ったか? けどもすぐノンちゃんはニコニコし、おれの頬をもみながら、キャンピングカー買わないんならなに買おっかと言った。 「買わないよなにも」 「なんにも? ちょっとくらいならよくない?」  甘えた声で言う。まあたしかに。これでどうにかしろというなら、ふつうに生活費にしてもいいんだろうし。おれたちはほしいものの話をした。おれはちんぽをしゃぶり、ノンちゃんはがちがちに勃起させながらだ。ときどきおれのあごをなでてくれた。しゃべりながらだらだらやるのもいいなと思った。ほしいものの話もしたし、旅行に行きたいとも話したし、さっき読んだ漫画の話もした。いろんなことがおさまったらディズニーランドに行こうとノンちゃんが言う。シーでもいいよと笑う。おれにはどうちがうんだかよくわからん。そうしてだんだんノンちゃんの鼻息が荒くなり、おれも興奮してケツがうずうずした。口にほしいとねだって、出してもらった。  というわけでノンちゃんはピンクのスニーカーを買い、おれは中古のミニスーファミを買ったのだった。  ミニスーファミは手のひらサイズでかわいかった。コントローラーのサイズはそのままなので操作の感じはむかしとかわりない。超魔界村は今やっても難しくて面白かった。ダメージを受けるとパンツ一丁になる主人公を、おれたちは最初からパンツ一枚、あるいはすっぽんぽんのままやった。ノンちゃんはへたくそだからすぐ大騒ぎする。「ちっきしょー」とおおげさにひっくり返り、昼間、明るい部屋できんたまがでろんとのびた。  おれはノンちゃんのきんたまを見るのが好きだ。しっかり毛の生えたタマだ。じっと見ていると、ゆっくり動くのが面白い。 「見んなよお」  ノンちゃんはいつも言う。裸で足をおっぴろげているのが悪いと思う。 「きんたまが動いてんのが面白いんだよ」 「動かしてないよ」 「自然に動いてるんだよ。じわじわーって袋の中でゆっくりゆっくりタマが移動してんの。それにつられてしわもゆーっくり動いてて、タマ毛がしわに入ったり出てきたりして、たぶん大陸移動ってこんなだったんじゃないかな……」 「睦郎って意味わかんねえなあ」  そうして、じゃあおれにも見せろよとひっくり返してきた。おれのタマ毛は白髪が多くてキラキラしていると言った。しわの中にほくろがあるとも言った。ふとんの上でもつれあっていた。  そういう昼下がりだった。 「あ、スニーカー売れちゃった」  ノンちゃんが言った。メルカリに出品していたピンクのスニーカーが売れたのだった。スマホの画面をじっと眺めている。やがて、どうしようとノンちゃんは真剣な顔を向けた。ノンちゃんのスマホをのぞきこんだ。SOLDと赤いマークがついていた。 「どうしようって、売れたんならよかったじゃん」  おれはちょっと意地悪を言った。意地悪ではないかもしれないが、わざと言ったから、意地悪と同じだ。 「まあそうなんだけどさ……」  ノンちゃんは明らかにうなだれた。何を言いたいのかはわかった。おれは言った。 「まだ売りたくなかったんだろ。何回も履いてないのに、思ったより早く売れちゃってさみしいんだろ。やっぱり手放したくないなって後悔してるんだろ」  ノンちゃんはうなずき、おれに抱きついた。でかくて重い体だ。さすがに泣き出しはしなかったがぶるぶる震えていた。やっぱりおおげさだ。そんなにさみしくなるなら売らなきゃよかったろ。なんでもかんでも金にかえようとしやがって、とは言わなかった。金がなくて不安だからそうしているのだろうから。客が泊まりにこなくなり、部屋は荒れ放題だった。部屋の中で鍵をなくすのもそのためだ。ごみはたまるし、洗濯もたまるし、あちこちほこりが積もった。毛虫みたいにまるく固まったほこりもあった。髪の毛や陰毛も散らばっている。たぶん。直視したくないから部屋の電気はあんまりつけないでいる。ふとんは長いこと敷きっぱなしで、ぬいだ下着やらなんやらが絡まっており、はだかのおれたちもその延長だ。ずっと部屋にいるからわからんけど、たぶんにおいもこもっていると思う。むかしおふくろに言われた、ろくに部屋をそうじしないし換気もしないからあんたの部屋は獣みたいなにおいがすると……。 「うん。さみしい」  ノンちゃんが言った。おれの腹にしがみついたまま言ったので、くぐもった声だった。獣の唸り声だ。ばかだなあと思った。手放すことになってやっとさみしくなった。ピンクのスニーカーは今日も窓辺に飾ってあり、ほこりまみれにならないようにか、箱の上に置物みたいにのせていた。赤いナイキの箱だ。おれはノンちゃんのさみしがっているようすにほっとしていた。うれしいとさえ思っていた。これ履いて睦郎とディズニー行きたかったのになあとノンちゃんが言う。おれはあたまをなでてやった。たぶんおれもばかだ。 「やっぱ売れませんって言えば」 「ええ? 怒られるだろそれ」 「べつにいいじゃん。気が変わったんですとか、ほかの人に売れちゃったんですとか、今この瞬間ドロボーに遭いましたとか、なんだって言いようがあるだろ。知らねえ奴に怒られたって、おれとディズニー行くんなら平気だろ」  ノンちゃんはちょっと笑った。 「ひいじいちゃんが危篤でどうしてもピンクのスニーカーをひと目見たいって言うので……」 「そう」 「どうにか駆けつけたけど結局ひいじいちゃんは死んじゃって、スニーカーはお墓に入れてあげることにしました、ほんとにごめんなさいとか……」 「そうそう」 「睦郎のばか」 「なんでだよ」 「そんなわけないじゃん」  はだかのまま丸まった。赤ん坊みたいだと思った。すごくでかいけど。まだ生きてるじいさんではなくて、ほんとに死んでるひいじいちゃんの話にするあたり、おれにしかしゃべらない冗談でもそうするあたり、ノンちゃんは優しいよなあと思った。まだ生きてるじいさんとはおれの父親のことだ。まだどころかぴんぴんしているし、おれはときどきこづかいだってもらっている。コロナ騒ぎになってから連絡とってないけど、たぶん元気だと思う。いろんな人が、おれの知らないところで元気だったり元気じゃなかったりしている。あたりまえだ。こうなる前からずっとそうだ。でもおれはそういうことを忘れがちだ。  で、長いことぐずぐずし、いつのまにか寝ていた。夜になって目が覚め、散歩でも行くかってことになった。ピンクのスニーカーを履いて、手をつないで、通りはしんとしていた。正月の真夜中みたいだとノンちゃんが言う。正月なんてはるか昔みたいだ。やたら寒い日とやけに暑い日を繰り返し、春さえ過ぎつつある。ノンちゃんはたぶんスニーカーを手放すだろう。なんだかんだ言ってふつうに売る。さみしがりながら別れ、忘れてゆく。でも箱だけとっておくかもしれない。ふたを閉めて箱だけ飾っておいたら、中にスニーカーがあるみたいな気持ちになれるかもしれない、しばらくは。そういう童話がなかったっけ。鍵はズボンのポッケに入れていた。糸目の猫が笑っているキーホルダーだ。ポッケの中でいじった。ノンちゃんのうしろポッケに手をつっこんでみた。 「なんだよ」 「なんも入ってないな」 「入ってることもあるし入ってないこともあるよ」  ものすごくあたりまえのことをノンちゃんは言った。今度はノンちゃんがおれのうしろポッケに手をつっこみ、もぞもぞいじって尻をもんできやがった。 「屋上でバーベキューしたら怒られるかな」  おれが言ったら、ノンちゃんは「最高じゃん」と目を輝かせた。誰も見てないから平気だよ、明日やろう、明日、肉と焼きそば買おう。とノンちゃんが言う。誰も見やしない。でもからすは見に来るかもしれないよなあとおれは思ったのだがなんだかうまく言えそうにないので言わないでおいた。暗い中にノンちゃんのスニーカーのピンク色だけ鮮やかだった。だからおれたちは誰もいないアメ横をいつまでも歩いたのだ。うそだ。すぐ飽きて一往復で帰って寝た。抱き合って寝て、おしっこしたくなったら起きる。それだけの話だ。

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