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終わらない初恋
「ただいま」
「あれ、ナツおかえり。帰ってくるの今日だっけ?連絡くれたら空港まで迎えにいったのに」
家の奥からの声に、ドキリとする。まさか、家にいると思わなかったから。
二歳年上の兄のイチの顔をみるのは三年ぶり。イチは私の頭をくしゃりと撫でた。指輪に髪がひっかかりちょっと痛い。イチは、昔からこうやって、私の頭を撫でる。
「イチが家にいるなんて珍しんじゃない? 大学は?」
目をあわせずに、少し早口に問う。自分で思っている以上に挙動不審だ。
「もうすぐ、ナギが迎えにくるんだ。急がなきゃ」
イチの口からきく彼の名前に、ドクン、ドクンと、胸が高鳴る。そうか、三年前のあれからも、二人はちゃんと続いているのだ。少なくとも、大学に一緒に行く程度には……。
私は、少し、安堵する。
* * *
ナギくんと初めて会ったのは、私が三歳の時だった。幼稚園で一目惚れしたイチが、家に連れてきたのが最初。
「ナギの事、女の子と思っててさ。トイレで男とわかって、そりゃあ、ビックリ。腰を抜かすかと思った。それが人生初の失恋」
イチの笑い話ネタの一つとして、語られるエピソード。イチは、半年以上もの間、ナギくんを女の子と信じて疑わなかったらしい。
確かに、当時のナギくんは、小柄で色白で顔も可愛らしく、性格も大人しかった。実は、私も彼のことを女の子と思っていた。それは、半分以上、イチのせいだったのだけれども。その当時のイチは、ナギくんの話ばかりしていた。布団に入ってから寝るまでの時間は、その日のナギくんとイチの物語の時間だった。甘い、甘い、聞いているだけで幸せな時間。
「ナツ、絶対、内緒だぞ」
二段ベッドの上から、真剣なイチの声。
「うん」
私も、二段ベッドの下から、真剣に答える。
「絶対に、絶対に、内緒の内緒だぞ」
声を潜めて念押しする。
「うん。絶対に、内緒の内緒にする」
私も、声を潜めて答える。
「今日、ナギと結婚した」
「えっ」
「結婚しようっていったら、ナギもいいよっていって、チューした」
「結婚しようっていって、チューしたら結婚できるの?」
「うん。でも、好きじゃないとダメ。こっちも、むこうもちゃんと好きじゃないと」
「ナギもイチが好きなの?」
「多分……。あのさ、お父さんにもお母さんにも結婚したことは、絶対に内緒な」
イチは、秘密にするように再度、念を押す。
「大人じゃなくても結婚できるの?」
その当時の私は、ぼんやりと結婚は大人がするものとわかっていた。
「子供でもできるよ。でも、大人になるまで内緒にしないとダメなんだよ。大人になったら指輪をして、周りに知らせるんだ」
「結婚したらどうなるの?」
「ずっと、一緒にいられるようになる」
少し、誇らしげな自慢するような声。
「ずっと?」
「うん、ずっと」
イチの声がすごく嬉しそうで、よくわからないけど、自分も嬉しい。とてもいい気持ちで、いつの間にか寝てしまっていた。子供ならではの微笑ましい、甘酸っぱい勘違い。
ナギが男の子と気付いたイチが失恋したのは、その数日後だった。もう、イチは、寝る前の、あの甘い話をしなくなった。
ナギくんはナギくんのまま、何も変わらない。女の子ではないと言う、ただそれだけの理由で失恋ってことになるんだと不思議な気がした。
* * *
失恋事件後も、イチとナギくんは仲良しのままだった。小学校では、五回同じクラスで、そのまま、中学に進学した。中学では、ナギくんが陸上部、イチは帰宅部だった。
その後、二人は、家の近くの公立高校に進学した。中学と同じで、ナギくんは陸上部で棒高跳び、イチは帰宅部でバイトの日々。相変わらず、ナギは硬派で部活一筋で彼女を作らず、逆に、イチは彼女が途絶えることはなかった。
ジュースを買おうと向かった自販機の裏から聞き覚えのある声がする。
「そういうこと言うかな……」
「だって、本当のことじゃん。イチくんにとって、ナギくんが一番なんだよ」
「そんなことないって。お前のこともちゃんと大事にしてるって……」
イチと彼女との会話だった。どうやら、揉めているらしい。どうしよう。どちらに動いても、丸見えになる。動くに動けない。
「そうかな」
彼女は、きゅっと下唇を噛みしめて一瞬の間の後、言葉を続けた。
「今日だって、映画に行きたかったのに」
「映画はいつでもいけるだろ。明日でもいいじゃん。レースは、今日しかないし」
「だから、どうして応援に来ないといけないの?私には関係ない」
「ナギ、実は長距離に転向したばかりで調整がうまくいってないみたいなんだ。心配なんだよ」
「だからって、ここに二人で来る理由にはならない」
トートバッグの持ち手を握りしめている彼女の指先が白く変色している。俯いているため、表情は見えないけど、涙を堪えているに違いない。
今日は、陸上の大会で、ナギくんにとっては最後の大会となる日だった。
「どう言ったら、わかってもらえるのかな……」
イチのタメ息混じりの一言に、彼女は顔色を変えて走り去った。
「イチ……」
恐る恐る、声を掛ける。
「あ、ナツ……ひょっとして、聞いてた?」
「うん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど。ごめん」
「あいつ、記録が伸び悩んでて……、監督からダメ出しされて転向することになったんだ」
身長やバネといった本人の努力ではどうにもならない理由はどうしてもある。
「あいつは絶対、弱音を吐かない。前にしか進まない。だけど、僕だけは知っているんだ」
イチは、続ける。
「転向を決めた最後のジャンプで、やっぱりバーを落とした時、最後まで越えれなかったなと呟いた目の奥が涙で濡れていたこと」
きっと、それは、イチだけしか気付けないナギくんの姿。
「だから、このレース、コース途中では、『頑張れ』って応援したいし、ゴールの瞬間には、『良く頑張ったな』と伝えたいんだ。間違えているかな……」
イチは、俯いて小石を蹴りながら、つらそうに呟いた。
イチ、その気持ちは痛いほどわかるよ。彼女もきっとわかってる。でも、わかっているからこそ、絶対に受け入れられない。イチの事を本気で好きな彼女であればこそ……。
私は、心の中で呟く。
でも、イチ、それって親友の域を越えてない?
* * *
二人は、同じ大学に進学した。仲の良い親友のまま。変わったことと言えば、ナギくんに彼女が出来たことだ。もう、陸上を辞めてしまったので、彼女を作らない理由がなかったのかもしれない。
「あいつ、僕に一言の相談もなく勝手に付き合うなんて……水臭い。しかも、あんな女、趣味悪い」
イチは、珍しく怒っていた。ひょっとしたら、イチがここまで怒りをあらわにするのは、初めてかもしれない。
「イチだって、ナギくんに報告したことないじゃん」
「それとこれは、また別だし……」
イチは、まだ、納得できないようでごにょごにょ言っていた。
思えば、ここから二人の関係が綻びてきたのかもしれない。
表面上は、何事もなく穏やかな日々が過ぎた。でも、前とは少し違っていた。イチは、ナギくんと一緒にいることは少なくなり、イチの口からナギくんの名前が出ることはなくなった。
「イチに避けられてる。ナツさ、イチからなんか聞いてない?」
ナギくんもイチの態度に戸惑っていた。
夜中に、泥酔したイチが帰ってきた。ザルのイチが、ここまで酔うのは珍しい。
「イチ、大丈夫?お水いる?」
イチは、リビングの入り口に立ち竦んで中にはいってこない。
「……助けて……もう、どうしたらいいのか、どうしたいのか、なにが正解かわからない……」
イチは、声を立てずに静かに泣いていた。
ぎゅっと胸が締め付けられる。
私にできることは何だろう。
イチとナギくんに何かしてあげたい。
でも、考えてもわからない。
イチも、ナギくんも、私も、どうしていいかわからず、この息苦しい状態のまま、ただ、黙ってみているしかできなかった。
誰かがもう少し、ほんのちょっぴりでも勇気があれば……そうすれば、三年前の最悪な出来事は起こらなかったのかもしれない。
* * *
三年前のその日は、雨だった。受験生の私は、塾の合宿に参加する予定だった。それなのに、初日にして、まさかの寝坊。今更、参加する気にもなれず、すっかりやる気を削がれる。
うつらうつらと夢と現実の間を行ったり来たりしているうちに、ボソボソと話し声が聞こえたような気がした。
家族は、田舎の祖母の家に一週間宿泊予定。誰かがいるはずがない。気のせいか。
ボソボソ
「!」
やはり、声がする。気のせいではない。
恐怖に戦慄く心を鼓舞し、必死に奮い立たせる。
音は、どうやらイチの部屋からのようだ。
ドキドキ
イチの部屋と両親の寝室はベランダでつながっている。ベランダから様子を伺うことにする。
そろり、そろりと音をたてないようにガラス戸に近づく。
あと、もう少し。
あと、もう少し。
「!」
何がどうなっているか、さっぱり理解が出来ない。
部屋の中は、信じられない事が起こっていた。
それは、どうやら手首を背中側で、縛り上げられていた。俯せになっていて顔は見えない。そして、ズボンは、膝のあたりまで引き下ろされている。
人影は、ゆっくりとその上に覆いかぶさっている。そのまま、二人とも動かない。まるで、後ろから抱きしめているかのようだ。
やがて人影が、腰を動かし始める。はじめは、ゆっくりと。そして、だんだん激しく。
ああ、これはセックスだ。ようやく、目の前のその行為を理解する。
人影は、ゆっくりと起き上がり、俯せのそれをひっくり返した。ぐったりとして、されるがままになっている。
気配を感じたのか、仰向けのそれと目が合う。光のない虚ろな眼差しに、涙が溢れる。
それは、ナギくんだった。
そして、縛られて身動きが取れないナギくんの上に覆い被さっているのは、紛れもなくイチだった。
イチがナギくんを、無理矢理犯している。
ナギくんの足から赤いものが一筋、流れ出る。その目の前の信じられない光景に、私はパニックになる。
ガクガク震えがとまらない。
怖い。
怖い。
イチのナギくんに対する真っ直ぐで激しい気持ちが怖くて痛い。
イチを止めようとか、ナギくんを助けようとか全く思い浮かばず、そこから逃げることしか考えられなかった。
私は、そっとガラス戸から離れると、音もたてずにそのまま家を出た。
目に涙をためているナギくんを見捨てて、置き去りにしたまま、一目散に逃げ出した。
* * *
バタンと車のドアの音と同時に、呼鈴がなった。ふと、我にかえる。
「イチ、用意できた?行くよ」
三年ぶりの彼の声。意を決して外に出る。
「お久しぶり、ナギくん」
「ナツ、いつ帰ってきたの?おかえり。久し振りじゃん。どうしてた?」
ナギくんは溢れんばかりの笑顔をむけ、くしゃくしゃと頭を撫でた。イチと同じ仕草。目をあわせたくなくて、じっと、ナギくんの手の指輪を見つめる。
ずっと、ナギくんに謝りたいと思っていた。あの時に、見捨てて逃げてしまったことを。
でも、何といったらいいのだろう。二人の中でなんらかの解決がついているのなら、今更、掘り返すこともない。
「ナツ、何焦ってんの?相変わらず変なヤツ。そうそう、お母さんもお父さんも、今日夜勤で帰ってこないから夕飯外で食べよう。時間の目処がついたら連絡する」
その言葉に、美味しいもの奢ってもらえよとナギくんは目を輝かせて笑った。そんなナギくんを愛おしそうにイチが眺めている。
ああ、そんな顔をするようになったんだ。はじめてみるイチの表情。
一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。荷ほどきもそこそこにソファーに横になる。
三年前のあの日、逃げ出した私は、合宿に戻った。そして、自由登校となっていたのを幸いに、こちらには戻らず、関西の祖母の家に居候して受験し、そのまま大学に通っている。
急に、この三年間、イチとナギくんはどう過ごしたのか、知りたいと思った。いろいろ葛藤があったに違いない。
でも、すぐ思い直す。知らなくていいと。それは、二人だけの胸に秘めておくべきものだ。
二人の手にはめられたおそろいの指輪に、幼き日の約束が果たされたことを確信する。
5歳のイチの声が蘇る。
「大人じゃなくても結婚できるの?」
「子供でもできるよ。でも、大人になるまで内緒にしないとダメなんだよ。大人になったら指輪をして、周りに知らせるんだ」
「結婚したらどうなるの?」
「ずっと、一緒にいられるようになる」
「ずっと」
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