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華々しく、毒⓵

「ゼンジと怜佑⓵」  今日みたいに彼の帰ってこない夜は何度もあって、そのたびに僕の心は絞めつけられるように痛むのだけど、そんな時は彼が鞄一つに最小限の服を詰めて僕の家に来た時のことを思い出すようにしている。「終電なくなった、泊めて」と高校を卒業して以来、一年間会っていなかった彼はほとんど変わってなくて、昨日夢の中で見た詰襟のままの彼だったから、僕は嬉しくて泣きそうになった。  彼、ゼンジとは高校の時に出会った。でも、彼にとっての僕は、「名前ぐらいは知ってる」程度の存在だったと思う。僕は、太陽のように明るくて、友達が多くて、学校一の美少女のナナちゃんと付き合ってるゼンジに片想いしていた。  高校の入学式で、180センチを超えてた僕とゼンジは列の一番後ろに並んで立っていた。その時、ふと見た彼の横顔がすごくきれいで僕は思わずうっとりと見惚れてしまった。そんな僕の視線が痛かったのか、彼は僕の方を向いて「オマエ、背が高いな。」と言い、手を伸ばして「色、抜いてんの?」と僕の髪に触れたときの彼の目が印象的で僕は一瞬で恋に落ちた。僕の髪と目の色は少し色が薄くて黒色より茶色に近い。僕は彼の言葉に、彼の目に魅入られて何も言葉を返すことができなかった。彼はそんな僕を見て、「恥ずかしがり屋さんだなっ」と笑った。  それから僕とゼンジに接点はなく、同じ学校に居ながら別の世界線を生きているかのような3年間だった。卒業式の時、僕と彼の背は185センチぐらいになっていて、僕が彼の隣にいたのはその時が最後だった、はずだった。  ゼンジが僕の家に転がり込んできたのは、僕が大学生になって2年目の春だった。彼は一年間浪人して僕と同じ学校に入学していた。  僕は大学生になった時に家を出て一人暮らしをしていたから、僕の現住所をどうやって知ったのか彼に聞いたら、わざわざ僕の実家に行って、僕の名前は怜佑と言うのだが、「怜佑君の高校の時の友達です、怜佑君に会いたいんですが、どこにいますか」と言って直接僕の父親に聞いたといった。高校のアルバムを持って、「ホラ、これが怜佑君、これが俺です」と言ったら、僕の父親は彼のことを信用して僕の住所と電話番号を教えたらしい。  ゼンジの生い立ちは、ちょっと複雑だ。彼の両親は離婚して、母親が彼を引き取ったのだが、彼が小学生になるころ、彼の母親はゼンジを祖父母に託して再婚して出て行ってしまった。彼は祖父母に育てられた。祖父母は良い人だったのだが、やっぱり時々考え方とかいろいろ「ズレてきた」らしい。息苦しくなって、このままだと俺はだめになる、と思って大学生になったのを機に彼は家を出たわけだが、金銭的に余裕はなく、頼るところもなくて僕のところに来たらしい。  僕は、小さいころに母親を亡くして父親に育てられたのだが、家は比較的裕福で、今の家賃も生活費もすべて父親に頼っている。ゼンジに同情した僕は落ち着くまで家に居候させることにした、というのはタテマエで、僕は彼のことがずっと好きで、忘れられなくて、彼が家に来てからずっと、彼に尽くすことが僕にとっての生きがいになっていた。  僕は、自分がゲイであることに早々に気付いていた。僕は中学生のころから背が高くて、髪と目の色が茶色がかってて、やたらと女の子受けがいいのだが、女の子に全く興味が持てなかった。  高校に入る前に既に180センチあった僕は、アパレル関係の仕事をする父親の知り合いから頼まれてモデルの真似事みたいなことをやっていた。その時に知り合った美容師の男に誘われて関係を持った。その男に恋愛感情はなかったけれど、何度か関係を持つうちに、自分がゲイであることを悟った。  高校に入り、ゼンジに会って、僕は恋を知った。彼は明るくて友達が多くて誰にでも好かれるいい奴だ。僕は人と話すのは苦手だし、友達はほとんどいないし、容姿のおかげで女の子にはモテるけど、それだけだし、僕はゼンジが羨ましくて、彼のようになりたかった。  ゼンジは学校一の美少女のナナちゃんと付き合っていたのだが、卒業前に二人は別れてしまった。彼が一方的にフラれたのだ、そのことを知っているのは、たぶん当事者のゼンジとナナちゃん、そして僕だけだ。  なんで僕が知っているのか。ゼンジがナナちゃんにフラれた日、僕は例の美容師の男と会っていた。友達のいない僕にとって、美容師の男は精神的にも肉体的にも僕の唯一の支えだった。美容師の男は、卒業祝いと送別会を兼ねて最後にもう一度会おうと言ってきた。僕も、この町から離れることに多少のセンチメンタルな気持ちを持っていたから、これを最後に、と男に会った。ショットバーで飲んで、じゃあ2軒目に行こうと外に出たとき、店の前でゼンジと会った。雨が降っていて、傘もささずに濡れている彼を見て、明らかに何か大変なことが彼に起こっていることが分かった。  僕は美容師の男に一方的に別れを告げ、彼を僕の家に連れて帰った。幸い父親は出張で、彼が雨の中びしょ濡れでいる理由を話さなければいけない大人は一人もいなかった。  彼は一言も話さず、僕の言う通りに僕の家に来た。僕は玄関で立ちすくむ彼に家に上がるように促し、タオルを渡した。彼は機械的に上着を脱いで床に落とし、濡れた頭をタオルで拭いていた。  僕がコーヒーを淹れてリビングに戻った時、彼は頭からタオルをかぶったまま立ち尽くしていた。僕はコーヒーをリビングのテーブルの上に置き、彼のそばに行き、大丈夫、と声をかけたとき、ゼンジは、「ナナにフラれた」とボソッと言った。そして、その場に座り込んだ。  僕は足元に座り込む彼を見下ろしながら、この場に適切な言葉を必死に探していたのだけど、見つからず、どうしようもなくて、でも彼のためにできることはないか必死に考えて、座り込む彼の前に僕も座り、彼と目線を合わせた。  彼はしばらく下を向いていたけど、不意に顔を上げ僕の方を見た。僕はテーブルから少し冷えてしまったコーヒーを取り、彼に渡した。彼は少し暖かさの残るコーヒーを手に取って一口飲み、一息ついて、「ナナにフラれた」ともう一度言った。そして、「大学、落ちた。ナナは受かったんだ。それからなんとなくうまくいかなくなって、今日、フラれた」と言って、少し笑った。僕は彼の心の痛みが辛くて、痛くて、耐えられなくなって、気が付いたら涙がこぼれていた。「なんで、お前が泣くんだよ」と、ゼンジは僕の顔を見て言ったのだが、僕の涙は止まらなかった。彼は泣く僕の姿をじっと見つめながら、不意に僕の髪に、初めて会った、あの時のように僕の髪に触れた。そして、「これ、色抜いてたわけじゃなかったんだな」と言った。僕は顔を上げ彼を見た。彼は、お前が泣くから、俺泣けなくなったわ、と笑い残りのコーヒーを一気に飲んで、立ち上がり、座り込む僕に手を差し出した。僕は彼の手を取って立ち上がった。その時、彼が僕を引き寄せて僕を抱きしめた。僕はびっくりして固まってしまったのだが、彼は僕の肩に顔をつけて静かに声を殺して泣いていた。僕は彼が泣き止むまで、彼の少し濡れた髪を撫でていた。  しばらくして、彼は顔を上げ、僕の顔を見て「内緒な」と言った。そして、今日ここ泊まっていい、と聞いてきた。僕が頷くと、彼はリビングのソファに横になった。 僕がなにか羽織るものを捜しに行っている間に彼はソファの上で寝てしまった。彼の寝顔を見ながら、僕は、ダメだとわかっていたのだけど、彼の頬にそっと手を触れてみた。彼はすっかり寝入ってしまっていたので、まったく気づかないようだった。彼の寝顔を見ながら、彼の頬に触れた右手から彼の熱を感じながら、彼を好きだった3年間を思い出しながら、僕はきっとこの恋を一生死ぬまで引きずって、そうやって生きていくのだと、18歳で僕の人生は終ってしまったのだと悟って、そして、一度だけ一度だけ、と彼の口唇に僕の口唇をそっと重ねた。僕と彼の接点はこのキスで終わるはずだった。  あの夜から1年間全く音沙汰のなかったゼンジがいきなりやってきて、僕の家で暮らし始めて、だからといって何が起こるわけでもなく、あの夜のことが語られるわけでもなく、僕は甲斐甲斐しく彼の世話をし、日々が過ぎていった。  ゼンジは大学でも女の子に人気があって、友達もたくさんいるようだった。そして、大学でも僕たちに接点はなかった。彼は時々学校へ行って、バイトへ行って、そういう生活を繰り返していた。僕たちは2人でどこかへ出かけるわけでもなく、そもそも彼は寝る時ぐらいしか帰ってこないから、僕と彼の時間は朝ぐらいしかなかった。でも、僕の目の前で僕の作った朝食を食べる彼を見ることは僕にとっての最大の幸せだった。  今の僕と彼の関係は、貢ぐ女の子とヒモの関係に近い。でも、僕の学費や家賃、生活費は父親が出しているし、僕のバイト代は僕の小遣いになる程度だ。彼のひっ迫した経済状態で彼に金銭的負担をかけることは物理的に無理だったし、何より、彼が出ていくことに、僕のもとから去ることに耐えられない。僕は、完全にゼンジと言う毒に侵された、ダメな人間になっていった。  その日、ゼンジは朝から機嫌がよかった。この前会った女の子がかわいい、と言ってたから、その女の子とうまくいっているのかもしれない。「俺、今日帰らないから」と彼は言った。いつもはそんなこと言わないのに。ふらっと出て行って、その日のうちに帰ってきたり、帰ってこなかったり、そんなだったのに。  僕は言いようのない不安に駆られて、ゼンジ、と名前を呼んだけど、彼は僕の言葉を無視して出て行ってしまった。  夜になってもゼンジは帰ってこなかった。帰らないと言ったのだから、不思議なことではない。このまま彼は帰ってこないのではないか、二度と彼に会えないのではないか、と嫌なことばかり頭に浮かんで、僕は頭がおかしくなりそうだった。寝られなくて、彼の飲んでいるバーボンに少し炭酸を注いで、一口、また一口飲みながら、最悪のことばかり考えていた。  少しうとうとと寝てしまっていたのかもしれない、ガタっという音で僕は目が覚めた。僕はテーブルの上で突っ伏していたようだった。  顔を上げると、ゼンジが目の前に立っていた。僕は夢かと思った。「なんでここに」と言おうとしたとき、彼が先に口を開いた。「俺がナナにフラれるとき、絶対におまえがいるな。」僕は彼が何を言っているのか全く理解できなかった。まるで過去の時間に戻ったようだった。  僕が呆然と彼を見ていたら、彼は僕の前に座り、僕の飲んでいたバーボンのグラスを手に取り、残りを一気にあおった。そしてボトルからもう一杯分注ぎ、今度はストレートで一気に飲み干した。「なんか、あった」と僕は聞いた。少し間が空いて、彼は天井を見て、下を向いて、目を閉じて、目を開けて、グラスについた水滴を眺めながら、口を開いた。 「俺さ、できないわけ。女の子と、誰とやっても、どこでやっても。」僕はゼンジが何を言っているのか、わかっているのだけど、正直言って僕の聞きたい話ではなかったのだが、「聞きたくない」と立ち上がって彼を置いて出ていける状態ではないことは彼を見ていればわかることなので、我慢して彼の言うことを聞き続けた。 「ナナとは、高校の時の話だけど、できたから、できないわけではない。でも他の女の子とはできない。これはナナの呪いだと思ってた。」わけのわからないことを彼は話し続ける。「で、この前、偶然にナナと会って、本当に偶然に。今度また会おうね、って約束して、俺嬉しくて嬉しくて。で、昨日会った、ナナと。」彼はそう言って、もう一杯分、グラスにバーボンを注いだ。一口飲んでグラスを置いて、僕の目を見て「でも、無理だった。ナナの呪いじゃない、ナナじゃない。」と言い、彼の目線は少しずつ降りて行って僕の口元で止まった。  僕の口元を見ながら、じっと見ながら彼はまるで自分に話すように「ナナとキスして気づいた、コレジャナイ、このキスじゃないって。そしたら急に冷めてきて、いつもみたいに。いつもキスして、思うんだ、コレジャナイって。」  彼は急に立ち上がって僕の方に歩いてきた。僕は彼の言ってることも、彼が歩いていることも、何が何だかわからなくて、1ミリも動けずにいた。彼は右手で僕の頬に触れ、じっと僕の口元を見て、「俺、知ってるよ、お前のしたこと」と小さな声で呟いた。僕は、ずっと隠していた僕の秘密を暴かれたことに、どうしようもない程の恥ずかしさを感じ、耐えられなくて、暗い部屋の中で僕の顔色はわからないのだが、きっと真っ青になっていたと思う、僕は目の前に立つ彼にどうすればいいのか、土下座して謝るのか、何言ってるんだよとごまかすのか、もういっそ逃げるか、そうだ逃げるか、と立ち上がった時、彼がものすごく強い力で僕の両腕を掴んだ。彼の顔が近づいて来た。僕は逃げることも謝ることもごまかすこともできなくなった。  近づいたゼンジの顔は、やっぱり僕の好きなゼンジの顔で、高校の時たくさんのと友達に囲まれた華々しい顔で、そして今は僕をダメにする耽美な毒の様なゼンジの顔で、たぶん僕はあの夜に死んでいて、または、あの夜から意識不明で、これは夢なんだ、長い夢なんだ、と思ったから、もう夢だったら何してもいいやと、近づく彼の顔に、その口元に、あの夜のようなキスを一度、そっと近づいて触れるだけのキスをした。  彼はまるで、僕がキスすることを知っていたかのように抵抗せず、ただじっとしていた。僕は「少しだけ口を開けて」と言った。彼は子供のように僕の言われるとおりに少し口を開けた。僕がもう一度キスをしようとしたときに、彼は「毒だとわかってて、ここに来た。」と言った。僕はその言葉を遮り、彼にあの夜と全然違う、もっと深い、狂おしいほどの、愛おしいほどのキスをするのだが、その毒が僕と彼の身体全部に回り始めて、お互いの生活を、人生を一変させてしまうほどの劇薬だと気づくのは、きっと、もっと先の話に違いない。

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