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22歳と27歳 定食屋にて
いつもの定食屋で、週に一度くらい彼をみかけていた。
駅前通りの、昔ながらの定食屋。引き戸を開けて入ると、右側のテーブル列と左側テーブル列があって、僕はいつも左の壁を背にして座った。
彼は、右の壁を背にして座っていたから、たまに目があった。
お互い時々店で見る顔で、それなりに社会性もあるから軽く会釈くらいはした。
いつだって元気そうで、金色に染めた髪と半袖のTシャツが目印だ。冬でも、ダウンジャケットを脱げば案外薄着で、食べっぷりと合わせて運動をしてるんだろうなと想像できた。店の看板娘との会話から、うちの大学の学生なんだなとわかった。それなりに、受験で努力したらしい。
その彼が、ある日髪を黒くした。食べながらも、しきりにスマホを気にしている。
ああ、就職活動が始まったのかと合点した。皆が通る道とはいえ、がんばれよと思ったことを覚えている。
そして、秋には黒髪はさらにさっぱりと短くなり、スーツを着て店にやってきた。
嬉しそうに、少し得意げにカツカレーを注文して、ビールも一杯飲んでいた。
きっと、内定式だったのだろう。
ゆるやかな変化を、見るともなしに見ているうちに、つい親近感がわいていた。
それは、席をたった後がきれいだったり、会計の時の明るい「ごちそうさまでした!」の声が心地よかったりしたせいだろう。
そして、卒業式をあと一週間後に控えた金曜日。また、彼がいつもの席に座っている。
髪はぼさぼさで、ひどく疲れているらしい。
彼に何があったのだろう。僕は、声をかけずにいられなかった。
「ここ、いい?」
突然頭の上から声がして驚いたのだろう。彼は、え?と小さく呟きながら顔をあげた。
大きな丸い目が、自分を映している。両の目尻に黒子が見える。
「あ、ええ、と、はい。あの、いい、ですけど、どうして?」
「ちょっと気になって」
色々考える暇を与えないとばかりに、強引に向かいの席に座った。元々四人掛けだから、二人で使っても問題はない。
「何か、用ですか?俺、今あんまし他人に優しくできないんですけど」
「そうらしいね。この店でずっと飯を食ってきた顔見知りが、そんな様子じゃ気になるに決まってんだろ。注文した?」
「これから」
「カレー?」
「今日は、チャーハンで」
「そういう気分?」
「いや、金が」
「カレーが食べたくないわけじゃない?」
彼は、小さく頷いた。
「すみません」
僕は、看板娘を呼んで、カレーライスとカレーライス大盛を頼んだ。
「大盛なんて、食べるんですね。あと、俺はチャーハンだって言いましたよね」
不機嫌そうに彼は言った。
「大盛は、君だよ。大丈夫、チャーハンとの差額は僕が払う」
勝手に半分おごると言ったら、みるみるうちに、彼の眉間に深い皺がよった。
「何で?」
その位で、僕も怯んだりしない。
「若い子がお腹すかせてる時は、大人が食べさせるのが世の習いだって、うちの教授が言ってた」
しゃらっと言い放つと、彼は一瞬ぽかんと口を開けて、それから小さく吹き出した。
「なんだよそれ」
「知らない?理工学部の名物教授」
「俺、経済だから」
「そう」
そのまま言葉が途切れて、出てくる予定のサラダを待った。
彼はやっぱり疲れているのか、反論してこない。ただ、ちびちびと水を飲んでは溜息をついている。
「もし、内定を取り消されたなら」
「倒産」
もうすぐ4月の入社式のはずなのに、内定を取り消されたのかと思った。そうしたら、もっと状況は悪かった。倒産したのだという。
「倒産?破産?そういうやつ。だから、内定取り消しの文句を言おうにも、取り消しを取り消してもらおうにも、どうにもしようがないんだよ」
彼は、泣きそうに眉をしかめてそう言うと、また水を飲んだ。グラスは空っぽだ。
「ごめん」
「あんたが悪いんじゃないよ」
それでも何か言葉をと探していると、お待たせしましたとサラダがきた。
「あれ?」
「今日は、ポテサラ付きなんです」
店の看板娘、80歳を過ぎたおばあちゃんはにっこり笑った。
目の前の彼は、おばあちゃんに深く頭をさげて、サラダを掻きこんだ。
「まずは、食べないと」
独り言のつもりだった。でも、丸い大きな目がみるみるうちに波立って、ぽとぽと落ちる滴がテーブルを濡らした。
「あ、あの、」
「いいよ。食べよう。ほら大盛カレーきたよ」
それから二人で、だまって食べた。
☆
その人のことは、俺が先に気が付いた。いつもの店にカレーを食いにいったら、反対側の壁を背にして、すらっとした人がやっぱりカレーを食べてた。
頼んでるのは、カレーが多いかな。真冬はシチューを食べてることもある。よくこぼして、テーブルをせっせと拭いている。その様子をちらちら盗み見てたら、目があった。
嫌がられるかなと思ったら、小さく目で挨拶してくれた。
少し釣り目なのかなと思ったら、目じりがきゅっとさがって可愛くなった。
いつもジャケットを着てるから、ちゃんとした大人なのかなと思ってた。本当はどんな人かまるで知らないけど。
そのうち「いつもの人」になって、店に行く楽しみの一つになってた。
通い始めて4年が過ぎようとした3月。俺の人生は、降りだしに戻った。いや、マイナスかな。
まさか、内定の出ていた就職先が潰れるなんて。
どうしていいかまるでわからない。親にも申し訳ない。大学の就職課に相談に行ったら、今から慌てるより4月からの第二新卒を狙えとか言うし。
もうすぐ卒業式なのに。
考えれば考えるほど焦るばっかりで、家にいたくなくていつもの店にきた。
引き戸を開けると、いい匂いが流れ込んでくる。なのに、食欲がわかない。何か頼まなくちゃここにはいられないのに、溜息しかでない。
そしたら、あの人が目の前に立ってた。
勝手に目の前に座って、勝手に料理を注文し始めた。しかも、大盛カレーライス。
わけがわかんないけど、嬉しくて。泣きながらサラダを掻きこんで、カレーを半分くらい食べたところで、やっと落ち着いた。
「あの、失礼な態度で、すみませんでした。俺、林昇汰っていいます。やっぱりカレーで正解です。ありがとうございます」
「勝手にやったことだから。僕のほうこそ、悪かったね。少し元気になったみたいで、よかった。僕は、板垣靖史です。理工学部地学科で非常勤講師をしてる」
「地学系の講義は、取った事なくて。でも、いつもこの店で、会ってた。っていうのも変だけど」
「そうだね。近距離で遭遇してた」
「俺が、先に板垣さんを見つけたの、知ってます?」
「え?そうなの?僕が先かと思ってた」
板垣さんは、そうだったかなって言いながら、ふふって笑った。やっぱり、目じりが下がると可愛くなる。
じっと見てるのも悪い気がして、思い出したようにスプーンを動かして大げさに食べてみせた。
そうしたら、板垣さんはまた笑ってくれて、この店の好きなメニューや揚げ物トッピング、ごくたまに食べられる刺身定食の話なんかで盛り上がった。
もう、コーヒーしか残っていない。
俺は、もう少し板垣さんを引き留めたくて、言ってもしかたがない愚痴を言い始めた。
「運が悪かったんですかね。倒産した会社の他に3社内定もらって、さんざん考えて決めたはずなんです。断った会社にも悪いことしたし」
「どんな仕事?」
何か力になれることがあれば、そんな顔をしてくれる。でも、板垣さんとは多分無縁の仕事かな。
「インテリア関係。将来的には、ホテルの部屋をデザインしてみたいんです」
「そうか。その方面は、力になれない」
やっぱり。そう言って、板垣さんも肩を落とす。いいんです。気にしてくれただけで嬉しいんです。そう思いつつ、盛大に溜息をついて少し甘える。
「でも、もうダメです」
「何が?」
俺の様子に、板垣さんは怒ったように眉間に皺を寄せて体を前のめりにする。少し哀れを誘いすぎたか。
「俺がですよ。卒業するのに、仕事がない」
だから、なるべく軽く言ってみた。
ほら、あなたがそんなに気にしなくてもいいんですよって。なのに、板垣さんは諭すように言葉を重ねる。
「君が就職するはずだった会社が倒産してダメになったことは、君の実力には関係ないんじゃない?君がダメになったわけじゃない」
「俺の実力?」
「そう。合計4社も内定を提示したんだろう?なら、自信を持たなきゃ。君がした努力も身に着いた能力も、何も減ってないんだから。君がお客さんに提供したい空間、くつろげる部屋?が、どこでなら実現できるか。もう一度、探してみようよ」
親切にしてもらったついでに、ちょっと甘えたかっただけなのに。板垣さんは、真剣に俺のことを考えてくれている。
それがありがたくて、甘ったれな自分を反省した。
「ありがとうございます。このままぐずぐずしててもしょうがないし、動いてみます。本当に今日は、ありがとうございました」
その言葉を潮に、俺たちは席をたった。
結局、板垣さんは二人分払ってくれた。
「君が元気になったんなら、それでいい。僕も余裕があるわけじゃないから、店のランクアップはできないけどね」
いたずらっぽく笑ってくれたから、少し距離が近づいた気がした。
やっぱり、また会いたい。
そう思ったら、俺の口は止められない。
「また、会ってもらえませんか。就職が決まったら、お知らせしたいんです」
え?と少し驚いたように目を丸くして、今度は三日月のように目を細くして笑ってくれた。
「いいよ。じゃ、これ」
そう言って、鞄のどこかから名刺を一枚取り出してくれた。
「ありがとうございます!」
喜んで、俺が間合いを詰めすぎた。板垣さんの手から名刺が滑り落ちて、慌てて二人で地面に向かって頭を下げた。
板垣さんのジャケットの襟元が、俺の鼻先をかすめたその瞬間。甘い爽やかな花の香りが、胸いっぱいに広がった。
「うわっ、いい匂い!板垣さん、すっげーいい匂いしますね!」
それは、可愛い人の胸元から立ち上る香り。何の香りか、教えてほしい。下心を押し隠して、キラキラした目で板垣さんを見上げた。
そうしたら、照れ臭そうに何度も瞬きしてる。えー、そうかなぁ。なんて言ってる。そんな姿も、可愛い。
だから、もう一度押してみた。
「ほんとですって。で、これ何の匂いですか?」
板垣さんは、恥ずかしそうに目を伏せて、「バラ」とだけ言った。
ちゃっかり手に入れた名刺とバラの香りを力にして、俺は絶対にまたあの人に会う。
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