瞬く間にまた一年が過ぎようとしていた。 若干、末端での小競り合いはあったが、あれ以来、崔自身はなんの動きも無い。ミハイルを狙った奴は俺が片付けたし、ロシア国内の崔の手先はニコライのチームが速やかに始末した。 　その日、トレーニングを終えて部屋に戻ると、テーブルの上に一枚の封筒が置かれていた。 「開けていいのか？」 と訊くとニコライが少々渋い顔をして頷いた。おそるおそる封を開けると、そこには、2枚の紙が入っていた。 　一枚はレイラと息子とあいつの写真。最近のものなのだろう。花の咲き乱れる丘、背後には海と小さな鐘。裏を見ると、Happy Birthdayの文字と『元気です 』との文字。 　そしてもう一抹は、白い紙に下手くそな字で、『おたんじょうび　おめでとう』そして名前....。 ー字が書けるようになったのか.....ー 　元の身体の俺が香港を出てからもう三年以上になる。日本に潜伏していた頃に産まれたから、俺は一度も父と名乗れないままだった。 　今の息子にはちゃんと優しい父親がおり、俺は見守ってやるだけだ。それでも、その拙い筆跡は愛おしかった。 　思わず涙ぐんで、それを見つめていると、部屋のドアがノックされた。 「入っていいか？」 　ミハイルが深紅の薔薇の花束を抱えて立っていた。俺は思わず呆れるを通り越して固まった。 「俺は女じゃないって......」 「私の『女』だ.....食事に行こう、誕生日だろう？」 　何を言っても無駄だ.....。俺は花束を受け取り、ふと重さに首を傾げた。中を覗くと真紅のリボンをつけた黒い光沢....、探りだすと、鉄のひんやりとした手触り。 「ブローニンク1910か」 「バースデープレゼントだ。新しいのが要るだろう」 「こっちのほうが嬉しい」 　嬉々として銃を手に取り撫で回す俺に呆れたようにミハイルが言った。 「出掛けるぞ、早く支度をしろ」 　しぶしぶとニコライが抱えてきた、黒のレースのドレスに着替える。真新しい銃をストッキングの中に仕込む。ガーターベルトは刀子のホルダーになっていてなかなかいい仕様だか、やはり女装は嫌いだ。 　適当にルージュを塗るコンパクトの向こうで、腕組みをした金髪オヤジがニヤついているのが、しゃくにさわる。 「待たせたな」 と仏頂面で言う俺に、さりげなく左腕を差し出すのはやめてくれ。 ー間違ってる。絶対間違ってるぞ、お前ー 　心の中で叫びながら、俺達はニコライの車で、老舗のリストランテに入る。 「貸し切りだからゆっくりできるぞ」 　シャンパンで乾杯をし、キャビアのカクテルやらオマール海老のテルミドールやら慣れない料理を流し込む。まぁここのボルシチは美味い。それは許せる。 「で、幾つになったんだ？」 　俺の中で俺の年は三十四歳だ。今年で三十五になるはずだ。コイツに囲われるようになってもう丸二年も過ぎた。 「二十二歳だ」 　感慨深げにヤツが言った。 「覚えてるか？パピィ。お前の二十才の誕生日のこと....」 「昔の.....だよな、覚えてるよ」 　オヤジが商用でハバロフスクに出掛けていた。俺はいつものように、ミーシャとロシア語の勉強をするためにカフェで待ち合わせていた。 　その時の俺は、やはり少しショボくれて見えたのだろう。 『どうしたの？』 としつこく聞かれて、しぶしぶ、 『二十歳になったんだ。今日....日本じゃ二十歳で成人なんだぜ』 と打ち明けた俺に 『お祝いをしなきゃ』 と眼を輝かせた。行き付けのケーキショップは生憎売り切れ状態で、小さなサバランひとつしか無かった。 『これでいいかな？』 と申し訳なさそうに言うミーシャに俺はなんとなく胸が熱くなって、 『充分だよ』 と笑った。その小さなケーキをひとつ買って、俺達はミーシャの下宿に行き、ミーシャがケーキに小さな蝋燭を立てて、ハッピーバースデーを歌ってくれた。 　それから、ケーキを半分こして食べたんだが、サバランの洋酒がきつくて、思わず噎せた俺に、ヤツは 『可愛いね、ラウル』 と笑った。 「あの時は嬉しかった、誰にも祝ってもらえないと思ってたし....」 俺は率直に言った。嬉しかったのは事実だ。十数年後にこんなことになってるとは思いもしなかった。 　ミハイルは、にっこり笑って言った。 「あの時、私がレクチャしたフレーズを覚えているか？」 　確か......俺は忘れたことにして首を振った。 「Я хочу быть с тобой всегда......ずっと傍にいて欲しい....だ。ラウル、忘れたとは言わせない」 　俺は一気に顔が紅潮するのを感じた。きっと耳の付け根まで赤くなっているだろう。 「語学の勉強だったけど、お前の口から言ってもらえて、嬉しかった」 「馬鹿.....」 「あの時は叶わなかったが、今日はようやく夢が叶った」 「夢？....何？」 「お前の二十二歳の誕生日を一緒に祝うことだ」 　あの時、俺は二十二歳になる前にロシアを離れた。その前の二十一歳の誕生日は、オヤジとミーシャとみんなで祝ってくれたけど...... 『ずっと一緒に誕生日を祝いたい』 とミーシャが言ったのをほろ酔いで頷いた気はするけれど.......。 「ごめん.....」 　デザートのサバランは相変わらずほろ苦くて、甘い....大人の味がした。 　店を出ると、雨が降ってきていた。通りの向こうに、人影と鈍い光が見えた。俺の右手が動き、パン.....という音とともに紫煙が上がった。 ヤツが耳許で囁いた。 「使い心地は？」 「最高」 　俺はにっこり笑い、ミハイルと車に乗り込んだ。 　 　部屋に戻ると、部屋中が黒い薔薇の花弁で埋めつくされていて、俺は再び絶句した。 「いったい、何本使ったんだ？」 　ヤツは平然と答えた。 「99本」 「お前はやっぱり重すぎる.....」 　俺は溜め息と重すぎる愛を抱きしめて、その瞼にキスをした。もぅアイツのブルーグレーを曇らせないように.....。 　 　 ＜薔薇の花言葉＞ ♥99本「永遠の愛、ずっと好きだった」 ♥黒色 「貴方はあくまで私のもの」「決して滅びることのない愛、永遠の愛」