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第2話 新宿無常
どうせ卑しい稼業なら
スポットライトを浴びたいと
思う役者の本能と
忠義の心の板挟み
辰三に売れるチャンスが訪れた。しかし、千太郎にとってそれは裏切りであったのだ
関東某所の刑務所の門前に、見るからに柄の悪い男の一団が並んでいた。辰三は何故かその先頭に立たされて緊張の面持ちを隠せなかった。
やがて、刑務所の重たい鉄の門が開き、真新しい紋付羽織袴を着込んだ小男が看守にお礼を述べて出てきた。
「お務めご苦労様です!」
男達が一斉に頭を下げた。着物の小男、秋山次郎は彼らの親分であった。
「親分、お久しぶりです」
辰三は秋山にタバコを勧め、秋山の愛用だというライターで煙草に火を点けた。秋山は満足そうな表情で煙草を吸ったかと思うと、激しく咳き込んだ。
「長く吸わねえから頭がくらくらするぜ。辰、ありがとうよ」
「それより車へ。若が待ってます」
「おう、すまねえ」
辰三と若頭に促され、秋山は近くに停めてあったベンツに乗り込んだ。後部座席には千太郎が待っていた。
「親分、大変だったなあ」
「千太郎!無理言ってすまねえな」
「なあに、ガキの頃から世話になってる親分の頼みだ」
「楽しみにしてるぜ」
新宿を本拠とする親分であり、興行師として名を知られた秋山は、千太郎と辰三が子役の頃から二人を可愛がっていた。そんな恩ある秋山の出所祝として、この日の昼から新宿の劇場で千太郎の歌と芝居のショーが三日間行われることになっていた。
新宿の劇場に2000人を超える観客を集めて初日の幕は開いた。演目は「勧進帳」である。千太郎が弁慶を、次兄松太郎が義経を、長兄一太郎が富樫を演じ、千歳屋一門の門弟たちが脇を固める。しかし、素人目にも明らかに千太郎の弁慶だけが飛び抜けていた。
頼朝に都を追われ、山伏に化けて欧州へと落ち延びようとする義経と弁慶が、安宅の関所で関守の富樫に見咎められ、弁慶があらゆる機転を利かせて切り抜けようとするこの演目は、最も人気があるが難しい。それを千太郎は初日の朝に少し稽古をしただけですぐにこなせた。
「流石は千太郎だ」
秋山は舞台袖で満足げにうなずいた。千太郎演じる弁慶は勧進帳を朗々と読み上げる見せ場に入ろうとしていた。「辰、あの時はお前はどこにいたっけな?」
「亀井六郎(注1)でした」
辰三は舞台に出演せず、秋山に連れ添っているように命じられていた。どういうわけか秋山は千太郎以上に辰三がお気に入りであった。
秋山は二人と出会ったのは、ある演劇評論家が子役だけを集めた歌舞伎を企画し、名古屋の秋山の兄弟分の元で興行した時の事であった。演目は同じ勧進帳。この時の弁慶の見事さで千太郎は天才として世間に名を知られるようになったのだった。父親が千太郎の父の門弟であった辰三も、千太郎のお目付け役を兼ねてその芝居に参加していた。
「お前は下手だったけど愛嬌があったな」
「そんな事を言って下さるのは親分だけです」
「あれから15年か。俺も歳を取るわけだ」
秋山の目には涙が浮かんでいた。関所を苦労をして抜けた弁慶と、刑務所を出てきた自分とを重ねているのだろうと辰三は思った。
初日は大盛況のうちに終わり、千太郎達三兄弟と辰三は秋山にキャバレーで労をねぎらわれた。歌舞伎の世界にすっかり背を向けた千太郎が兄たちと顔を揃えるのはこういう機会だけであった。
「千太郎、お前また上手くなったな」
秋山は久しぶりの酒で真っ赤になって上機嫌であった。
「本当に、お前が映画に行っちまったのは惜しいよ」
兄の一太郎も満足げだ。
「兄貴はもっと勉強しろよ。あんなフラフラした富樫や義経なんてねえよ」
「若、稽古の暇がなかったことですし…」
「うるせえ!大体兄貴達は進歩がねえんだ。ちょっとは工夫ってものをしろ」
辰三の制止を無視して千太郎は兄達に辛辣な言葉を投げつけた。明らかに自分より才能に劣り、兄であるというだけで自分の頭を押さえつけるような兄達を千太郎は内心では嫌っていた。向こうもそんな生意気な千太郎をよく思っていなかったが、黙っているしかなかった。何しろ千太郎の興行でもなければ義経や富樫のような大きな役は演じることなど出来ないのだ。
「そんな事より千太郎よ、俺も久しぶりに刑務所に入って暇で暇でやることがないから、映画の脚本を書いて面会に来たお前の所の社長に見せたんだ。そしたら是非撮ろうって乗り気なんだよ。見てくれ」
秋山は若い衆から一冊のノートを受け取り、千太郎に渡した。『新宿の修羅』と秋山の下手な字で題が書かれていた。「俺の駆け出しの頃はジュク(新宿)には愚連隊がうじゃうじゃ居てな。俺も親分を殺されたりして苦労をしたんだ。その時のことを書いたんだ」
「ふうん、ヤクザ映画か」
千太郎は興味なさげにパラパラとノートをめくっていく。
「お前はヤクザ映画を嫌ってるから出てくれとは言わないが、配役に一つだけ注文を付けたんだ。辰、お前に俺の役をやってほしくてな」
「え?親分を」
「準主役だぜ。お前は顔も芝居も筋が良いのに、埋もれてて勿体無いからな。ここいらでどうにか引っ張り上げてやらねえと」
「…親分、ありがとうございます!」
辰三は秋山の情けに涙を流しながら平伏した。
「親分、すいませんがそれは出来ねえ」
千太郎はノートを閉じ、秋山に返した。「親分の言う通り、こいつには見所が有ります。時代劇のやれる役者が少なくなっているご時世、こいつくらい出来るやつは貴重です。だからこの時期は時代劇に専念させて脇目を振らせたくないんです」
「固いことを言うなよ。ここいらで尾張辰三って役者の力を世間に見せておけば、時代劇の風向きだって変わってくるぜ」
「いいや、時代劇ってそんな甘いもんじゃありません。すいません、ちょっとこの野郎の頭冷やしてきます」
あまりの事に呆然とする辰三の襟首を掴み、千太郎は辰三を引き連れてキャバレーを出て、近くのホテルに取った部屋に戻った。
「若、今までだって俺はヤクザ映画に出てるじゃないですか」
「大きな役は駄目だ」
「親分たっての頼みじゃないですか。断るなんて」
「うるせえ、理屈をこねるな!」
千太郎は側にあった電気スタンドで辰三を殴りつけた。「お前は俺の相手役のことだけ考えてりゃいいんだ!それを役をちらつかされたら尻尾振りやがって、この裏切り者!」
倒れた辰三のズボンを千太郎は脱がし、その上からのしかかった。
「若、考え直してください!」
「うるせえ!」
千太郎は自分もズボンを脱ぎ、正常位の体勢で一気に辰三の中に押し入った。千太郎はいつもそうだった。子供の頃からこうやって辰三をセックスで屈服させてわがままを通そうとすることがよくあった。「裏切りは許さねえ。お前は最後まで俺について来くるんだ!」
相手を悦ばせて骨抜きにするいつもの千太郎と違い、今日は自分本位で乱暴であった。辰三は苦痛に顔を歪め、うめき声を上げた。
「若…駄目…」
「俺のもとから逃げるなんて生意気だ!」
そう言って千太郎は激しく辰三の中に射精したが。そのまま二回目を始めた。ひたすら熱くなる千太郎に対し、辰三は痛みの中でもどこか冷めた心持ちで千太郎が収まるのを待ち続けた。
結局夜明けまで千太郎は収まることはなく、秋山が提案した辰三の提案も強引に断られてしまった。舞台は三日間ずっと大入りで終わったが、秋山と千太郎の間にはわだかまりの残る後味の悪い仕事となった。
二人が京都へと帰ってしばらくすると、西島達大部屋役者による「稲荷組」なる集まりがマスコミを前に発足式を執り行われ、話題を集めた。会社はこれ幸いと参加した大部屋役者達を印象的に使った映画を何本か撮り、稲荷組の面々はこれに体当たりの演技で応え、少しずつ売れる者が出始めた。
秋田原案の『新宿の修羅』も秋山への会社の義理立てのような形で制作が決まり、稲荷組の面々が脇を固める形でキャスティングされ、暮れの千太郎主演の『酔いどれ義士』の添え物(注2)という形で撮られることになった。
しかし、そのムーブメントから辰三は一人取り残される形になってしまった。千太郎の束縛はあの夜以降厳しさを増し、自分やごく一部の信頼できるスター以外との仕事は許さないようになっていた。
仕事を制限されて辰三の生活はいきおい困窮した。家賃さえ払えない有様で、とうとうアパートを追い出され、仲間の家を転々とするようになった。千太郎と連絡が付きにくくなり、揉め事が余計に増え、辰三は段々と精神的に追い詰められていった。
千太郎にどんな理不尽な仕打ちをされてもじっと堪えることで知られていた辰三だったが、この頃には人が変わったように荒んでしまい、わずかに稼いではヤケ酒を煽り、稲荷組の面々にしつこく絡むので敬遠されるようになっていた。
「畜生!俺だけどうして!」
行きつけの『山桜』に辰三の怒りと悲しみのないまぜになった声が響いた。「お前の役は本当は俺のだったんだ。それがなんで!」
西島は嫌そうな顔をしながら辰三を介抱してなだめるしかなかった。西島は稲荷組の中でもひときわ注目を浴びる存在で、多分に美化された若い頃の秋山を辰三に代わって演じることになっていた。
「辰つぁん、俺から機を見て千歳屋の親方には話すから、そんな泣くなよ」
「うるせえ!俺だけ置いていきやがって。薄情者!」
辰三が喚いていると店の電話が鳴り、店の大将が迷惑そうに出た。
「辰つぁん、千歳屋の親方からだ」
大将がそう言うと、辰三は冷静さを取り戻して電話に出た。あんな仕打ちを受けていても千太郎への忠誠心だけは失っていないのは、周囲の人間にとって不思議なことであった。
「辰三、今すぐうちに来い」
「はい、若」
辰三はそう言って電話を切ると、酔って若干怪しい足取りで店を飛び出していった。いくらかの飲み代だけで事が収まり、西島は胸をなでおろした。
辰三が千太郎のマンションへ行くと、千太郎はリビングの絨毯の上に力なく横たわっていた。床にはウイスキーの空き瓶が転がり、傍らの灰皿には怪しげな吸い殻が何本か捨てられている。
「おう、来てくれたか」
「若、悪い薬をやりましたね」
辰三は汚い物を見るような目をして、灰皿の吸い殻を手に取った。明らかに煙草とは違う匂いがした。
「マリファナでもやらなきゃやってられねえよ」
「子供の時分にヒロポンで駄目になる人(注3)を散々見てきたでしょうが!」
辰三は言葉を荒げた。ドサ回りの疲れからヒロポンに手を出し、おかしくなって母や幼い自分に暴力を振るった父親の、狂気に満ちた顔が脳裏に浮かんだ。
「黙れ!お前に俺の気持ちが分かってたまるか」
千太郎は怒っていつもの調子で辰三を殴ろうとしたが、酔いが回って立つこともままならない。元気なのは股間の刀だけであった。「おい、俺のをしゃぶれ」
千太郎はうつ伏せになり、ズボンのファスナーを開けた。天に向けて飛び出した股間の刀は、むしろいつも以上に元気なようだった。
辰三は自分も寝転がり、おもむろに千太郎の刀を口に含んだ。どうやら直前まで女と寝ていたらしい形跡があった。辰三は勝手知ったる千太郎の弱点を舌と唇で巧みに攻めながら、段々と腹が立ってくるのを感じた。「おお、いいぞ…もっとだ」
千太郎は大の字になり、安心したような表情で満足そうに呟いた。
(人の気も知らないで)
辰三はわざといつもより乱暴に、そして強く千太郎を攻めてみた。
「ああ!なんだ。今日は激しいな」
腰をがくがくとさせながら、千太郎は思いがけない快感に声を上げた。どうやら辰三の意地悪はかえって千太郎を悦ばせたようだった。
「おら、イクぞ。飲め!」
そう言った瞬間、千太郎はいつもより多いくらいの大量の精液を辰三の口の中に吐き出し、ぐったりとしてしまった。「今日は良かった。また頼むぜ」
千太郎は胸ポケットから新しいマリファナを取り出し、口に咥えた。辰三は千太郎の精液を灰皿に吐き出すと、側にあったマッチでマリファナに火を付けた。部屋に甘ったるい怪しい香りが充満した。
「若、もうついていけません」
マッチの燃えカスを灰皿に捨て、辰三は千太郎に背を向けた。
「どういう意味だ?」
煙を吐き出しながら千太郎は不思議そうな顔をした。
「若の付き人は今日限り辞めさせてもらいます」
「何?」
千太郎は意外な言葉にマリファナを口から落とした。返事を待たず辰三は部屋を出ていった。
その日限り辰三は千太郎の付き人の座を降り、束縛から開放された。『酔いどれ義士』を最後に会社が年末恒例の忠臣蔵映画(注4)を作らない方針を、あの夜会社が決めたと辰三が知ったのは数日後のことであった。
注釈
注1:亀井六郎 義経の家来の一人
注2:添え物 当時の映画は二本立て上映が主流で、確実に人を呼べる大作やシリーズ物をメインに、もう一本は若手監督の作品や実験的な作品をあてる事が多かった
注3:ヒロポン 戦後の芸能界で疲労と空腹を紛らわせるためにヒロポンは流行し、体を壊したり命を落とす者が続出した
注4:忠臣蔵映画 冬の歌舞伎公演では忠臣蔵が上演されるのが定番だが、かつては映画も同様で、年末にはオールスターキャストの忠臣蔵が作られるのが恒例であった
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