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ティファニー サイド・ストーリー 「愛が、足りない」

ティファニー サイド・ストーリー 「Lack of love 愛が、足りない」  「After he’s gone(失恋後)」  合鍵の付いたティファニーのキィホルダーが残された部屋に戻るのが辛くて仕事場に泊まり続けていた。愛が足りない、五木が足りない。自分から別れるように仕向けておいて、こんなに辛いなんて。  仕事にも気持ちが入らなくてミスが続いた。でも、もういい、もう生きていても何もいいことなんてない。  飲みに行くにも、馴染みのショットバーは五木と行った思い出しかなくて、行っても辛いだけなんだが、新しい店を探すのも億劫だし、適当な店に入って、どうにも自分に合わない可能性もあるわけだ。いつまでも考えて考えて前に進めない、結局俺は、いつまでたってもこういう性格なんだと、下らない思考の後、馴染みの店に行った。  いつもと同じバーテンダーに、いつもと同じものを頼む。バーテンは、酒の入ったグラスをマドラーでかき混ぜながら、 「今日はいつもの彼と一緒じゃないんですね。」と何気なく呟いた。 いきなり、こうくるのか、と目の前の景色が軽く歪んだ。 「逃げちゃったよ。」 バーテンは少し驚いた後、わかりやすく嬉しそうな顔をした。  カウンタの端で全く味のしない酒を飲んでいたら、さっきのバーテンがやってきた。 「先程は失礼なことを言いました。自分、もう上がりなんで、飲みなおしませんか。」 少し髪の色の抜けた背の高い美形のバーテン、五木と同じぐらいの歳かな、でも、五木とまた違う方向の美形、どっちかというと薄幸な感じの線の細い所謂きれいな男だと感じたが、結局五木と比べてるから俺は不幸なままだ。 「どこで飲もうか。」 「家に行っていいですか、その方が落ち着くし。」  五木が出て行ってからまだ何日もたってないのに、もう他の男を連れ込むとか自分の節操の無さに嫌気がさす。  バーテンは俺の家のキッチンで手際よく氷を砕いた。氷を一つ、二つ入れた二つのグラスに安いバーボンを注ぐ。彼は、俺の前にグラスを置いて、 「自分、お客さんのこと、結構スキですよ。だから幸せになってほしいんです。」 とマドラーで安酒をかき混ぜながら、社交辞令を言うかのように呟いた。俺は彼の作った安い酒を飲みながら 「もういいよ、不幸なままで。」 と、同情を買うような安っぽい言葉を口にした。こういう性格が俺のところに悪い気を呼んでいるような気がする。  彼は、両の手の平を口元で合わせて、ふふっと笑いながら小さな声で、でも、俺には聞こえるような声で囁いた。 「いいですよ、幸せにしてあげても。でも、自分、結構束縛する方なんで、息苦しくて嫌になるかも。」 高くもなく低くもなく、ちょっと鼻にかかったような、そんな声。それで、その目、きれいな二重なんだな、と少しドキドキした。 「逃げちゃうよりは、マシだよ。」 「そうかなぁ。誰でも最初はそう言うんですよね。でも、途中で許してくれ、許してくれって、頭下げるのも、ま、カワイイんですけど。」  彼は椅子から立ち上がって、俺の真後ろに立った。背中に殺気のような、ゾクゾクするような、そんなオーラを感じた。 「この鍵」と言って、五木が置いていった、ティファニーのキィホルダーのついた合鍵を右手の人差し指にかけて、「僕がもらいます。あなたの前の彼のお下がりですけど、気にしません。ただ」 そう言って、ティファニーのキィホルダーを鍵から外して、キィホルダーを俺に渡した。 「これは、お返ししておきます。」 ティファニーのキィホルダーを渡された俺は、彼に見惚れてしまっていた。  意地悪っぽく笑う彼は、俺の、ティファニーのキィホルダーを持ってない方の手を自分の口元に持って行き、 「この、グラス持ってる時の骨ばった手がすきなんです。」 と言って、軽く俺の指を噛んだ。  なんで、こういう性質の悪そうな男に引っかかるんだ、俺は。 「一彦(イチ)」  夏朗という、俺の名前より画数の多い、といってもそれほど画数の多くない名前のバーテンダーの男は、自分のことを「ナツ」と呼ぶように命じた。そして、自分の名前、頭悪そうで嫌いなんです、と言った。  また、彼氏にしてはいけない男のうちの一つに関わってしまった、バーテンダー。最悪だ、また、帰らない男のこと考えてイライラする、みたいな毎日が始まるのか。  俺が怖れていた通り、俺とナツの生活は完全にすれ違っていた。  しかし、俺が考えていたのと違う展開が待ち受けていた。  俺が朝起きて仕事に行く時間が、ナツの帰宅の時間だ。俺は仕事に行き、ナツは眠る。ナツは夕方近くに起きて俺の夕食を用意してから店に出る。ナツは、仕事に行く前、俺に連絡をくれる。俺は一言、二言返事をする。俺は夜遅くに帰宅して、ナツの作った夕食を食べる。そして、二人の唯一の接点である朝が来る。  こんな生活してて楽しい?と聞いたことがある。彼はにっこり笑って、楽しいですよ、ほんとに、と答えた。  こういうのが幸せなのかな、と俺はナツとの生活に満足していた。けれど、俺のポケットには五木の、ティファニーのキィホルダーが入ったままになっている。五木のことがまだ好きなわけじゃない、と言い切れるのか、少し自信がないけど、でも、そうじゃなくて、ナツとも五木と同じようにダメになる日が来るんじゃないかという不安が俺から消えない。キィホルダーはお守りみたいなもので、またダメになっても、俺は大丈夫大丈夫みたいな、言い訳みたいなもんだ。  俺とナツとの優しい時間は、二人の愛をゆっくり育むように流れていった。俺は幸せだった。そして、俺は一つの決心をした。  俺はティファニーのキィホルダーを出張先の駅の燃えないゴミのごみ箱に捨てた。  キィホルダーを捨てた日に、五木と偶然出会った。俺は五木を見て、かなり遠くから見たのだが、すぐにわかって、身体が凍り付いてしまった。五木は凍り付く俺を、これまた遠くの方から見つけて、「イチ、こんなことで、何してん。」と相変わらずの大声で叫んだ。まわりが一斉に五木を見る。そして、関西弁で、あの美形の顔で、「久しぶりやん」と俺に抱き着く。やめてくれ、恥ずかしいと思いつつも何となく気分がいい。  そして、俺と五木は何もなかったかのように、二人で酒を飲んでいる。五木は、今は恋人と暮らしてるらしい。写真も見せてもらったのだが、あまりにも普通の男でびっくりした。そして、五木から、五木の今のコイビトの「リツ」の話を聞いて、俺は幸せな五木を見ることができて良かったと思うし、そう思える俺は今が幸せなんだと再認識することができた。  俺は新幹線の中で、俺がナツを好きだという気持ちを、愛してるという気持ちを、きちんと伝えようと思った。そして、「イチ」ではなく、それは五木が俺にくれた愛の呪文だ、ナツの好きな呼び方で呼んでくれと頼むつもりだった。ナツが「イチ」という名前を選ぶのであれば、それはもう五木の愛の呪文ではなく、ナツが俺に与える愛の呪文になる、そう思った。  俺が家に戻った時、もうすっかり暗くなっていて、ナツは仕事に出ているはずだから、明日仕事を休んで、ナツとゆっくり話そうと思っていたのだが、真っ暗なはずの部屋の灯りはついていて、ナツがダイニングテーブルの椅子に座っていた。 俺は少し驚いて「ナツ、仕事は。」と聞くと、「どこ行ってたんです。」とナツが言ったので、「仕事で東京。」と俺は答えた。ナツは「わかってます。でも帰りは昨日ですよね、なんで今日になるんですか。」と言ったので、俺は一瞬黙ってしまった。仕事は終ったけど五木と朝まで飲んでてそのまま寝てて、夕方急いで新幹線に乗ったら今の時間になりました、とは言いづらい。俺が「仕事が」と言うと、ナツは 「なんで連絡できないんです。」と言い、続けて、 「なんで遅れるの、連絡してくれないんです。僕待ってたんです。帰ってこなくて心配だったんです。」 そう言うナツの姿が、五木といるときの自分とオーバーラップして、俺は黙ってしまった。 そうか、二人で暮らすってことはこういうことなんだ、と思って、ナツ、ごめんと言おうとしたとき、 「僕はあなたとの生活を大事にしてます、あなたを一番に考えてます。」 と下を向いてナツは言った。俺は、ナツの怒りとか悲しみとか、そういう、自分が過去に五木に感じていたのとよく似た、目の前のナツの感情に、圧倒されていた。 「スキなんで。好きな人に愛されたいから、努力してるんです。無理はします。好きなんです。愛されたいんです、あなたに。」  ナツの言葉に、俺は、少し不安になった。五木との生活は、だらしなくて、その日暮らしみたいな、破滅的なものだった。でも、二人で暮らすってことは、愛を育てるってことは、こういう一つ一つの積み重ねなんだ。俺にはできるのか、そんなこと、と少しためらってしまった。  彼を前にして、俺は何も言えなかったし、抱きしめることも、何もできず、ただ立ち尽くして見ているだけだった。  彼は俺を見上げて、合い鍵を俺に渡して出て行った。こういうの、2回目だ。恋愛が続かない原因は俺だ、俺にある。考え直せ、追いかけるんだよ、と声が聞こえるのだが、凍り付いたように俺の身体は動かなくて、何も行動できない、心の小さい男の俺は一人取り残される。 「夏朗(ナツ)」  人に愛されること、好きだと言われることが、自分を肯定できる唯一の実感だった。  この容姿のおかげでその肯定感はたやすく手に入れることができたが、愛してると、好きだと言って欲しくて、僕はとにかく相手に尽くす。自分の限界も相手の限界も考えずに、ただ、尽くし続ける、自分のために。そして、いつもダメになる。だから、誰かを好きになること、愛することが怖くて仕方がない。  だから初めて「イチ」に会ったとき、恋に堕ちることに、好きになることに、愛することに、必死に耐える自分を感じた。でも、何か自分の中で、壊れて、生まれて、また壊れて、生まれていく、そんな不思議な感情が、「イチ」を見る度に湧き出てくる。でも、彼には、「五木」がいた。  イチの愛する「五木」は結構有名な遊び人で、イチに似合う人間じゃないと思っていた。彼の好きな五木は、いつも違う男を連れていて、それは、いつも顔の良い遊び人の男ばっかりで、その中でイチはまともなスーツを着たサラリーマンで、五木がいつも連れているような男じゃない、つまり五木はイチに本気かと思ってたのに、結局五木はイチを置いてどこかに行ってしまった。  僕にとっては最高に好都合の展開だった。 「イチ」と呼びたくはなかった。だって、五木が彼を呼んでいた名前だ。でも、彼は「イチ」でいいよ、慣れてるし、と言ったから、仕方ない。そんな呼び方したくない、と言うほど彼との関係に自信がない。しかも、僕は彼の名前を知らない。  僕が彼の名前を知ったのは、彼と二人で暮らし始めてからだ。  彼と暮らし始めて、これから、これからなんだ、と僕は彼に愛されるように努力した。多分、自分の限界を超える程、彼との生活を大切にした。結果、精神的にも体力的にも自分の限界を超えた。  彼が出張から帰る予定の日に帰ってこなかったこと程度で別れるなんてバカげてる、かもしれない。でも、彼との愛に自信のない自分は、彼のことを愛しすぎてる自分は、不安に押しつぶされた。  黙る彼を見て、もう、愛することに疲れた、どんなに愛しても恋しても僕は尽くしすぎる、尽くしすぎることで自分も相手も疲れてしまって何度も失敗してる。僕は誰かと暮らすことに向いていない、仕方ない、と彼に鍵を返して、部屋を出た。彼は追ってこなかった。辛かったけど、でも、やっぱりこうなるか、と幸せに対して臆病な自分は一人がいい、一人に戻ったことの孤独と安堵で久しぶりに大きく深呼吸した。 「一彦と夏朗」  僕は2日間仕事を休んだ。 「イチ」と暮らすときに、それまで住んでいた部屋は解約してしまったし、とりあえず、ビジネスホテルに泊まって、いろいろ考えて、泣いて、ともかく一人で生きていこうと、自分に言い聞かせた。別れることには慣れている、はずない。毎回死ぬほどつらい。  2日間泣いて、店に出た。店長に謝って、着替えてカウンタに出た。もう一人で生きる、愛なんて要らない、とピンと背筋を伸ばした。  メイカーズマークのダブルを炭酸で割って、フォアローゼスブラックのシングルに割った氷を一つ入れて、スミノフにトマトジュース入れてマドラーで混ぜて、と、この仕事は楽しい。でも、「イチ」と出会う前の自分には帰ることができない。僕は、黙々と陰鬱なオーラを纏いながら、カウンタに立ち続けていた。これでは、バーテンダーは失格だ。店長に、ちょっと休んで来い、と言われるまで僕は時間が経つことすらも考えられない状態になっていた。  店の裏で煙草を一服。ハイライト、五木の吸ってた煙草。僕は五木に憧れてたな、だってカッコ良かったし、すごくきれいな顔をしていて、人懐っこくて、誰とでも仲良くしてた。よく考えてみたら、五木の後釜なんて無理に決まってる。煙草を足で踏みつけて火を消して、さぁ、と顔を上げたらそこに「イチ」がいた。 「煙草は、やめろ。」 一日働いて少しくたびれたスーツのイチが僕の前に立っていた。僕は、いるはずのない「イチ」が僕の前に立っていることに驚いて、そして、開口一番「煙草はやめろ」ということに無性に腹が立ってきた。僕の前に現れるのなら、ごめんとか、帰ってきてくれとか、他に言うことがあるだろう。 「親かよ。」僕は反抗期の甘えた高校生みたいに拗ねた声で拗ねた言葉を発した。イチは僕の腕を掴んで、僕の目を見た。そして、 「いいよ、怒って。電話しろ、なんで無断外泊したんだ、って、怒れって。それと」 そう言って、掴んだ僕の腕を見ながら、 「細い。もっと食え。無理するな、しんどい時はしんどいって言え。」 そんな風に言う声は、緊張して震えていた。  僕は何も言えずに、でも、かわいいなと思って、不謹慎にも自分が笑っていることに気付いたから、下を向いていた。イチは僕の腕を掴む手に力を込めて、ポケットから何かを取り出し、 「夏朗、覚悟しろ。死んでも離さねぇ。しつこいんだよ、俺は。」 そう言って、僕の手に、あの日返した鍵を握らせた。  映画みたいな展開だな、と思いながら、僕は、「イチ」と呼ぶのは嫌だから「一彦」と呼ぼうかとか、そんなことを考えていた。

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