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匂いフェチじゃないんです!#1
つまらないと言えば、まあ、つまらないかな。
飲み会の帰り、天馬了介 は商店街のアーケードをぼんやりと歩いていた。荒れ狂う風の音が聞こえる。外は雨が打ちつけて、景色が白く見えた。飛んでいくゴミ箱。信号機が虚しく色を変えている。
まさか台風の日に飲み会もないだろう、最近は休業になる店も多いのに。そうは思うが、天馬は律儀に参加していた。暇だったのだ。
アーケードの中にいても、雨のしぶきが掛かる。外は人っ子一人歩いていない。ときおり車がよろよろと通りすぎる。
とはいえ、昼からの飲み会。天馬の元同僚が出張でこちらに来ていたのだ。夜には帰るつもりだったらしく、こんな飲み会の予定になった。
帰れないだろ、これじゃ。そう思って、泊まってくかと訊いたが、ホテルをとった、そのほうが気楽だと笑っていた。
人恋しいと言えば人恋しい天馬である。そうか泊まってくれないのか、とややいじけた気持ちで思った。飲まずに早めに帰ったらよかったのに、と嫌味を言うと、いいんだよ今日金曜だろ? 日曜までには台風もおさまる、と軽い返事。ああそうですか、と別れた。
白髪の浮いた髪をがしがしと掻く。恋人がいなくなってから誰にも撫でてもらえなくなった髪は、リンスもせずにぱさついている。
つまらなそうだな、と言われた。そうかなと笑って答えた。つまらないと言えば、まあ、つまらない。
恋人が亡くなってから、生きる意味を失くしてしまった。そう言って笑うと、相手は思った以上にシリアスな顔で、「そうだよな」とつぶやいた。
七年前からこっち、明日を愛おしむことはなくなった。
ぼんやりと、今は暗いイタリア料理店の窓ガラスで自分の姿を見る。一八八センチの長身で、厚みのある逞しい体つきだ。腰も太い木の幹のように締まっている。顔はそれほどハンサムではない。彫りが深く、小鼻が締まっている。口元も引き締まっていた。ただ、意志の強そうな下半分に反して、穏やかな目が性格を表している。瞳が灰色なのが、唯一珍しいと言えば珍しいか。つまりは普通のおっさんだ、と天馬は思っている。窓ガラスに笑いかける。
歪んで笑う自分は泣きそうだ。
いかん、辛気臭くなる。頬をばしばしと叩いて、そうそう、ラジオアプリで大好きなお笑い芸人のラジオを聴こう、と思いたつ。先週のエピソード、まだ聴いてない。わくわくしつつスマートフォンをズボンの尻ポケットから取りだし、イヤホンを接続する。耳に装着しようとしたら、ふと、土砂降りの雨の中たたずんでいる人影に気がついた。ぎょっとする。
アーケードの出口の向こう、道路を挟んだ歩道に誰かいる。
「あの……あのっ!」
声を張りあげ、手を振っている。おれを呼んでるのか? 思わずあたりを見回す天馬。そうらしい。他には誰もいない。
若い男だ。たぶん、二十代前半。土砂降りの雨の中で、天馬に向かって大きく手を振っている。
その、襲いかかってくる熊をも止めんばかりの勢いに気圧されていた。軽く片手を挙げ、愛想笑いを返す。ぺこりとおじぎして、その場を去ろうとした。
「待ってください!」
青年の声が覆いかぶさってくる。雨でかき消されそうになりながらも声を張りあげ、手を振る。その姿を見ると無下にもできない。
「なんですか?」
手を振り返した。青年は辺りをきょろきょろと見回した。走りだそうとして、折しも車が水しぶきをあげながら突進してくる。
ぶつかる。息を飲んだ。
青年は身軽によけて、後ろに二歩後ずさった。そして、天馬めがけて走ってきた。
その体を受けとめる。ずぶ濡れに濡れた体は痩せていて、天馬より少し背が低い。腕の中で、青年は泣いていた。泣いて、
「やっと会えた……おれの、運命の人」
そうささやいた。
やば。
天馬は青年の背中を支えながら内心ひとりごちた。
「す、すみません」
意外にも、青年はすぐに体を離した。ずぶ濡れのため、抱き寄せた天馬の体もずぶ濡れになっている。サックスブルーのボタンダウンシャツがダークブルーになっているのを見て、青年は慌てた。
「す、すみません、ハンカチ……ない……」
絶望的な顔をするのに、思わず笑いそうになった。
「大丈夫、大丈夫。それよりあなたがずぶ濡れですよ」
軽く言うと、青年はじっと天馬を見つめた。その目に、どきっとする。
鋭い三白眼だ。なかなかの迫力である。しかし、今は頼りなげにうるんでいる。よく見ると、青年は非常な美男だった。黒い髪は短く、前髪も眉より短い。それが、今はぺたんと貼りついている。鼻筋が通り、唇は少々薄めだ。どちらかと言うと強面である。
甘さが似合わない騎士のような顔立ちなのに、天馬を見て微笑む顔はどこかとろけていた。
「おれは、平気です。心配してくれてありがとう。優しいんですね」
別に心配はしていない、と言おうと思ったが、あまりに熱く見つめられるので困惑した。天馬は一歩下がった。青年が小首を傾げる。妙に可愛いしぐさだ。
あれ、なんか可愛い子だな。なんて、恋に落ちたおじさんか、おれ。
内心自分につっこみを入れつつ、茶色の目をしっかり見て言った。
「あの。あなた、おれの知らない人なんですけど」
「はい?」
「人違いでは? 運命の人とかなんとか」
ああ、と青年が微笑む。
「おれ、村岡征治 って言います。浮嶋 図書館で、司書をしています」
「浮嶋図書館? ああ、浮嶋区にある?」
「ええ。ご存知ですか?」
村岡はまるでお手を褒められた犬のように満面の笑みになっている。
「浮嶋図書館は行ったこと、ありませんが。浮嶋区は行ったことあります。電車でも通るし」
「図書館、駅から見えますよ」
「はあ」
だからなんですか、と言いたくても言えない。青年があまりに必死で、ずぶ濡れだからだ。ずぶ濡れの人間を無下にはできない。
でも、ここらで言っとかなきゃな、と天馬は思った。じっと村岡の目を見つめる。
「あの。村岡さん」
「はい」
舌を出した犬の笑顔を彷彿とさせる顔。
「そういう運命の人とか、だれかれ構わず言うのは、おじさんよくないと思うんですよ。事件に巻き込まれたらどうす……」
「だれかれ構わずなんて、言ってません」
はっきりとした口調でつぶやき、目を伏せる。口の端がひくりと痙攣した。
「あなたにしか言ってない。おれの、運命の人なんです」
あまりに一途で無邪気な言葉だ。天馬は思わず微笑んでいた。急に亡くなった恋人、みちるのことを思い出した。ありありと浮かんで、見えるほどだ。その肩まである豊かな髪も、少しすきっ歯の前歯も。優しく美しい笑顔も。
「でも、あなたが運命の人のわけはないよ」
みちるのことを思いながら、静かに言う。
「だって、おれは運命の人にもう、出会ってるから」
村岡は目を伏せ、悲しそうな顔で、そうですかとつぶやいた。
あれ、と思う天馬。押しが強そうなわりには、弱い。まさに雨に打たれた犬。今日はもう散歩はおしまい、と言われて、しゅんとうなだれる姿を想像する。
「でも」
青年はふいに顔を上げ、鋭い三白眼で天馬を見つめた。その強面の顔が、急に緩む。落差に目を瞠った。なんというか、酔っているような顔つきだ。目がとろんとしている。
「でも……あ、あなたの匂いが、たまらなくて……」
そんなことを言われたら、加齢臭かと不安になる。強張った顔で腕の匂いを嗅いだ。自分では無臭と思っているが、臭いというのは他人には筒抜けだからと怖くなる。
「ごめん、おれ、臭い?」
おそるおそる尋ねると、村岡はぷるぷると首を横に振った。とろけそうな表情だ。
「とても甘い……いい匂いがします……」
ふらふらと寄ってくる。そのとき、天馬の口から「あっ」と声が出た。
村岡の頭に、黒い犬の耳らしきものがにょっきりと生えているのだ。耳は健気にぴこぴこと動いている。
よく見ると黒い尻尾も生えている。ばたばたと元気に、左右に揺れていた。「こら、はしゃいじゃいけません」とでも言うように、村岡は恥ずかしそうに耳と尻尾を押さえた。
「す、すみません……おれ、匂いを嗅いで興奮するとこうなっちゃって……あ、あなたのケツの匂いが、とてもいい匂いだから……」
「ケツ……」
思わず振り向いて自分の尻を確認する天馬。入浴のときにふつうに洗う以外、特別なことはなにもしていない。当然だ、と思う。尻に香水をつける趣味はない。
「あのね。こんな言い方はなんだけど、心のバランスを崩すと、幻臭を嗅ぐこともあるんですよ」
「幻臭……」
少し不安そうな顔になって繰り返す村岡。しかし次の瞬間、力強く「いいえ!」と声を上げる。耳がぴこぴこ動き、尻尾がびーんと立つ。
「幻臭ではありません。ほんとに、いい匂いがします。だから、耳と尻尾も出るんです」
「そのことなんだけど、玩具ですか? よくできてますね」
「玩具じゃありません」
必死な目で「違う」と訴える村岡。そのあまりの必死さに、天馬は自分が悪いことをしている気分になってきた。
突然、村岡の頭の耳がぺたん、と寝た。尻尾もだらりと垂れ、力なく左右に揺れている。
「あの……この耳と尻尾、じつは呪いなんです」
「呪い」
なんだかアナログなことを言う、と思う。
「本物?」
「本物です」
「ガチの呪い?」
「ガチ呪いです」
ううむ、と唸る天馬。四十三年生きてきて、まだまだ知らないこともあるのだと驚く。村岡の耳がぴこぴこして、尻尾がぶんぶん揺れていた。青年はなにかを決心したかのように凛々しい顔つきになった。「あのっ」と大きな声を出す。
「だから、あの……お、おれの童貞、もらってくださいっ」
「は?」
なにか凄いことを言われた気がするぞ。村岡は耳まで真っ赤で、うなだれている。
「あ、の……ど、ど、童貞もらってください……」
どうやら聞こえていないと思っているらしい。天馬は困り顔だ。うつむく顔をそっと覗きこむ。
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