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イチゴ味の恋
温かな陽射しが柔らかく降り注ぐ病室で、蒼《あおい》は両親と共にベッドの脇に立ち尽くす。自分がいかに無力で、ちっぽけな存在かとこんなに痛感したことはない。
ベッドの上で眠る祖母にいくつも繋がれた管やチューブが痛々しい。それなのに、祖母はとても安らかな顔をしていた。
規則的に刻んでいた無機質な電子音が間遠になっていき、ゆるやかに止まってしまう。
白い白いベッドの上で、優しい顔をしたまま祖母はいなくなった。まだここに祖母の体はあるというのに、二度と目を覚ますことはなく、ここでないどこかへ行ってしまったというのは、すぐには信じられなかった。
「五月十四日、午後二時三十八分ご臨終です」
白衣を着た初老の男が義務的に告げると、祖母の方に目を閉じて手を合わせた後、こちらに深く頭を下げてその場を後にする。
その男に追いすがって、嘘をつくな、お祖母ちゃんはまだ生きてる。ほら、今にも目を覚ましそうじゃないかと言いたかった。でも実際は、何も言葉を発することもできないまま、立ち尽くすしかできなかった。
病室に両親の嗚咽が響く中、ようやく現実を頭が理解し、受け入れ出した時には、帰りの電車に一人で乗っていた。
両親は親類への報告や葬儀の準備に追われていて、蒼に切符代を渡して先に帰っているように言った。
亡くなったのは離れて暮らしていた父方の祖母で、よく可愛がってもらった記憶があるために、理解すると次は悲しみが押し寄せてきた。
電車に揺られながら、堪えられなくなって涙を溢す。窓の外で揺れる景色が滲んで、見舞い用に持って来ていたアヤメの花束に雫が落ちた。
祖母の初恵《はつえ》はこのアヤメがよく似合う女性だった。そして、何よりこの花の花言葉に「希望」という意味があると知って、願いを込めて持って行ったのだ。しかし結局、そんな願いは聞き届けられず、無情にも祖母は天に召されてしまった。
涙ながらに電車の窓から外を見ると、雲間から光が地上へ降りてきている。天使の梯子と呼ぶらしいその光の筋に、祖母は連れて行かれて二度と帰って来ない。
祖母のシワだらけの手を握ることも、笑顔を見ることも、声を聞くことも叶わない。そう思えば思うほど、悲しみがいや増した。
電車に同乗している人々は誰も泣いている蒼を気にかけない。それにほっとする反面、底なしの喪失感や孤独感に押し潰されそうになる。
しばらく止まらない涙を流し続けていると、目的の駅の一つ前辺りで誰かが目の前に立ち、すっと白いハンカチを差し出された。
見上げると、ぴしりとスーツを着込んだ男が硬い表情で見下ろしてきている。近寄り難い真面目なサラリーマンといった風だか、それにしては若過ぎる気がした。もしかして、就活生かもしれない。
その隣りにもう一人男がいたが、そちらは呆けたように蒼を見たまま何もしてこない。表情のせいもあるだろうが、こちらはハンカチを差し出している男に比べ、親しみやすそうな風だ。
「あ、のっ……?」
しゃくり上げながらハンカチを持った男に問いかけると、男は無言のままハンカチで蒼の目元を拭った。さらに、戸惑う蒼にイチゴ味のキャンディを押し付けてくる。
「あり……がとうございま……」
花束を持っていない方の手で受け取ると、男は蒼の頭を撫で、そのまま停車した駅で降りて行った。
蒼はいつの間にか泣くことも忘れ、キャンディを口の中に入れる。甘く優しい味がして、ぎゅっと胸が締め付けられた。
アヤメに目を向けると、祖母が微笑んでくれている気がした。
それがきっと、蒼の初恋の記憶。名前も知らない、そして、時間と共に顔もうまく思い出せなくなった相手なのに、ずっとずっとどこかでまた会いたいと思っている。
同性だとか、年が離れすぎているとか、そんなことを飛び超えた純粋な想いを抱えながらも、年ばかり重ねて。
気が付けば、あれから十年も過ぎてしまっていた。
そして春先の今日、地元の会社での就職を希望し、念願叶って面接までこぎ着けた。その会社はスマートフォンやパソコンの開発やアプリの開発、運営を行っている企業で、蒼は大学で学んだプログラミングの知識を活かしたくてこの会社に辿り着いた。
Future社の入り口に立ち、スーツのネクタイを結び直して背筋を伸ばす。
緊張のあまり乾いた喉を潤そうと、お守り代わりにポケットに入れていたイチゴ味のキャンディを取り出して口に入れた。それを舐めているうちに不思議と気持ちが落ち着いてきて、まるで彼に見守られているように感じた。
「よし、行くぞ」
気合を入れ直して一つ頷くと、会社の中に入り、受付に向かう。その手前で周囲を見渡していた女性が声をかけてくる。
「どうされました?」
華やかさはないが、おっとりしていて優しげな女性だった。その笑顔に励まされて、口を開く。
「本日十時に面接をしていただくお約束をしていた海藤《かいとう》蒼と申します。どちらへ向かえばよろしいでしょうか」
「海藤さんですね。確認します。ちなみにどなたとお約束されていましたか?」
「えっと、確か獅童さ……」
「ああ、もしかして君、今日面接の?……って……」
その時、受付の奥から一人の男性が出てきて、蒼に声をかけてきたかと思うと、なぜだか一瞬目を見開いて固まった。
「……?」
蒼もなんとなくその男に見覚えがあるような気がしたが、どうしても思い出せなかった。
男は黒い短髪の頭を掻き、頬にあるホクロを触った後、蒼から気まずげに視線を逸らして咳払いをした。
そして。
「初めまして。今日面接を担当する獅童龍仁《しどうたつひと》です。君は海藤蒼さんで間違いないですね?」
「あ、はい。初めまして、今日はよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ。どうぞこちらへ」
そのまま案内に従ってついて行ったのだが、今度は面接のことで頭がいっぱいになり、見覚えがある気がしたことは忘れていった。
それから滞りなく面接を済ませて外に出た時には、ほっとして全身から力が抜けた。
手応えは確かにある。それは龍仁が最初の真面目な挨拶に反して、面接時はずいぶんと親しみやすい感じに接してくれたからだとか、やけに蒼に興味を持っていろいろと聞いてくれたとかいうことも大いに関係していた。
面接の結果が今から楽しみになりながら、ポケットの中を探ってもう一つのキャンディを取り出す。
味はやっぱりイチゴ味だ。それを舐めながら、春の柔らかな風が吹く中、ゆったりと歩き始めた。
そして、蒼はそれから数日後、無事にFuture社に就職した。
更に月日が流れ、蒼は三十歳になったが、今も尚、変わらずに初恋の記憶を大事に抱き続けて。
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