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第1話
雨は曇った膜を張ったように僕の視界をさえぎる。自分の目を疑って目をこするくらい、一面に細かな雨が落ち続けている。そんな雨の中でも探しているものだけは都合よく見えるのだから、視力なんて当てにならない。
「みつけた」
池をはさんだ向こう側の道をその姿は一定の速度で移動し、木の影に隠れた。僕は同じ速度で視線を動かし、再び現れたその姿を目で追う。池の周りと公園を通るウォーキングコースは一周一キロメートル。そのコースを大きな歩幅でリズムを刻みながら進んでいく。
一周五分で走ることもあれば三分という日もある。一キロメートルを三分で走るのは早い方らしい。つまりあの速さは僕だけが思う「速い」ではなく、本当に速い。
もうすぐだ。はね上げる水の音など実際は聞こえていないのに、胸の内側がその音で高鳴っている。フードの下にキャップをかぶり、スポーツグラスをかけた姿で目の前を走り抜けた。
と同時に僕はストップウォッチを押した。
初めてストップウォッチを握って待ち構えていた時はタイミングが合わず、走り去ってしまった。思うより全然早かったのだ、あの人の走りは。
小学生が全力で追いかけても軽々置いていかれるのを見て「マラソンランナーみたいだ」と意識した。他のジョギングをしている大人は、子どもの全力走に一度は抜かれることがほとんどだった。
そしてあの人が止まっているところを見たことがない。気がつくとそこを走っていて、どこからスタートしているのかもわからない。年齢も職業も。僕は何も知らないランナーのタイムを測り続けている。
「あんなに早く走るとどんな景色が見えるんだろう」
風を切るとか、風に乗るとか、風を感じるとか表現としてはなんとなくわかる。そうじゃなくて、あの走りを感じてみたいというのが今の僕の願いだ。
足にかかる体重や体のブレ、視線の先には何があって何を考えているのか。息苦しさ、足の重み、それからどんな気持ちでいるのか。何を考えているのか。
遠のいていた距離が再び迫って来た。僕の視線の先にあるフェンスの柱をラインにして、カチリとストップウォッチを押し、タイムを見つつ走り去る後ろ姿を覗きこむ。
雨なのに速いペースだ。大会でもあるのだろうか。週末は姿を見ないこともあるからマラソン大会に出ているとか。学生なら試合だろうか。
世の中にはランナーがたくさんいるようで、日本中のあちこちで頻繁にマラソン大会が催されているらしい。そんなことも知らなかった。興味を持つまでは僕の周りに存在しなかったものが、まるでたった今生まれてきたと言うように押し寄せてくる。それに押しつぶされそうになりながら、新しい世界を知っていくことに喜びを感じているのだ。
でも、僕はいつまでも足りないものがあるのを見て見ぬふりをしている。
ある時から僕の体の何かがおかしくて、起きようと思っても起き上がれなくなった。故障したロボットみたいなものなのか、自分の意思が体に伝わらないのが気持ち悪い。
なんとか起き上がっても体も頭も重力に逆らうことを嫌がっている。食べ物は味がなく、そもそも空腹を感じない。病院に行くことにエネルギーを使い果たし、その後は部屋から出られなくなった。今ではカウンセラーの訪問も耐えられず、ウェブで通話をしている。
「最近運動をしましたか?」
「してないです」
「外出も気分転換になるんだけど、できそう?」
「……部屋からでられないから」
ベッドに転がったままスマホの画面に向かって返事をする。不毛な会話だと思うが、こんなことでもしないよりはいいらしい。
「簡単な体を動かす動画のURLを送っておくからやってみて」
笑顔で明るく勧められても、部屋の中の移動すらろくに歩けないのにどうなのかと思ったら、寝転びながら出来るストレッチだった。だからってそれすらやる気にはならない。
不眠は運動で解決されることもあるとわかっているけど、とにかくそんな状態じゃなかった。ちょっとはマシな時もあるが、ずっと謎の体調不良とお付き合い状態がつづいてる。
気がつけば今日で一週間、あの人が走る姿を見なかった。走るコースを変えたのだろうか。もしかして走るのをやめたとか。まさか走れなくなったのでは。
眠れない日を繰り返し、一日をなんとかやり過ごす間に、果てしなく悪い妄想が僕の中からはみだして体に巻きついている気がする。そして唯一心置きなく過ごせるこの部屋まで息苦しい。
白い壁から続く白いサッシのサンルーム。ブラインドを全部開ければ外に出ているような錯覚をすることもある。空はその日毎に天井の色を塗りかえ、満月は僕の影を作る。
ここは元々、祖母の部屋だった。池の向こう岸の小さな森は水面に映り込み、日本画のような趣があると祖母は籐製の椅子に座ってながめていた。その部屋で僕はキャスター付きの椅子に座ったまま、部屋の端から窓際へゴロゴロと移動する。
走りに現れないと諦め、スマホでSNSを開きリストに入れた陸上やマラソン関係の投稿をながし見た。大会の情報や慣例、ルール、トレーニング方法、学生の卒業後の進路、動画サイトなどを親指で送り続けていたが、一瞬通り過ぎた動画に目を留め画面を戻した。
そこには見た事のあるフォームで走る後ろ姿があった。手の振り方、蹴りあげる膝下の角度、ふくらはぎの形、背中の伸び具合、全部同じだから間違いない。見間違えるはずがない。
『二年のブランクを経て、現役復帰。応援よろしくお願いします』
というコメントが付いていて、投稿はある有名企業のアカウントだった。だけどそこには走っている本人の名前はない。数日後に正式に発表されるというのだ。だけどその数日なんて待てない。二年のブランクって? これは大きなヒントじゃないか?
「〇〇年引退」「陸上競技」「長距離」「マラソン」「駅伝」「〇〇年卒業」など思いつく限りの言葉で検索をかけた。簡単に見つかると思ったのに大きなヒントどころか情報が少なすぎて、知りたい情報にたどり着かない。名前がわからないのが致命的だ。
もう一度あの動画を表示してブックマークする。何度も再生を繰り返し、僕はその走りに惹かれているのを確信した。
そして、復帰するという企業がこの近くであったことに期待をする。もしかしたらまた、ここに走りに来るかもしれない。
小さな希望を持つ事が出来たから、また頑張れる。今日はなんとか眠ることが出来そうだ。
もうすぐ丸くなる月を見ながら目を閉じた。
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