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第3話(最終話)

 次の日は夜が待ち遠しくてブラインドを全部あげて窓も開け、池の景色をずっとみていた。歩く人、走る人、犬の散歩をする人、学校帰りの自転車。昨日まではテレビの画面のようだったのに今日は息遣いや足音がリアルだ。 空の色を映して色を変える水面は綺麗だが、早く色をなくして欲しかった。  人の気配がなくなってしばらく経つと、今日は新月で辺りは暗く、遠くの街灯だけがぼんやり丸く浮き上がって見える。  いつものキャスター付きの椅子に寝そべるように座り、物音がする度に体を強ばらせた。あの人に会える、とは言っても、昨日はたまたま落としたものを拾ってくれただけだ。 何を期待してちょっとかっこいいTシャツとハーフパンツを選んでるんだ。  いつ来ても慌てないように、今日は最初からストップウォッチの紐を手に通し構えている。気がつくと息を止めていて、時々大きく息を吐く。期待も大きく吐き出して、もう少し落ち着いていたいのに。  深呼吸に疲れ目を閉じていたら、遠くから足音がしてきた。  そっと様子をうかがい、いつものようにストップウォッチをかまえ、フェンスのラインを通り過ぎる瞬間を待ったが、窓の外で足音が止まった。 「もしかして、君がKAKERUくん?」  小さいけどはっきり聞こえる甘い声に驚き、持っていたストップウォッチを思わず押してしまった。 「あ……」  僕のSNSでの名前は高校生で陸上部KAKERUだ。 「そのストップウォッチ、もしかして俺のタイムを計ってたの?」  一気に身体中の熱が顔に集まって、湯気が出てるんじゃないかと顔を両手で触った。熱い、ヤバい。心臓も十倍くらい大きくなったみたいに体を震わせてる気がする。 こくんと頭を動かして質問にその通りだと返事をする。 「いつもありがとう、SNSってどこに住んでるとかわからないでしょ。こんな近くで応援してくれてる人がいるとは思ってなかった」 「近く?」  反射的に反応しただけで頭の中は、近く近くと駆け巡るばかりだ。 「そう、カケルくんは一宮カケルくんかな?」 「え?!」  僕は思わず立ち上がった、それも座っていた椅子が思いっきり後ろに転がって移動するくらいに。 「なんで……」  知ってるの? まで言葉にはならなかったが全部通じてるらしい。 「毎日、家の前を通るから」 「まいにち……」  全然僕の頭の中は動いていなくて、今度は毎日、まいにち、と繰り返すだけだ。そんな僕を歩道から見上げてにこやかに答えてくれる。 「俺の家はあの赤い屋根の家。叔父の持ち家なんだけど、誰も住んでないから借りてるの。引っ越してきた時挨拶に来たから知ってるよ」  指さした赤い屋根の家は僕の家の玄関から道路を挟んで斜め向かいだ。子どもの頃から「赤い屋根のうち」って呼んでた。 誰が住んでいたかは思い出せないけど、今そこに住んでいる人は無造作なショートヘアが似合ってて、暖かな甘い声でトレーニングウエアもこなれてる。走る姿は足が伸びるように進み、跳ねているように軽い。 僕は伸びっぱなしの自分の髪が急に気になって襟足を掴んだ。 「あの……僕は陸上部じゃないんです」  僕の頭の中はバグってる。「一宮 駆(いちみや かける)です、よろしくお願いします。仲良くしたいです」って言いたいのに。 「そうなんだ、でもいつも見てくれてたんだよね。タイムまで計ってくれたんでしょ。陸上部じゃなくても問題なし!」  親指を立ててからフェンスに登って、僕に向かって拳を突き出した。僕はゆっくり手を伸ばし、右手の拳を合わせた。 「明日休みだから今日は軽く5周してくる。後でタイム教えて」  手首と足首を回しながらそう言って、膝を曲げ伸ばししてから走っていった。慌ててストップウォッチを押して走っていく背中を窓から体ごと出して見送る。 それから掃き出し窓に出しっぱなしのサンダルのホコリを払って足を入れ、久しぶりに家の外に踏み出した。小さな庭には名前を知らない花が植えられている。踏まないようふらつきながら、歩道へ続くフェンスの扉を音がしないようゆっくり開けた。  歩道に降りるまでの階段は五段。一段が、一歩が、這ってすすむようなものだった。それが今は静かに音を立てないように、焦らないようにと気を使っている。  歩道に立ち、笑顔で近づくあの人を待ち構えた。近づいてくる距離と走るスピードに粟立つ皮膚を感じながら、フェンスの前でストップウォッチをカチリと押す。 振り返らずに右手を挙げて走り去る後ろ姿を見送った。  一周の間に、僕は五歩進んだ。そしてあの人と話すこともできるようになった。一気に進みすぎてる気もするけど、僕はいつかこの池を一周できるし、数えられないくらいの歩数を進んでいく。そしてもっとあの人、水海さんとの距離を縮めたい。  僕は「ずっと、これが続きますように」と、走ってくる音に耳を澄ました。 [了]

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