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ジン・デイジー3

 俺は、ただの一度も伊織さんの声を聞いた事がない。  店の前の通りで初恋の人に似た伊織さんに一目惚れした俺が、下心ありまくりでこの店の常連になってからずっとだ。  もしかすると、話せないのかもしれない。  迂闊な言動をして傷付けてはいけないからと、俺は会話のない視線だけのやり取りで伊織さんと意思の疎通をしている。  この笑顔が、たとえ数時間だけでも毎晩俺のものになって、しかも彼女の作った殊更に美味いお酒が楽しめるのなら言葉など要らないと思った。  毎夜足繁く通って想いを伝えるタイミングを見計らっても、俺にはそんな大それた勇気も願望も無かった。 「ねぇ十和くん、伊織の事どう思ってるの?」 「ど、どうって?」  伊織さんが裏に捌けるのを待ってたかのように、ママがカウンターから身を乗り出してくる。  いきなり核心を突かれ、本日三杯目のマルガリータにちびちびと口を付けていた俺はむせそうになった。 「あなた達、たまに私の存在忘れちゃってるよね」 「……どういう意味ですか?」 「気が付いたらジーッと見詰め合ってるじゃない。 十和くんは初めて来た日から毎日ここに通ってくれてるし、伊織は伊織で十和くんが来るまで時計ばかり気にしてるし」 「えぇ? そ、それほんとっ?」 「本当よ」  思いがけず飛び込んできたとてつもない朗報に、俺は両手で顔を覆った。  そんな……そんな嬉しい事ある?  伊織さんってば、俺が来るのを待ってるの?  それが本当ならめちゃくちゃ嬉しい。  お立ち台の如くカウンターに乗り上げ、みっともなく小躍りしちゃいそうなくらい脳内がピンク色で溢れた。  伊織さんが戻ってきたら、どんな顔をしてたらいいか分かんないよ。   「この際だから聞いちゃうけど、十和くんはどんな伊織でも好きで居てくれる?」 「どんなって?」 「伊織が伊織なら、好きで居てくれるよね?」 「な、何? それはどういう……」  俺はついとぼけてしまったけど、念押ししたお節介ママの言葉の意味が何となく分かっていた。  伊織さんは話せない、もしくは耳が不自由なのかもしれない。 二人がうまくいったとしても立ちはだかる壁はいくつもあり、先々困難を極めるだろう。  ママは、それでも伊織さんを好きでいてくれるかと俺に確認したかったんだ。  そんなの……もしかしてそうなんじゃないかって気付いた時から、何の弊害にもならないと思ってたよ。  伊織さんの笑顔に救われた俺は、毎日それが見られるだけで幸せなんだ。 「好きでいます。 伊織さんには俺だと不相応だろうけど、好きでいるのは勝手ですよね」 「ふふふ……っ。 そうね、ふふふ……っ」  ……何、なんでそんなに笑うんだよ。  俺は本気で伊織さんと向き合う覚悟があるから、そう言ったまでだ。  上品に、そして意味深に笑ったママは他のお客さんからオーダーが入ってお酒を作り始めた。  それを横目にグラスに口を付ける度、脳内がピンク色で埋め尽くされていく。  今日のマルガリータは、昨日のオススメだったギムレットよりも別格の味がした。

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