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第8話
そう口走りながら、ふと、脳裏にお袋のことが思い浮かんだ。
そうだ――確かに俺は、あれ以来、女に興味が持てなくなっているのは否めなかった。
興味が持てないというよりも、自ら触れ合うことを避けてきたという方が正解か。俺にとって女との情事は、あの時の記憶をほじくり返す忌々しいものに他ならないからだ。
だからといって同性である男をそういった興味の対象に見たこともないが、紫月という奴の言葉をきっかけに、実際俺のような人間は、傍目からみたらどんな印象に映るのだろうなどという興味が湧いた。
漠然とそんなことを考えながら、
「まあ、どのみち俺はオンナは抱けねえから、そういった意味では……」
無意識に本音がこぼれ、だがそこまで言いかけたと同時に、驚いたような目つきで二人がこちらを見つめているのに気が付いて、言葉をとめた。
最初に話を振ってきた紫月の方は、一本とられたと言わんばかりの面喰らった表情で瞳を丸くしている。
それはさておき、多少なりともギョッとしたような面持ちで俺を凝視している無関心野郎の視線が、酷く印象に残ってやまなかった。そこには先刻からの無気力さとは無縁の、鋭く澄んだ視線が真っ直ぐに俺を捉えていて、射るように物言いたげだった。
まだ名も知らぬ男の、黒曜石のような瞳がキラキラと冷たい光を放ちながら見つめてくる。
俺はこの時初めて、この男の本質であろう活きたツラを拝んだような気がしていた。
「ところでアンタさ。香港から来たって話だけど、生まれもそっちか?」
「え……? ああ、そうだが」
「ふぅん。じゃ、日本へは? 来たことある?」
「ああ、ガキの頃に一度だけ」
「へえ――?」
今しがたまでの話題とは一転、自ら振ってきたきわどい質問にも、まるで知らぬ存ぜぬというようなひょうひょうとした調子で、紫月がそんなことを言い出したのをきっかけに、物言いたげに俺を静観していた無関心野郎の視線が、ヤツの方へと移動した。
少々呆れたような冷めた目つきが、何も言わずともその心情を物語っているようだ。
一緒に飯を食うくらいの仲だから、紫月とコイツとはそれ相応に親しい間柄なのだろう、軽く墓穴を掘った感じの紫月に、『バカな奴』とでも言いたげなのが一目瞭然だった。
そんな視線にも全くお構いなしの様子で、先へと話題を続ける紫月というコイツの図太さにも、思わず笑みがこみ上げる。本当に変わった奴らだ。
「そーいや、コイツん家の支社も香港にあるんだぜ?」
紫月は顎先でクイっと無関心野郎のことを指しながらそう言った。
支社というからにはやはり、こいつらも何処ぞの会社社長を親に持つ御曹司というわけだろう。あまりにも堂々たる紫月の、都合の良過ぎる方向転換が可笑しくて、俺はクスッと声を立てて笑ってしまいそうになるのを抑えながら『へえ、そうなの』と言って、無関心野郎へと視線をやった。
すると紫月は、すんなりと同調した俺の相槌を心底満足だというようにニヤッと微笑みながら、気を良くしたように先を続けた。
「ふぶき貿易っつってさ、でっけー貿易会社の息子なのよねコイツ!」
「ふぶき?」
――それがコイツの名前というわけか。
「そ! コイツはそれを継ぐ次期社長ってわけ。な、ヒョウよー?」
――ヒョウ。それが下の名前の方か。
音で聞いただけでも思わず寒々しい光景が目に浮かぶような名前だ。漢字で書くとどう表すのだろう、思わず興味をそそられてしまった。
それはそうと、こちらから尋ねもしないプロフィールを次々と代弁する紫月の節介加減に、当の本人は呆れ顔だ。少々うっとうしそうに大振りなゼスチャーをかましながら、
「おい紫月。俺のランチ注文してきてくれねーか?」
そう言って、まるで追い払うような手つきで、シッシッ、と掌を振ってみせた。
「はあ!? なんで俺が……」
突如、トンチンカンな指令を押しつけられて、紫月の方も冗談じゃねえよとばかりの不思議顔だ。
「いいじゃん。お前のお気に入りのウェイター、何っつたっけ? あいつに話し掛けるチャンスじゃねえかよ。俺、今日ちょっと食欲無えからトーストとコーヒーでいーや」
文句をタレてねえで早く行けとばかりの命令口調で、ヒョウという奴はそう言った。すると、渋々とした表情ながらも、反面少しうれしそうな素振りで紫月は立ち上がり、いそいそと『お気に入りのウェイター』を目がけて去って行った。
阿吽の呼吸がよくできたもんだと感心しつつも、この無関心野郎と二人っきりにさせられては、さすがに間が持たない。しばらくはこれといった会話もないままに、俺は自然を装いながら庭先を眺めるふりをしていた。
だが、意外にもそんな心配を破るかのように、突如隣りから小さな笑い声が漏れ出したのに、俺は少々驚いてヤツへと目をやった。
「お前、度胸いいのな? 名前、何だっけ?」
クックッ、と可笑しそうに笑いながら、そう訊いてよこす。ついさっき名乗ったばかりなのに、まったく聞いちゃいなかったってことか。
まあ、この無関心野郎のことだから、それもありかと呆れつつも、俺は素直にもう一度自己紹介をすることにした。
「鐘崎だ。鐘崎遼二」
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