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KISS

「1」    あいつと目が合ったとき、不覚にも俺のは勃ってしまった。  うちの学校の屋上には貯水槽があって階段で上に上がることができる。人が3人寝ころべるぐらいの空間で、俺はよくそこに上がって空を見ていた。「井の中の蛙大海を知らず けれど空の青さを知る」俺はこの学校の中で、まさしく井の中の蛙で、このままどうなるのか不安で仕方ないけど、勉強をするわけでもなく、スポーツを頑張るわけでもなく、ただこうして空の青さを見るだけの青春だった。その日も俺は貯水槽の上で寝転がってうとうとしていたら屋上に誰か上がってきた。 「ごめんね、こんなところに呼び出して。」女の声だ。 「いいよ、何か用?」男の声だ。告白か、告白なのか、こんなのはじめて、と思いながら耳を澄ませて聞いていた。 「3年になって初めて同じクラスになれて、私本当にうれしかったの。」 「うん」 「でも、あと1年間しかなくて、だから、私早く言わないと、って。あの、好きです。」 男の方は、沈黙。早く答えてやれよ、かわいそうだろ、ああ、照れてるのか。男はゆっくりと口を開いた。 「うん。ありがとう。僕、告白されたのなんか初めてで、ちょっとびっくりして。」 女の子も、こっちこそ急にごめんねと言った。どうするんだ男、と思っていたら、 「受験もあるし、勉強しなきゃダメだし。今真剣に考えられなくて。嫌いとかじゃないんだ。ただ、真剣に向き合いたいっていうか、考えたいっていうか。だから、ごめん。」と言った。 女の子は涙を必死にこらえて、そうだよね本当にごめんね、と言い、男を残して走り去った。 かわいそうに。とりあえず付き合ったらいいのに、と思っていたら、その男 「うざっ」 と言ったのだ。え、「うざ」ってなんだよ、今すごく爽やかに「考えられなくて」と言ってたのはお前だろうが。  不意にその男は上を見上げた、そしてその視線の先に、告白を必死に聞こうとして身を乗り出していた俺がいたわけだ。その男の 「なんなんだよ、おまえ」 と言ったその目が印象的で、大きくて、目の黒いのと白いのがはっきりしていて、髪はふわふわで日の光が当たってキラキラして、扇情的な口元に俺の細い眼はくぎ付けになり、そして、不覚にも俺のは勃ってしまった。  あの目、「三白眼」というらしい。  貯水槽の上でうつ伏せになり立ち上がれなくなってる俺に、あいつは「言うなよ」と言った。 「僕のことを好きな子をわざわざ敵に回すことないでしょう。ああ言っとけば、うじうじ考えて、それでずっと僕のこと好きでいればいいんだ。」  その扇情的な口元で、その非情な言葉を言う、俺はその姿に見惚れてしまった。 「2」  屋上の告白事件から3か月がたち、夏になり、俺は学校に来ていて補修を受けている。 「なぁ、鈴木聞いた?」ちなみに、俺の名前は「鈴木」だ。 「聞いてない」 「進学クラスのやつが、いかがわしい繁華街で、ダンディなおじさまと歩いてたって話。」ちなみにこれは俺の友達の佐藤だ。佐藤は「そいつの名前は」とあいつの名前を耳元で囁いた。あいつの名前を聞いて俺は再び反応しかけた。この3か月何もなく、平穏に過ごしていたのに。佐藤がしつこくあいつが「ダンディ」な「おじさま」と「いかがわしい」話を続けていたので、俺は気分が悪くてイライラして、教室から出ると、そこは人だかりになっていた。  人だかりの中心にあいつと例の屋上の女の子と、もう一人いかにもモブの男がいて、モブはあいつに怒鳴っているようだった。 「はっきりしろよ」とか 「悪いと思わないのか」とか 「もうやめてよ」とか聞こえてきて、あいつが非常にまずい立場にいることが明白だった。 「こいつ、ラブホ街でおっさんと手を組んでたんだ、なのに、思わせぶりなこと言って、謝れよ」大まかにそういうことをモブが言ったとき、俺の意識は飛んだ。別に助けようと思ったんじゃない、ただ気分が悪い、イライラする、それだけ。この廊下を歩かなくては職員室に行けない、職員室に全く用はないけど、この廊下は歩き切らなければならない、佐藤が「何やってんだよ、行こうぜ」と俺の腕をつかむけど、俺はその手を振りほどいても、この廊下を歩かなければならない。人だかりの中を俺は歩いていく、うっすら無精ひげで体格のいい俺が「明らかに機嫌の悪い状態」で歩くから、人だかりが俺を避けて道ができる。俺がモブの前にまで来た時、モブは「何だよ」と完全に俺に怯えた表情で言ったのだが、俺は頭に血が上っていて「邪魔なんだよ」と振り払っただけのはずが、モブは壁に激突して、そのまま崩れ落ちた。俺はそのまま職員室に連れていかれ、現行犯で停学となった。 「3」  3日間の停学から何も起こらず、制服が冬服になった。  その日、俺は引っ越しのバイトをして家に帰ったらあいつがいた。何してるんだよ。「借りた本返しに来てくれたんだって」と母親がのんきに言った。  俺はなぜか夜道が危ないからという理由であいつを送っている。 「送らなくていいのに。」 「いいんだよ。」 「お礼だけ言いに来たんだ。」 「いつの話だよ。」  俺たちはそんなたわいもない会話をお互いの顔も見ずに淡々と続けた。  ふいに、あいつは少し沈黙し、こう言った。 「僕ね、父親の古い友達と付き合ってたんだ。」 (はぁ?) 「深いお付き合い。ほんとに好きだったから。僕ね、その人と会うまで普通に女の子が好きで、自分がこんなだと思わなかった。」 (ふかい、おつきあい) 「いかがわしい繁華街、に、いたのは、ほんと、だよ」 (かわいいから、「ほんと」っていうな、「う」入れろ、「う」を) 「一回フラれて、僕辛くて、いつまでも、うじうじ、うじうじ考えてて、でもずっと好きで、どうしても、もう一回会いたくて、無理言って出て来てもらったんだけど、会ったときに、冷たい目で『何か用』って言われて、僕はずっと引きずってたけど、この人は、もう僕のことなんか好きじゃない、なんとも思ってないってわかって。」 「終わったのか」 あいつは立ち止まって下を向いた。 「おい、どうした。」何も答えない。 「おい。」 あいつは顔を上げて俺の方を見たのだけど、その眼には涙がいっぱいであふれそうになっていた。 「忘れてない、全然忘れてない。うじうじ考えて好きなまんまだよ。」と言ったとき、目からぽろぽろ、ぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ちた。俺は胸の奥の方が、ずきん、と音を立てるのを感じた。無意識に、俺の右手があいつの左腕をつかみ、引き寄せたら、あいつの顔がちょうど俺の胸にすっぽり収まる感じになって、俺の左手は自然とあいつの背中に回されて、抱きしめるような体勢になったのだが、あいつは1ミリも動くことはなかった。                 「ああ、もう、やましいことだらけだよ、今の俺は」  俺の声に反応してあいつは俺の顔を見上げた。その大きな三白眼の目は開いたままで子供みたいに俺の顔をじっと見た。俺は衝動的にあいつの唇に俺の唇を重ねていた。でも、まだ、あいつは逃げるわけでもなくじっとしていた。俺は唇を離し、あいつの頭を、こう、ぎゅっと抱きしめ、 「で、どうすりゃいいんだ。ここから、どうすりゃいいんだ。」 といったら、あいつは俺を突き飛ばし、 「知らないよ、バカっ」 と叫んで走っていった。 「4」 「知らない」と言われて置いて行かれてから、いろいろあって、本当にいろいろあって、今日は卒業式。俺とあいつは何も話さないまま、目を合わせることもないまま卒業することになってしまった。  式の後、卒業生は外に集まって写真を撮ったり、言葉を交わしたりしていたけど、あいつはどこにもいなかった。 「鈴木、いつ行くの」教室から出てきた佐藤が俺に言った。 「明後日。」俺は佐藤の方を見ないまま答えた。 「じゃあ今日は送別会な」 「ああじゃあ…ごめん、やっぱ、行けない」 俺が佐藤の方を振り返ったとき、佐藤の向こうにあいつがいたんだ。そして、あいつは大声で俺に言った。 「お前本当に頭悪いな、生まれ変わって僕にもう一度会いに来い。」 え、と俺は戸惑ったし、佐藤も呆然としていた。 「続き、どうしたらいいか、勉強したのかよ。」 続き?と佐藤は不可解な顔をする。なんで、今、ここで、そんな話をする。 俺はあいつの腕をつかんで、とにかくこの場から離れようとしたが、あいつは俺の手を振り払って 「一回キスしたぐらいで、自分の女みたいな扱い方するのやめろよ。」 佐藤は「キス」と復唱した。あいつは 「遅いんだよ。」 「もう卒業じゃないか。」 「もう会えない。」 と俺の方を一度も見ずに言った。そして俺の制服の裾を掴んで下を向き、ぽろぽろと涙をこぼしたのだ。俺は立ったまま何もできず、ただ泣くあいつを見ていた。俺たちは、ここにいるすべての人間にとって生涯忘れられない光景を提供してしまったんじゃないのだろうか。  俺は泣くあいつの腕をつかんで走り出し、おそらく学校関係者一人もいないところまで連れ出した。 「お前、ここを出て、春から一人で暮らすんだろ。」俺が言うと、 「なんで知ってるの。」とあいつは返した。 「まあ、いろいろと、聞いたり。」 「300キロ以上離れる。もう会えないかもな。」あいつは下を向いた。  今こそ、俺はこの数か月、お前に「知らない、バカ」を言われて、考えて考えた「とっておき」を話さなくてはならない。 「俺、実は、もともと、そっちの出身だから、また近く、だ。」 あいつは驚いたような顔をして、俺を見、「しつこい」といって、でも、少し笑ったようにはにかんだように、俺には見えたのだけど。  俺は「また、よろしく」と右手を出した。あいつは、俺の右手を両手で包み、最初に会ったときと同じ三白眼で俺を見上げた。 (ああ、もう、なんなんだよ、お前) あいつは少しつま先立ちになって、俺は少し身をかがめて、自然に自然な、キスをした。

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