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第1話

「でさー、その男が」 「昨日のあれ見た?」 「LINE来てないんだけど」 「あれやばくない?」  三十人の生徒がおしこめられた教室は、いつも誰かのお喋りでやかましい。教室前方、ベランダ側の席に座る翔の耳には、それが早朝一本の木に集中して鳴き声を上げている鳥の群れのように感じてしまう。ややヒステリックにも感じられるその中で、翔はため息をついて宿題のワークブックに目を落とす。  高校に入学して、三か月が過ぎた。中学受験して入った私立の中高一貫校を辞め、高校受験をして掴んだ、この席。四月に数人の男子と声を交わしただけで、そこから希薄な関係が続いている男子が二人。犬飼と牛島。けれど彼らの席は翔の席とは対角線上に離れており、しかも二人とも適当に近くの席のクラスメイトと話しているので、わざわざ自分から話しかけに行く気にもなれない。 「あ、ごめん」  ぼんやりと眺めていた活字が揺れる。顔を上げると、ショートカットの女子の黒々とした瞳が吃驚したように翔を見下ろしていた。 「別に」  彼女の前に、女子がもう一人。どうやらふざけていて翔の机にぶつかったらしい。短く一言告げると、さっと翔は彼女から顔を逸らす。女子には、なるべく関わらない方がいい。  少しの間、その女子は翔をまじまじと眺めているような気配がしたが、やがて何事もなかったかのようなおしゃべりが再開したので、ほっと胸をなでおろした。 「はいはーい、皆席についてー!」 がらり、と扉があく音とともにお喋りの海を割るように、担任が教室へ入ってきた。彼女は教卓へとつくと、消されていなかった黒板にちらりと視線を投げ「今日の日直は誰かなー」とクラス中を見渡す。すぐに「やべ」「忘れてたー!」と二つの声があがり、短いスカートの裾が視界の端に舞った。 「それでは終礼を始める前に一つ決めたいことがありまーす」  黒板を完全に消し終わるのを待たず、担任は明るいよくとおる声で話し始める。教室内のおしゃべりはやみ、黒板を消すきゅ、きゅ、という音が声の合間に響いた。  翔はその声を聞かず、頬杖をついてグラウンドを見下ろす。ぽつぽつと黒い点となって、生徒が帰宅する群れ。体が大きいし、上級生だろうか。  あ。  なんとなく眺めていたその中の、ある一点に翔は釘づけとなってしまう。すらりと伸びた足、黒いリュックサック。短めにそろえられたうなじの雰囲気が、目を引く。顔は見えなかったが、一目で身体の形が整った人だと、思った。彼は、三人の友人と何かしゃべりながら、校門へと向かっているようだった。ずんずんと進んでいくその軍団を追っていたら、無意識のうちに首が動いていた。 ちょっと、どんな顔してるのか、見てみたい。身体があれだけ整っているのだ、もし顔も整っていたらかなりの存在感だろう。何年生なのだろうか。この時間にいつも帰っているのだろうかと、時間を確かめようと首をあげた瞬間。 「じゃあ、美化委員は小鳥翔さんでいいかな?」 「えっ」 「さんせーい」  にこにこと微笑んだ担任が、意気揚々とクラスに向かって翔の名前を言い放った。驚く声も、クラス中の「賛成」の合唱にかき消される。  美化委員って、何。  いきなり現実に引き戻され、さっと浮かんだそんな疑問もがやがやと騒ぎはじめたクラスメイトの声に吸い込まれていき、翔は一人固まって担任の「はーい、静かにー」と言った唇の形をぼんやりと見つめていた。  次の日の朝礼後。美化委員の最初の仕事が担任から言い渡された。 「今日の放課後集まりがあるから、このプリントを持って理科準備室へ行って」  プリントには、各クラスの美化委員に選ばれてしまった不幸なメンバーの名前が載っており、その中、一年二組と書かれた横に、小鳥翔という名前を見つける。ため息をつきながら席に戻ると、牛島と犬飼が翔の席に気だるげに座っていた。 「まじ、ご愁傷様としか言えんな」  プリントを翔が机の上に置くと、頬杖をついて椅子に座っていた犬飼が一言漏らす。 「違うよ、ぼーっとしてたら決まってたんだって」  翔はもう一度ため息をついて、首を軽く傾けた。牛島はそれに笑い、 「小鳥はいつもぼーっとしてるよな」 とからかうように笑う。 「本当だな、何見てたんだか」 「あんとき小鳥グラウンド見てた」 「ということは何だ、可愛い子でもいた?」 「お、もしかしてパンチラとかしてた?」 「いやー! 小鳥変態ぃ!」  勝手にはやし立てる二人の「可愛い子でもいた?」の文言に心臓が鳴った。可愛い子、ではなくて、形のよさそうな人、ならいた。しかし、すぐにぎゃあぎゃあと騒ぐ二人に意識を戻し、細かいところまで見ているなと顔をしかめる。翔が別の事に気を取られていると分かっていながら、美化委員が彼に決まるのを静観していたのだろうか。 「ここに載ってる人、全部押し付けられた感じの人かな」 「絶対そうだろ。すっげえ地味な集まりなんじゃね?」 「根暗の会!」 「まじ選ばれんでよかったわー、小鳥ドンマイ」 「ドンマイ」  ぽん、と二人が翔の腕をたたいたところで、一限の先生が教室へと入ってくる。「やべ、用意してねえ」と犬飼が呟き、弾かれるように席を立つ。それにつられて牛島も、「俺もだわ」と自分の席へと帰って行った。  その日は移動教室もなく、一日を一年二組の教室に缶詰めになって過ごした。現国をうけても、数学を受けても、英語をうけても一日中、翔の頭は放課後の美化委員の事で憂鬱で、教科書を前に何度もため息をつく。クラスから一人という点では、身近な誰かと合わせる必要もないので気楽でいいが、それでも面倒事には変わりない。どのくらいの期間何をするのかもわからないし、本当に厄介だ。 そうして迎えた放課後。帰り支度をしてから、犬飼と牛島二人にへらへらと笑われながらも教室から送り出され、翔は集合場所の生物室へと向かった。 一年の教室からは、一階分階段を上ったところにある。腕時計を見ると、集合時間の五時には少し早い四時四十二分だった。一番乗りだろうかと思いながら茶色の階段を上り、特別教室がある方の右手廊下へと歩いていく。一番手前にあるのが、化学室で、その次が生物室だ。外から見ると既に電気はついており、一番乗りではなかったかと、教室後方の立て付けの悪いドアに手をかけた。何回か、引っ掛かるような感じがして、力を込めると三回目でやっと開く。中を覗いた、瞬間。 先客と、目があった。教室の後ろの棚に飾ってあるホルマリン漬けや骨格標本を眺めていたらしい、後ろ手に手を組んで、丸い大きな瞳が翔を見る。 途端、すらりと伸びた手足に、翔はグラウンドの彼を思い出した。この身体、間違いない。 「一年生?」 かっと上昇した熱に、目をそらそうとした瞬間、向こうから声をかけてきた。微笑みを浮かべて、体を翔へと向ける。心臓がとくとくと強く脈打ち始め、翔は「あ」と口を小さくあける。何か、答えなければ。 「お互い貧乏くじ引いたね」 彼は、くるりと体を席の方へ向けると、鞄がおいてあった窓際のテーブルへ移動し、丸椅子の一つをひいて座った。そして、横の椅子を引き、机を軽く二回叩く。座れと、言うことだろうか。開いたままの口を閉じて、翔はぎこちなく足を踏み出した。促されるまま、引き出された丸椅子へ座る。ただ、少しだけ彼とは離れるように、椅子を引くことを忘れなかった。 「俺、二年生」 近くで見ると本当に綺麗な顔立ちで(だからといって、けして女らしくは見えない男らしいものだ)、翔は恥ずかしくなって手元のプリントに目を落とす。あの時、身体だけでなく顔も整っていたら、と軽々しく思ったものだが、まさか本当にそうだとは。しかも、自分の間近、手を伸ばせば触れられる距離にまさか現れるだなんて。 二年生の欄には、五組分の名前が印字されていた。漢字の読みなど頭に入ってこなくて、他の美化委員はまだ来ないのだろうかとどぎまぎする。すると、とん、と長くふしくれだった指が、プリントの一点を指した。 山科圭。 「これな。お前は?」 名前を聞かれていると気がつくのに数秒後かかって、はっと山科の顔を見る。彼は、ゆったりと微笑んだまま、翔の答えを待っているようだった。 「ことり、しょうです」 黒々とした瞳に吸い込まれそうだ。ちょっと目を見開いた彼につられて翔も瞼を大きく開くと、山科の視線はプリントへと移り、「一年二組か」と指を動かした。 「小鳥が翔ぶ、か。いい名前だな」 「……そう、ですか?」 「うん、いいと思う。翔って呼んでいい?」 「あ、はい」 結構、人懐っこいのだろうか。今朝牛島が言った「根暗の会」という呟きが頭をさっとよぎる。全然、根暗じゃない。にこやかだし、華やかだし、親しみやすい。 「……何か俺の顔についてる?」  じっと見つめすぎていたらしい。長い指を頬にやり、山科が呟く。 「あ、いえ、ごめんなさい」 「何で謝るの?」 「何でって……」  気分を害されたかと思ったが、彼は微笑みを絶やさない。むしろ、興味深く翔の事を窺っているようでさえある。 「俺だったら、あまり人に顔をじろじろ見られるの、好きじゃないので」  瞬きをしながら、遠慮がちに本音を言うと、山科は「そうなんだ」と言って首を少し右に傾けた。見つめあったまま短い沈黙が流れ、翔が何か言葉を継ぐべきか、迷い始めた瞬間、大きな音を立てて教室前方の扉が開く。 「お、早いなー、山科」 「佐藤先生」  入ってきたのは翔の知らない教師で、その後ろから続々と美化委員になったらしい生徒が教室へと流れ込んできた。それを一人一人観察していると、案外地味そうな顔は少なく、数人で連れ立っては六人掛けのテーブルにばらばらと座って行った。 「翔はどうして美化委員立候補したの?」  意外だな、と思っていると、ふと横から声がかかる。反射的に顔を向けたが、力強い視線がまっすぐに注がれていて、顔に熱が集まったのを感じて目を再び逸らした。なんで、こんな先輩といきなり、こんなに接近した距離で話せているのだろう。幸運なのかよくわからない状況に、翔の胸中は複雑である。 「……ぼうっとしてたら、いつの間にか決まってて」  グラウンドを歩くあなたに見惚れていたら、いつの間にか押し付けられていて。と、本当の事を言えるはずもなく言葉を濁した。 「何それ、適当過ぎない?」 「先輩は、何で?」 「あ、先輩って出来ればやめて」 「え?」 「下の名前で、いいよ」  今度こそ、反射ではなく意思を持って山科の顔を見る。彼の眼は笑ってはいるものの、試したりからかったりしようとしているような雰囲気はまるで感じられない。 「圭、さん」 「さんもやだ」 「……圭くん」  まさか、初対面で。口にするには抵抗のある呼び方をすると、山科は少し考えた後に、 「まあ、それでいいよ」 と頷く。年下の翔の事を、下の名前で呼ぼうとするのは理解ができるが、年上の山科の名前を、翔がこの場で下の名前で呼ぶ事になるとは。今まで出会ったどんな人よりも距離感が掴めなくて、翔は一体どんな顔をしていいのか分からなかった。しかし、山科の方は満足したらしく、唇の端を持ち上げて黒板を見る。  まあ、そんなに頻繁に顔をあわせるわけでもないし。  その横顔を見て、翔は一人頷くと、同じように黒板に目を向けた。  教卓では佐藤先生が教室内を見回し、生徒の人数を数えている所だった。全員揃ったのか、満足そうに「よし」と呟くと手を叩く。 「じゃあ、委員会始めるぞー」 少し間の抜けた掛け声で、教室内のざわめきがおさまった。 「じゃ、既にプリント貰ってると思うが、そこに書いてある十五名が美化委員のメンバーだ。一年五人、二年五人、三年五人、と、各学年五人ずつな。来週十三日月曜日から十七日の金曜日まで一週間、美化週間ということで朝と放課後に掃除に当たってもらう。あと、各クラスでの美化週間の報告が主な仕事。それで……」  本当に面倒な委員会だ。佐藤先生の話の冒頭で、翔は内容に軽く眉をしかめた。クラスメイトは美化委員の仕事内容を既に知っていたのだろうか。 「……の場所を手分けしてやってもらうことになる。一人じゃまあ大変、というのは表向きの理由で、監視だな、お互い見張り役という事で違う学年同士でペアになってもらうから。まずそのペアを今決めてくれ。ただし奇数だから一組だけ三人で。組んだら先生に言ってくれー」  よーい、どん。佐藤先生が手を叩くと、一瞬遅れて教室が再び騒々しくなり始める。 「先生、俺と一年二組の小鳥翔、ペアで!」  そのざわめきを割るように、早速横で山科が叫んだ。驚いて顔を向けると、彼は笑って、 「いいだろ?」 と首を傾けてくる。  よくないわけは、ない。  即座にそう思ったのが顔に出てしまったのか、山科は目を細めると「早く決まってよかった」と満足げに頷いた。  美化委員に、なってよかったのかもしれない。翔は長いまつげが上下に揺れるのを見つめながら、あの時グラウンドに彼の姿を見つけたのは運命だったのかと思い始める。「俺の顔、なんかついてる?」と確信的な笑みを浮かべられるまで、翔は山科の顔に再びずっと見惚れてしまっていた。

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