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【2】
一日の業務を終え、勤務地であるUプロテクトにほど近い2DKのマンションに戻った悠太郎は、シャワーを浴びてから一人での夕食を早々に済ませ、洗濯物を畳みながら壁に掛けられた時計を見上げた。
「もう十一時かぁ……。明日は早番だから、早めに寝ないと……だな」
学生時代から積極的に行っていた母親の手伝いのお陰で、家事全般は難なくこなせるようになっていた。男が一人で暮らす部屋など散らかっていて当たり前という先入観を払拭するかのようにきちんと片づけられた部屋は、几帳面で真面目な悠太郎の性格を見事に表していた。
食事を作るのも洗濯や掃除をすることも面倒な事ではない。でも、それが『誰かのため』だったら、もっと楽しくやりがいのあるものになるだろう。いつか大雅とのそういう生活が訪れることを夢見て、日々、努力しているのも悠太郎らしい。
翌日の弁当のおかずも用意出来ているし、業務で着るワイシャツもクリーニング済みだ。一通り確認し、やっと自分がベッドに入ることが出来る。
リビングの照明を消そうと、スイッチに手を伸ばした時、不意にドアホンのチャイムが鳴り響き、驚きで肩がビクリと震えた。酔っ払いのいたずらか……とも思ったが、チャイムは何度も鳴り続ける。ドアホンのモニターを覗き込み、小首を傾けた悠太郎はそこに映っていた人物に息を呑んだ。
「大雅? え……?」
『悠……開けてぇ』
応答ボタンを押しながら「今、開ける!」と驚きに震えたままの声で応えた。玄関に走り、ドアロックとチェーンを手早く外すと、今朝見た完璧ともいえるオシャレなスリーピース姿の大雅が悠太郎に凭れかかってきた。
手にしたブランド物のバッグを廊下に放り投げ、悠太郎の首に両腕を絡ませた大雅は、まだ湿り気の残る栗色の髪に顔を埋めた。
微かに残るムスクと彼の汗の匂いに混じって、嗅いだことのないフローラル系の香りが悠太郎の鼻腔をくすぐった。ゆっくりと視線をずらした先にあるワイシャツの襟元にはキラキラしたピンク色の口紅のようなものが付着している。
酒の匂いよりも鮮烈な印象を与える女性の存在。悠太郎の脳裏に北原の言葉が蘇り、ぐるぐると渦を巻く様に思考を混乱させる。
この部屋に来る前、女性と一緒にいたことは間違いない。でも、それを問いただすのは今の悠太郎の立場ではやってはいけないことだと言い聞かせた。
ただの幼馴染――そう、いつものように酔っぱらって自宅に帰るのが面倒になっただけ。
いろいろと聞きたいことが頭の中にテロップのように流れるが、それを何とか押し留めてやっと言葉を発することが出来た。
「――また、飲んできた?」
「ちょっと……飲み過ぎた。水、ちょうだいっ」
一八五センチで筋肉質のモデル体型。そんな彼を一七〇センチで細身の悠太郎が支えていられるのは、鍛えられた体と彼への想いの強さからだった。
靴を脱がせ、抱きついたまま離れない大雅を引き摺る様に廊下を進み、リビングへと到着すると振りほどく様にソファに座らせた。緩んだネクタイには、朝の緊張感は全く感じられない。
後ろに流している長い前髪も乱れ、幾筋も形のいい額に落ちている。ネクタイを解こうと指でノットをさらに緩めながら天井を仰いでいる大雅は気怠げな色気を漂わせていた。キッチンから水の入ったグラスを持ってきた悠太郎はその姿に動きを止め、しばし見入っていた。
小さい頃から目にしている姿なのに、まるで別人のように見えてしまうのは、大雅がいつも以上に酔っていたからだろう。
「――はい、お水。どんだけ飲んだんだよ……この酔っ払いが」
ため息交じりにグラスを差出し、それを長い指が受け取ると躊躇なく喉に流し込んだ。男らしい喉仏が上下に動くのを神々しいものでも見る様な目で見つめていた悠太郎は、飲み干したグラスを返されていることにも気づかなかった。
「悪いな……いつも」
「いつも以上だろ? 何があったんだよ……大雅がこんなに酔っぱらうなんて珍しい」
少し落ち着いたのか、着ていた上着を脱ぎ、ネクタイを引き抜いた彼は背凭れに体を預けると、天井を仰いだまま掠れた声で言った。
「――俺は酷い男だ」
「は?」
「ドSで傲岸で……カッコつけたがりの最低男だ!」
「その自覚はあるんだ……。でも、最低ではないと思うよ? そうじゃなきゃ、あんなに大勢の社員やスタッフは慕って来ない。大雅はすごくみんなに愛されてる社長なんだって思う」
みんなに愛されてる――間違ってない。
悠太郎は自分で言った言葉を何度も反芻する。自分一人が愛しているわけではない。大雅は企業のトップとして、信頼と愛情を持って社員と接している。大雅が愛すれば、その分社員たちに愛される。
そんな社長を独り占めすることなど不可能に近い。でも――悠太郎の恋心は「好きだ」と感じた時から間違いなく加速し、増幅している。
「――愛されてる? この俺が?」
「うん……。カッコいい社長だと俺は思ってる。幼馴染として自慢してもいい」
かなり酔っている大雅が明日、目覚めた時にどれだけの記憶が残っているか分からないが、悠太郎は自身が感じていることを素直に口にした。
そこには尊敬と羨望、そしてわずかな恋心を滲ませて……。
大雅が床に落とした上着とネクタイを拾い上げ、並んでソファに腰かけた悠太郎を胡乱な目でじっと見つめていた大雅だったが、次の瞬間、突然立ち上ったかと思うと床に両膝をつき頭を項垂れて声を上げた。
「悠……ごめんね。俺、あんなキツイこと言うつもりはなかったんだよぉ~! 不審者に絡まれたって聞いた時、心臓止まるかと思ったんだからなっ。ホントにケガとかなかったのか? なんで俺……お前を守れなかったんだろうって……。本当にごめん! 謝って許されるなら警備員いらねーよなぁ」
広い背中を震わせながら顔を上げた大雅は大粒の涙を流し、目を真っ赤にして泣いていた。
幼子のように涙を拭いながら「ごめん……ごめん……」と何度も謝り続ける彼には、対外的に見せる畏怖も迫力も余裕もなかった。
そこにあったのは、幼い頃から守ってきた相手を守れなかった自分の至らなさを責める男、泣きながら許しを乞う幼馴染の姿だった。
「な、何を謝ってんの? 不審者を止められなかったのは警備員としての俺の責任だし、大雅に注意されたことだって間違ってないし……」
「でもっ! お前、今にも泣きそうな顔してたじゃん!」
「泣かないよっ! 俺、もう二十五歳だよ? 雇主に注意されたことは真摯に受け止められるくらいには成長してるし」
大雅は震える指先をそっと伸ばし、悠太郎の頬に触れた。包み込むようにして親指で目元を優しくなぞりながら、大雅は鼻を啜りながら少しだけ笑みを浮かべた。
「――強くなったな」
「当たり前じゃん。強くなって、大雅を守るって約束しただろ? だから警備員になったんだから……」
「でも、絶対に無茶だけはするなよ。俺はそんなつもりでお前を雇ったわけじゃないからなっ」
「分かってるよ!――もう、母親みたいなこと言うなよ。それに、ダメなところはダメって言ってくれた方が、これから善処しようって前向きになれる。大雅の言葉にはホント感謝してる……」
頬が熱い……。冷たいはずの大雅の手から見えない熱が発せられ、悠太郎の頬に触れるたびに温度が上がっていく。
大きくて少し節のある男らしい手。その手で何度も守ってもらった。見るだけで愛おしくて涙が出そうになる。
それをグッと堪えて、悠太郎は足元に土下座する大雅を見つめた。
「――ホントに泣いてない?」
訝るように上目使いで見上げる大雅に、呆れたように大きなため息を一つ吐いて大きく首を縦に振った。
「泣くわけないだろ……」
「俺のこと……キライになった?」
「ならない」
「顔も見たくないって……」
「あーもう、ウザい! 酔っ払いはさっさと寝て! 俺のベッド貸してあげるからっ」
しつこく問い詰める大雅の言葉を遮る様に、悠太郎は彼の二の腕を掴み上げると、再び引き摺る様にして寝室へと向かった。
きちんとメイキングされたシーツの上に大雅を押し倒すと、乱れた黒髪が羽枕に広がった。
すぐそばにある端正な顔立ちから目が逸らせない。野性味を帯びたこげ茶色の瞳がまだ涙を湛えたまま潤み、何とも言えぬ色香を放っていた。
「悠……」
掠れた大雅の声に心臓がトクンと鳴った。
唇が触れ合うまであと数センチ……。でも、その距離は永遠に埋められない。
「――さっさと寝ろ! このダメ社長!」
「ごめん……。ダメ社長でごめん……。やっぱりダメだよなぁ、俺って……」
「違うって……。もう……っ、ダメじゃない社長に訂正!」
何かを振り切る様に顔を離した悠太郎はベッドから下りると、クローゼットの扉を開けて中に入っている大雅のスーツとワイシャツ、そして下着などを確認した。
打ち合わせや会議、接待や弾丸スケジュールの出張などで自宅マンションに戻るのが億劫になった時は必ずと言っていいほど大雅は悠太郎のマンションに泊まっていた。その頻度が高くなると、彼の着替えや翌日のスーツなどがいつの間にか運び込まれ、気が付けば悠太郎が使っているクローゼットの半分以上を占めていた。
確かに大雅の住む都心のタワーマンションに比べれば、ビジネス街に近い悠太郎のマンションの方が翌日の通勤には便利だ。時間さえ告げれば、お抱えの運転手が迎えに来てくれる。
もちろん、悠太郎が早番などで大雅よりも先に家を出る場合に備えて合鍵も彼に渡してある。
勝手知ったるなんとか……ではないが、幼い頃から一緒に慣れ親しんだ者同士だから出来ることなのかもしれない。
時に上手く利用されているなと思う時はあるが、悠太郎の恋心フィルターを通せばすべてが幸福時間へと変換される。大雅と一緒にいる時間は満たされ、そういう関係でなくとも幸せな気持ちになれた。
「――全部揃ってるから大丈夫っと。シャワー浴びるよね? タオルもバスルームに置いておくから……」
振り返った悠太郎は、言いかけた言葉を呑み込むように黙り込んだ。
毛布を抱き枕代わりに抱き寄せたまま寝息を立て始めた大雅の目尻から涙が一粒だけ流れた。
その涙の意味が何なのか悠太郎には分からなかったが、自分を心配し、守れなかった自分を責める彼の優しさに激しく心が揺さぶられた。
出逢った時からそうだった。大雅はどんな時も悠太郎のことを一番に考えてくれた。そして、誰よりも優しい言葉を掛けてくれる。でも、それが今の悠太郎にとって心を痛めている原因だとは、大雅は知る由もないだろうし、あえて言う事でもない。
「いつも、思わせぶりなことばっかり……。そうやって女の子にも接しているのかな……」
正直、自分が使っているベッドにどこの誰とも分からない女性の香水の匂いがつくことは嫌だった。
でも、普段会社では絶対に見せることのない大雅の穏やかな寝顔でチャラにされた気分だ。
企業の代表としての責任感は想像を絶するストレスであることは悠太郎も理解している。そんな彼が唯一、リラックス出来る場所を提供出来ることも、彼を守る手立ての一つだと思うようにしている。
百戦錬磨のヒーローも時に休息が必要だ。この世界中どこを探しても、こんなにかっこいいヒーローは存在しない。そんな彼が恋人として自分の隣で笑ってくれる日は来るのだろうか……。
もしかしたら、純白のドレスに身を包んだ綺麗な女性と並んでチャペルで鐘を鳴らすかもしれない。その時は、幼馴染として温かく見守ってあげよう――そう決めていた。
彼が生涯を共にすると誓う女性に嫉妬しないはずはない。間違いなく……絶対にする!
でも――嫉妬した醜い顔を見られるくらいなら黙って大雅の前から姿を消した方がいい。
それくらい悠太郎の大雅に対する想いは熱く、大きくなっていた。
「大雅……」
悠太郎は足音を忍ばせてベッドに近づくと、音を立てないように身を屈め、乱れた長い前髪を指先で払い除けた。利発そうな額に恐る恐る唇を寄せ、触れるか触れないかのキスをする。
「――今夜の宿泊代。たまにはいいよね?」
唇にジワリと広がる熱を抑えるかのように指先をギュッと押し当てた悠太郎は、小さな声で「おやすみ」と呟くと寝室をあとにした。
そして――。
リビングに戻るなり、迷うことなく部屋の消臭スプレーを手にした悠太郎は、何度もレバーを引いてあたりかまわず撒き散らした。
「香水クサいっ! クサい……クサい……クサい~!」
霧状の液体がふわりと広がり、ソファからラグ、そしてフローリングに至るまで爽やかな森林の香りに包まれ、
大雅が部屋に持ち込んだフローラルの香りが跡形もなく消されていく。
眉間に深い皺を寄せ、露骨に顔を歪める。
絶対に大雅には見せられない、嫉妬に狂った醜い悠太郎の顔がそこにあった。
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