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【6】

 翌朝、悠太郎は微睡の中で強烈な羞恥と、この上ない罪悪感に苛まれてうなされていた。  悪い夢――でも、大雅の優しげな声がすぐそばで聞こえていたような気がして、まんざらでもなく思う。  しかし、シーツの上で何気なく身じろいた時、下半身に感じたひんやりとした空気と、自身が握りしめている萎えた雄茎の存在に、バチッと音がするほどの勢いで目を覚ました。 「う……うわぁぁぁ!」  慌てて上体を起し、前屈みに自身の下半身を見つめる。  そこには見たくもない光景が――いや、夢だと思っていた悍ましい行為が、まるで時間が止まっていたかのように見事に現状保存されていた。  汚らわしいものでも振り払うかのように自身の雄芯から手を離した悠太郎は、表面が乾燥しカピカピになっている精液を纏った手をそっと鼻先に近づけた。  精子独特の青い匂いは健在で、曲げられた指の関節部分にはまだ生々しさを残す白濁がこびりついている。  そして、白い滴が飛び散った腹や下生えに掌を這わすと、まだベタベタしている。  膝まで下ろされた下着とスウェットパンツ。 (もしかして……?)  ゆっくり周囲を見回してみるが、悠太郎一人しかいないこの部屋に何者かが侵入し、レイプしたとは到底考えられない。起き抜けに突きつけられた現実を受け入れたくない悠太郎のささやかな現実逃避だった。  枕元に置かれたスマートフォンの通話はとうに終了し、黒い液晶画面がそこにあるだけだった。 「――オレ、最低だ……」  小坂のオナニーに誘発され、あろうことか大雅に電話で自身のオナニーを実況中継……とか。  これでは小坂がやった変態的な行為と変わらない。  悠太郎は頭を抱えたまま蹲り、しばらくその動きを止めた。  真夜中に悠太郎のエロい声を聞かされた大雅はどう思ったことだろう。いくら幼馴染とはいえ、ここまで自身のプライベートを晒すことは今までなかった。  いや、たとえ大雅をオカズに夜な夜な自慰をしていたとしても絶対に口には出さなかった。それが二人を繋ぎとめる唯一の要だったからだ。  大雅に悠太郎の想いを知られることは、もう幼馴染としての関係ではいられない。  昨夜、閉じた目の中で微笑む大雅を感じながら無我夢中で右手を動かしていた時のことを思い出す。 「俺……なんて言った? バカみたいに『好き』を連呼していたような気がする……」  ただの幼馴染から『好き』という恋愛感情に変わった時から、ずっと胸の内に仕舞い込んでいた想い。  それが小坂からの過剰な嫌がらせと、大雅と会えないストレスが重なり、それまで抑え込んでいた想いが一気に膨れ上がり、ついに暴発した。 「なんてことをしちゃったんだぁ。絶対に軽蔑されてる。絶対に嫌われた! もう……ホントに大雅に会えないじゃん!」  いくら寛大な大雅でも、夜中に悠太郎のイキ声を聞かされたら黙ってはいないだろう。  でも――。 薄らと残る記憶の断片をかき集め、悠太郎はゆっくりと顔を上げた。  あの時、大雅はなんと言っていた? どこまでも優しい声が耳に響いて、なぜか幸福感に満たされていた。  そう、まるで大罪を赦されたような解放感と慈悲のこもった温かさに触れた気がした。  大雅があの時、なんと言ったかは思い出せない。  思い出そうとすると、不思議と胸の奥がキューッと締め付けられるように切なくなる。  その切なさと幸福感がどう繋がって今に至っているのか分からなかったが、悠太郎はそれまで詰めていた息をゆっくりと吐き出すことが出来た。  気怠げに乱れた髪をかきあげながら壁に掛けられた時計を見上げる。  今日は定時出勤の通常勤務だったが、きっと家で一人でいる時間が長ければ長いほど自己嫌悪に陥って自分を責めることになると思い、早めに家を出ようと思い立った。 「――とりあえず、この状況をなんとかするか」  小さくため息をついて下肢を見下ろす。下生えから白濁を纏わりつかせたままの萎えた雄茎がだらしなく垂れ下がっている。それを膝まで下げられたままの下着とスウェットパンツを引き上げて視界から消すと、ベッドから下りて皺だらけのシーツを力任せに剥ぎ取って丸めた。  悠太郎の柔らかな栗色の髪にこびりついた白濁が目の前を何度かチラついたが、それを煩わしげに睨みつけながら浴室へと向かうべく寝室のドアを開けた。。  リビングのカーテンの隙間から差し込んだ太陽の細い光が悠太郎の足を照らす。  シーツを抱きかかえ、その光を蹴散らすように大股で歩く悠太郎の顔に不思議と憂いは感じられなかった。  *****  ダークグリーンを基調とした制服に着替え、Uプロテクト内にある警備所の自分のデスクに座った悠太郎だったが、大雅がいる同じ社内にいると思うだけでなぜか体が震えた。  昨日まできっちりと書き込まれた業務日報のページをめくり、今日の業務予定とタイムスケジュールの確認をするのだが、まったく頭に入って来ない。  ボールペンを持つ指先が震え、字も書くこともままならない。  自宅では、一旦はあの状況から立ち直り、大雅に対しても腹を括るしかないと思ったのは気のせいだったのか。はたまた悠太郎の虚勢だったのか……。  警備所のカウンター越しに、ロビーを行き来するスーツ姿が視界に入るたびにビクッと肩を震わせる。  その時、スチール製のドアが開き北原が大きな体を揺らして入ってきた。 「ひぃぃぃ!」  喉の奥から思わず漏れてしまった悲鳴に驚いたのは北原の方だった。 「悠ちゃん、朝からどうしちゃったの? そんなに私の顔酷かった? そりゃあ、夕べちょっと飲み過ぎたかなって思ってたけど……。悲鳴あげるほど浮腫んでる?」  北原はカウンターの脇に掛けられた鏡を覗き込みながら、自身の頬をしきりに撫でている。元来、顔の大きい北原が深酒で浮腫んだところで驚くことは何もない。常に間近で彼を見ている悠太郎にしてみれば、ごくごく日常の風景だ。 「あ……すみません。違うんですっ!」  慌ててフォローした悠太郎を怪訝そうな顔で振り返った北原は、数回瞬きして首を傾けた。 「違うって……いきなり悲鳴あげるって穏やかじゃないわよ。最近の悠ちゃん、ちょっと変よ? 何かあった?」 「ちょっと……驚いただけなんです。本当にすみません……」 「悠ちゃんって何事にも真面目だから、何でも真に受けちゃうところあるでしょ? 私はそれを心配してるの……。何か困ったことがあったら言って! 私と悠ちゃんの仲じゃないっ」  悠太郎のデスクの前で長身を屈めて覗き込んだ北原に、申し訳なさそうに首をすくめ「すみません……」と上目づかいで謝った悠太郎は机上に転がったボールペンを握りしめた。  北原は悠太郎にとって何でも相談に乗ってくれる頼れる上司だ。このままでは業務にまで悪い影響を及ぼしかねない状況を打破するためには、世間話と銘打って何気なく相談した方が気が楽になれるかもしれないと思った。  コワモテのオネエで話好きではあるが北原は口が堅い。それに、悠太郎の事であれば親身になって相談に乗ってくれるはずだ。  悠太郎は、イマイチ納得がいかないという顔で自分のデスクに座った北原を見据え、握っていたボールペンに力を込めた。 「――あ、あのっ! 北原さんっ」  意を決して北原の名を呼んだ瞬間、警備所のドアが再び開き、スタイリッシュなダークグレーのスリーピースに身を包んだ大雅が顔を覗かせた。 「ひ……ひぃぃぃ!」  その姿を見た瞬間、悠太郎は顔を引き攣らせて立ち上がり、派手に椅子倒しながらデスクから飛び退いた。――が、大雅はそんな悠太郎に目を向けることはなかった。 そう――まるで誰も存在していないかのように。 優雅な足運びで警備所に入ってきた大雅は、少し意外だというような顔で見上げた北原に視線を向けると、形のいい薄い唇に弧を描きながら微笑んだ。 「――北原くん。ちょっとこれから社内の警備体制についての打ち合わせをしたいんだが、時間ある?」 「あ~ら、久保園社長が直々にここに来るなんてどうしちゃったの? 何か問題でもあった?」 「そういうわけじゃないんだが……。先日の不審者のこともあって、もう一度警備体制を見直そうかと考えている。その相談に乗って欲しい。人員の増減に関しては警備主任である君の判断に任せる」  北原は顎に人差し指を押し当てて、少し考えるような素振りを見せてからゆっくりと椅子から立ち上った。 「――そうね。ここでちょっと見直しは必要かもね。ホント、社長ってばそういうところもちゃんと考えられる人だから、こっちも安心できちゃうのよねぇ~。どっちが警備してるか分かんないじゃない……」 「俺は会社を動かすことしか出来ない。だから、社員を守ってもらうために君に頼るしかない。信頼しているからこそ、こうして話が出来る」  決して広いとは言えない警備所内に、良く通る低音が響く。  それは今の悠太郎にとって嬉しくもあり切なくもある声だった。  この声が自らを高みに導き絶頂を促した。その証拠に、悠太郎の身体は大雅が話すたびに甘く疼き、下肢に熱が集まっていく。  二人が会話している間、デスクの下では股間をギュッと掌で押えこんだまま唇を噛んでいる悠太郎の姿があった。  節操なしに力を蓄え頭を擡げてくる愚息を何とか静めようとするが、大雅の声に魔力でもあるのではないかと思うほど自制がきかない。  プルプルと小刻みに震え出す内腿をギュッと閉じ、ヒク付く臀部の筋肉を引き締める。  たった一度だけの過ち――と言うにはオーバーかもしれないが、大雅が悠太郎の体に与える影響力の凄さに恐怖さえ感じていた。  しかし、大雅は依然として悠太郎の方を見ようとしなかった。彼の目には北原しか映っていない。  そのことに気付いた時、股間を押えこんでいた悠太郎の手からふっと力が抜けた。 (完全無視……)  昨夜のことに腹を立て、幼馴染とさえ思いたくないと軽蔑しているか……。  いつもと変わらない様子で北原と話をする大雅の横顔を見つめながら、悠太郎は溢れそうになっている涙を必死に堪えた。  それまで節操なく昂ぶる性欲を抑えるために噛んでいた唇。それが、もっと悲しく辛いものへと変わっていく。 「――社長室でゆっくり話そう。北原くんの意見を聞きたい」  期待を込めた目で北原を見る大雅はそう言うと、足早に警備所を出て行った。  大雅からの申し出が相当嬉しかったのか、北原も勢いをつけて椅子から立ち上がると帽子を少し目深に被り、鏡を覗き込んで「おっけ~」と声を弾ませている。  二人の会話に入れないどころか、完全に蚊帳の外に置かれた悠太郎は居たたまれない気持ちで視線を落とした。 「悠ちゃん、ちょっと打合せしてくるから。よろしくね!」  北原の浮かれた声に小さく「はい」と答えた悠太郎だったが、今の彼には戦闘力も防御力も備わってはいなかった。大雅が与えた精神的な一撃は、悠太郎にかなりのダメージを負わせていたからだ。 「あら~、元気ないわね? もしかして……久保園社長とのこと妬いてるの?」 「違います……」 「悠ちゃん、社長のこと気になってるもんね~。大丈夫よ! 私、こう見えてもダーリンしか食べないことにしてるの。いくらイケメンでも拾い食いはしないから。うふふ……」 「当たり前だ!」と出そうになった言葉をグッと呑み込み、悠太郎は浮き足立っている北原をちらっと睨みつけた。  北原への嫉妬心はない。だが今は、大雅の本心が知りたかった。  悪い夢であって欲しかった。でも、実際に起きてしまったことは変えられない。 「――じゃあ、よろしくね!」  スキップでもしていきそうな軽やかな足どりで警備所を出て行く北原を見送って、悠太郎は机にうつ伏せた。 「マジ……泣きそう」  薄っすらと目尻に滲んだ涙を指先で乱暴に擦りながら、ぼそりと呟く。  小坂に誘導されるまま一方的に離れることを告げ、仕舞いには大雅の視界に入ることも許されなくなった。 『大雅を守る』という悠太郎の信念がまったく無意味なものへと変わっていく。  離れること――すなわち、守ることも守られることもないことを意味する。  それは心も一緒だ。安らぎや信頼、そして誰もよりも愛しいと思う気持ちも離れてしまえば次第に薄れ、消えていく。  長い間に培われた大雅への想いはそう簡単に拭い去ることは出来ない。  身から出た錆……まさに悠太郎にとって昨夜の出来事は破滅を招いたことになる。  事務所内に漂っていた大雅の香水の残り香が薄れていくと共に、昂ぶっていた体がだんだんと冷えていく。  青ざめた顔でぼんやりと壁の一点を見つめていた時だった。 「――っうわ!」  ポケットの中に入れてあるスマートフォンの振動に驚き、変な声が漏れた。  起きてから今まで見ることのなかった液晶画面には小坂からのメール着信を知らせる通知が表示された。  自身のオナニーの件で頭がいっぱいだった悠太郎だったが、そもそもその原因を作ったのは小坂だと今頃になって気づく。  表示された名前に無性に苛立ちを感じ、乱暴に画面をタップすると数枚の画像が添付されていた。  もしかしたら昨夜の腹いせに小坂の性器の写真でも送られてきているのでは……と嫌な予感が頭をよぎる。しかし、タップした指先の下で展開された画像はその何倍もの破壊力があった。 「たい……が?」  そこにはスーツの襟元を直しながら自宅マンションの駐車場で送迎用の車に乗り込もうとしている大雅の姿があった。ダークグレーのスーツは今しがた目にしたものと同じだ。  画面をスクロールし、次々と添付されている画像を捲っていく。そこにもカメラの存在に全く気付いていないかのような自然体で写る大雅がいた。  地下の駐車場で運転手に話しかける姿や、気怠げに髪をかきあげる仕草、そして車内で物憂げに何かを考え込む様子まで撮られている。これらは間違いなく盗撮だ。 「これって……なに?」  そう言えば毎朝決まった時間に来る小坂からのメールが今日に限ってなかった。自分のことでいっぱいになっていた悠太郎はそのことに気付かずにいた。  昨夜、小坂からの電話を途中で終わらせ、短い時間ではあったが電源を落とした。悠太郎の声をオカズに自慰の最中だった小坂にしてみれば腹立たしい行為に違いない。  送られてきた大雅の画像が意味するもの――それが小坂の報復なのか。  動揺を隠しきれず視線を彷徨わせていた悠太郎が手にしたスマートフォンが今度は着信を告げた。  発信者は小坂。ゴクリと唾を呑み込んで受信ボタンを押すと、ゆっくりと耳に押し当てた。 「もしもし……」  警備所には悠太郎一人しかいない。それでも自然と小声になってしまうのは、後ろめたい気持ちがあるからだろう。 『おはよう、悠ちゃん。写真、見てくれた?』  ザラリとした掠れ声が悠太郎の背筋をゾクゾクさせる。 「――どういうことですか?」 『夕べ……せっかく悠ちゃんの声でイキそうだったのに、電源切るとか。おかげで不完全燃焼。今日の俺、ちょっとイラついてる。だからぁ、悠ちゃんの好きな人、襲っちゃおうかなって……』 「バカなことしないでください! 彼は関係ないって言ったじゃないですか!」  思わず張り上げた声に悠太郎は視線をドアへと向ける。幸い外には聞こえてはいないが、いつ誰が入って来るとも分からない。しかも話の内容が内容だけに、他の人に知られるわけにはいかない。 『自業自得ってヤツじゃない? 俺をバカにした自分を責めなよ。――この男がいるから悠ちゃんは振り向いてくれないんだろ? 今どきのイケメン……悠ちゃんって可愛い顔してメンクイなんだね』 「違うっ! 関係ない!」 『関係ないなら犯してもいいよね? 俺……ああいうタイプも好きなんだ。ドSで傲岸、プライド高い男の顔がだんだん快楽に歪んで、最後には「もっともっと……」って雌イキしながら強請るようになる……。ねぇ、悠ちゃんも見たくない? 目の前で犯してあげようか……ククッ』 「やめろ! あの人に手を出したら許さないっ」  小坂の下卑た笑いを遮る様に声を荒らげた悠太郎は、スマートフォンを持つ手にギュッと力を込めた。  自分だけならまだしも、関係のない大雅をこれ以上巻きこむわけにはいかない。 『――じゃあ、ヤらせてくれる?』  急に声のトーンが変わった小坂に緊張感が走る。背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、悠太郎は唾を呑み込んだ。 『今、警備所に一人でしょ? これからしようか……気持ちイイこと』  視線だけを動かし、外部に面した窓を盗み見る。そこに人影のようなものは確認することは出来ないが、小坂は今の悠太郎の状況を把握している。 「――イヤだって言ったら?」 『クスッ。悠ちゃんの代わりに彼を犯すよ……。何度も中に出して、俺の子供を孕ませてあげる』 「どこまで最低な男なんだ……」 『怒った悠ちゃんの顔、見たいなぁ……。ねぇ、あの男がそんなに大事? 別れろって言ったのに、まだ未練あるの?』  ないと言ったら嘘になる。そもそも、きちんと大雅と決別したわけではないから未練というものはまだ存在していない。  それでも大雅の身に何かあれば、小坂の指示に従わなかった自分が悪かったということになる。  喧嘩も強く、何事にも恐れない大雅が小坂に犯されることなどない。だが、小坂のことだ。どんな卑劣な手段を使うかも分からない。  電話の声を聞く限りでは、ブレや恐れはまったく感じられない。おそらく、やると決めたら徹底的にやらないと気が済まないタイプなのだろう。それ故の執着心は並々ならぬものがある。 『――地下B2駐車場。A通路エレベーターホールで待ってる』  そうとだけ告げて通話を終了させた小坂の笑い声が、悠太郎の耳の奥に残って気持ちが悪い。  駐車場を管理している警備担当に「不審者はいないか?」と問い合わせようとしたが、これ以上小坂を刺激するのは良くないと自身に言い聞かせる。 それに、もしタイミング悪く自身が犯されているところを目撃されたら、その方がショックが大きい。  小坂が指定してきたのは、社内でセミナーなどが行われる際参加者に臨時開放する駐車場で、従業員やスタッフも利用しない静かな場所だ。そのエレベーターも清掃業者や警備担当が使用するが頻度は極めて少ない。  悠太郎は、小坂が意外にもこのビル内の事情に精通していることに驚き戦慄した。  今日はセミナーもなく、地下駐車場の警備員は一人で十分対応できる。一日三交代制で、出勤の入場案内を終えたこの時間はおそらく入口のゲート脇に設置された管理所に詰めている頃だ。  北原に相談すべきか――。  悠太郎はしばらく動きを止めて考えた。もし危険を伴う事案が起こった場合、警備員の単独行動は禁止されている。それは身の安全を守ると共に、不測の事態に備えて警察などへの緊急通報が出来る体制でなければならないからだ。  それは警備員になってからも耳にタコが出来るほど指導される基本中の基本だ。しかし、今はそれを無視しなければならない事態に追い込まれていた。私的なストーキング案件で一企業であるUプロテクトから委託された警備員を動かすわけにはいかない。  自分が犯されて済めば大雅への危害は防げる。しかし、男性との行為の経験がない悠太郎の心は激しく揺れていた。  初めては大好きな大雅に捧げたい……。今どきの女子高校生でも口にしないような初心な思いを捨て去ることが出来ない。しかも、その相手がわけのわからないストーカーであれば尚更だ。  時計の針は確実に進んでいく。腕時計に視線を落とし、悠太郎はデスクの端に置かれていた帽子を目深に被ると、思い立ったように立ち上がった。  自己犠牲――こうすることで大雅を守ることが出来る。信念のままに動くこと、今はそれしかない。  自身はどうなっても構わない。ただ――今度こそ本当に、彼と離れなければいけないかもしれない。  それでも……。  悠太郎の身体は自然と動き出していた。護身用の警戒棒を確認し、帽子のつばを軽く摘まんでわずかに俯いた。 「――ごめん。大雅」  小さく低い声で呟いた悠太郎は、自身でも驚くほど落ち着いた足取りで警備所をあとにした。

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