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兄弟ごっこ

単なる思い付きだった。 気の迷いとも言う。 自分には一生、縁のない代物。 だから、魔が差した。 * 藤原浩一がその日、駅近くのメンズセレクトショップにふらりと立ち寄ったのは、兄への誕生日プレゼントを探すためだった。 一月先なので、まだ日はある。何かピンとくるものがあればと、それくらいの気持ちだった。 暦の上ではもう春も終わる頃だが、夕方近くなればまだ肌寒い。店内の暖かい空気にホッとする。 無難にネクタイやカフスボタン辺りから見てみようか、と店内を見回した所で、浩一の目はふと、ひとつの棚に吸い寄せられた。 セールの札と共に置いてあったのは、斜めに艶消しのラインが入ったシンプルな細目のシルバーリング。 プレゼントには相応しくないそれに、何故か心惹かれた。 (別に、自分の買い物をしたって構わないわけだし) 誰にともなく言い訳をし、プレゼント探しを後回しにしてその棚に近付いた。 フリーサイズのリングを手に取って、中指に嵌めてみる。 (まぁ、こんなもんか……。) 遠目には良さそうに見えたリングは、近くで見ると値段相応に、材質の安さや磨きの甘さが目立った。20代も後半の男が付けられる物ではない。 華奢なデザインは、関節の太いゴツゴツした自分の指にはおさまりが悪かった。 それでも何故か諦めきれずに未練がましくリングを手の中で弄んだ末、ふと、薬指を通してみた。心の奥底を探ってみれば、もしかしたら初めからそのつもりだったのかもしれない。 中指よりも細いその指に、シンプルな銀のリングはピタリと合ったように見えた。どっと汗が吹き出たような感覚がした。 (誰も俺のことなんて、気にしてない) 分かってはいたけれど、動揺する気持ちを抑えられず、慌ててリングを抜き取った。 手の平にまで、汗を掻いている。 周りを見回して、誰にも動揺が知られていないことを確認し、息をひとつ吐いて気を落ち着けた浩一は──リングを持ってレジに向かっていた。 * 兄の伊月と浩一が二人で住む家は、ファミリー用の広い一戸建てだ。両親は、浩一が高校2年の春、交通事故で一緒にあの世に行ってしまった。 どちらの親も親戚の縁は薄く、5つ上の兄が浩一のただ一人の家族だ。 「ただいま」と口の中だけで呟いて、靴を脱いだ。最終決算のこの時期、伊月の帰りは遅い。 伊月が大学院進学を止めて地方公務員になったのは、きっと浩一のためだった。この家に一人きりにしないため。 でももしかしたら、いきなり両親を失った兄自身も淋しさを抱え、たった一人の家族から離れがたかったのかもしれない──そうであってくれれば、と願う。もし自分の存在が伊月にとって足枷でしかないとすれば、辛過ぎる。 夕飯は早く帰った方が用意するルールだから、このところ浩一が作る日が続いている。 兄と違って机上の勉強にさして興味の持てなかった浩一は、高卒で大手食品会社の現地工場に就職した。給料はあまり期待できず朝が早いが、時間外勤務は少ない。 今夜は麻婆茄子にスクランブルエッグの相盛り丼の予定にしている。ほうれん草のお浸しを添えれば、栄養的にもそう悪くはないだろう。 茄子を斜めに薄切りにし終えて目を上げたところで、スマホの通知ランプが点滅しているのに気付いた。伊月からだ。 今夜も遅くなるというメッセージに、少しだけ溜め息をついた。 伊月の分にはラップをかけ、出来上がった丼を一人で食べて風呂も済ませる。 7時半頃に家を出て、日付が変わる寸前に帰ってきている伊月と、30分の電車通勤のために6時半に家を出て18時前には帰ってくる浩一は、この時期、平日はすれ違い生活だ。 けれど今夜は伊月を待っていたかった。明日は休みの土曜日だから夜更かししても構わない。リビングのソファに座り、眠気を感じながらぼんやりとテレビを眺める。 ──いつまで伊月と一緒にいられるのだろう。 こんな夜には考えても仕方のない問いが、頭をグルグル回る。 浩一もすっかり一人立ちした今、伊月がいつ自分の家族を持ってもおかしくないのだ。伊月の隣に並ぶ華奢な影を思い描いて、無意識にうめき声が漏れた。 おもむろにスウェットのポケットに手を突っ込み、冷やりと丸い金属の環を、指先で弄んだ。 ゴクリと唾を飲んで、それを取り出す。 まだ帰っては来ないと分かっていながら、玄関の方を見て、誰の気配もないことを確認した。 早くなる鼓動を意識しつつ、左手の薬指にシルバーリングを嵌める。 急いで外して、そしてまた着けて、天井のライトに掌を透かしてみる。 逆光で目が眩めば、母の着けていた指輪に似て見えなくもなかった。 (俺には、多分一生、縁がない……。) 浩一は細く息を吐いて指輪から目を逸らすと、グッタリと脱力し、ソファに体を預けた。 * 「コウ、起きろ。こんなとこで寝るな。風邪を引くぞ」 肩を揺さぶられて、はっと目を開けた。 伊月を待つ内にソファでうたた寝をしていたらしい。 「んあ……あぁ、お帰り。今、何時?」 体を起こしながらしぱしぱする目を擦ると、伊月が息を呑む気配がした。 「……兄貴?」 返事がないことに首を傾げつつ、伊月の顔を見上げた。 帰ってきたばかりのようで、濃青色のスプリングコートを羽織ったままだ。やや細身でカッチリ目のデザインが、男らしく硬質な容貌の伊月に似合っている。 疲労の滲む顔は、少し青ざめて見えた。 「コウ……。その指輪…」 「え?」 兄の視線の先を辿り、自分の左手を見た途端、浩一は恥ずかしさにカッと顔が熱くなるのを感じた。 「こ、これは……っ」 外し忘れていたリングを、慌てて右手で覆い隠す。 「大事な人が、できたのか」 小さく言った伊月の声は、掠れていた。 「ちが……っ」 即座に否定しかけたが、『大事な人』という単語に、ふと言葉が途中で詰まった。 大事な人……それなら、もうずっと前からいる。絶対に、口にはできないけれど。 「……悪い、今日は疲れているんだ。何か話があるなら明日聞くから」 「あ、ごめ……」 唐突に言った伊月が、浩一の返事も待たずに踵を返した。 足早に自室へ向かうのを見送ってから、テーブルの上の丼を冷蔵庫に仕舞おうと立ち上がる。さすがにこんな遅い時間に食べはしないだろう。明日、レンジで温めて自分の昼食にしよう。 ちゃちな指輪は、慌てて強く引っ張ったせいで、グニャリと歪んでしまった。 ***** 翌日の朝は、鬱々とした気分も吹き飛びそうな快晴だった。 目玉焼きを作るのに卵を取り出そうと冷蔵庫を開けた浩一は、少し目を丸くした。丼が無くなっている。伊月がシャワーに入っている間に寝てしまったから、気付かなかった。あの時間から、あの量を食べたのか。胃もたれしなかっただろうか。 しかし作った方としては、食べて貰えたことが純粋に嬉しくなる。 寝る前に落ち込んでいたのが嘘のように明るい気分になり、バターを軽く塗ってトーストした食パンに目玉焼きを載せる。 まさにかじりつこうとしたところで、階段を降りてくる足音がして、浩一はまた少し驚いた。 「おはよう。兄貴、今日は随分早いね」 「あぁ、おはよう……」 「すげぇ眠そうだけど、二度寝しなかったんだ」 「……どうせ気になって眠れない」 「え?」 「……何でもない」 朝に弱い伊月は、土曜日には昼近くまで寝ていることが多いのに、今はまだ8時前だ。 「コーヒー、飲む?」 「サンキュ……」 コーヒーはペーパードリップで一杯ずつ淹れているから、取り合えず自分用に淹れていたのを渡してやる。自分が飲む分は、また後で淹れればいい。 マグカップを受け取ってダイニングテーブルの定位置に座った伊月は、コーヒーを一口飲んでふっと息を吐いた。 「コウ、」 何かを決意したかのように、姿勢を正して浩一を見詰めた伊月は、しかしそこで眉をひそめて言葉を止めた。 「何、どうかした?」 怪訝に思いつつ、トーストをかじる。 「コウ……、指輪はどうした」 「ふぁっ?」 「俺の見間違いか……?いや、昨日は確かにしていたはずだ。左手の薬指に、シルバーの指輪」 「っうぐ」 「おい、大丈夫か?」 慌てて喋ろうとしてパンを喉につっかえさせ、目を白黒しながら胸を叩く浩一に、伊月が飲み掛けのコーヒーを差し出してくる。 こんな時でも頭の中で(間接キス……)とか思ってしまう自分を心底抹殺したい。 「あ……っ、うっく、ああ、あれね。ハハッ、ちょっと、他の指に合わなくて何となく嵌めてみただけだからっ」 「だが、あれはお前の趣味ではないだろう。……彼女に貰ったのか?」 いつの間にかマグカップはまた伊月の手に取り戻されていて、伊月の喉がコクリとコーヒーを飲み下す。 「ち、違ぇよ。今、彼女いねぇし!たまには違う感じもいいかなって、買ってみたんだよ。けど、やっぱ俺にはああいうの似合わねぇな」 「何だと?俺はてっきり……」 タンッとマグカップを机に置いた伊月が、ハーッと大きく溜め息をついた。 「てっきり『結婚を考えてる人がいるから会って欲しい』とか、そういうことを言われるのだと思っていたんだが……」 「ええっ?」 「お前、普段はあんな遅い時間まで俺を待ったりしないだろう。余程、何か話したいことがあるのかと思えば、左手の薬指に見慣れない細目のシルバーリングだ。婚約指輪かと……」 「ちち、違う!」 ブンブンと手と首を一緒に振ると、伊月がふっと微笑んだ。それが何だか、浩一の結婚話が勘違いと知って喜んでいるように見えて、ドキッとする。 「……んだよ。俺に先越されなかったからって、喜ぶなよな」 茶化して言うと、伊月の微笑みが苦笑に変わった。分かっている。笑った理由は、浩一があわてふためく様子が可笑しかったとか、そんなところだろう。 「あぁ……そうだな、俺は最低の兄貴だ」 「え?」 伊月の低い声は、ちょうど鳴った時計の時報でよく聞こえなかった。窓から射し込む朝の光に目が眩んだのか、伊月の顔が切なげに歪んだように見えた。 「兄貴……?」 「いや、何でもない。……なら、昨日遅くまで待っていたのは何でだ」 「それは……、兄貴、昨日が何の日か、覚えてない?」 「昨日……?」 日付を何度か呟いて、伊月は『まさか』という顔をした。 「親父と母さんの結婚記念日だったことくらいしか、思い付かないが」 「うん……。つまり、俺と伊月が兄弟になった日だ」 再婚の連れ子同士。二人は伊月が中1、浩一が小2の時、兄弟になった。血の繋がりのない不安定な絆に、時おり、胸を掻きむしりたくなるほどの焦りに襲われる。 ずっと自分と共にいてくれるなど、大それた望みは持っていない。けれど、伊月が自分の家族を持った時、それでも兄弟でいさせて貰えるのか、と。 「だから、別にどうってことないけど……『お帰り』って、顔見て言いたかったんだ、それだけ……。」 「それで、麻婆茄子か……。」 「え、覚えてたの?」 「あぁ。あの日の昼飯、親父が唯一の得意料理だと麻婆茄子を作ったら、コウが辛(から)いと半泣きになって。そしたら親父も一緒に半泣きになってな」 クスクスと笑う伊月に続ける。 「そう。それで、兄貴がささっとスクランブルエッグ作ってくれてさ。混ぜたら俺でも食べられたんだよな。……優しくてカッコいいお兄ちゃんができたんだって、すごく嬉しかった……。」 「コウ……」 あの時の純粋な気持ちのままでいられれば、どんなに良かったか。 この日々がいつまでも続かないのは分かっている。もしかしたら、もうカウントダウンは始まっているのかもしれない。 それでも、後もう少しだけ……。 「……っ、もう少しだけ」 心の声を漏らしてしまったかと、浩一は心底ビクッとした。 目蓋を軽く擦って、伊月が呟く。 「もう少しだけ、コーヒーが必要なようだ。……コウの分も淹れてこよう」 マグカップを持って席を立った伊月の背を、目線だけで追う。 思わず目を細めたのは、泣きそうだったからじゃなくて日の光が目に入ったからだ。 ──もう少し、あと少しだけ続けさせてほしい。この…… ((『兄弟ごっこ』を……。))

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