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introduction

絶対に忘れたくなかった。 何もかもを。 その手の温もりだとか、手を繋いだ時の安心感だとか、蕩けるほどに強く甘い、それでいて華やかな香りだとか。 強い独占欲だとか。 最後に瑠輝(るき)が感じたのは、紅匂う薔薇の香り。 深い深い眠りから醒めても、この香りと共にこの想いだけはずっと忘れないようにと。十二歳の瑠輝はそっと決意して目を閉じたのだった。 だが、“瑠輝”として目を開けた日。 瑠輝はその全てを忘れていた。今までの強い決意や想い、細部に渡るまでの記憶、全てを。 否、それどころか、そもそも自身が一体何処の誰で、それまで何者であったのか。それすらも思い出せないほど、記憶が(さら)になっていた。 普通であれば、貴方には姓がなく、ただの“瑠輝”で“男性オメガ”だと一方的に伝えられたら不可解に眉を顰めるだろう。 しかし、瑠輝は違った。すんなりと受け入れてしまう程に、記憶や常識、教養等全てがオールリセットされていたからだ。 ただ唯一、瑠輝は胸の奥がツンと痛むような何とも言えない苦しい気持ちと、微かに鼻腔へ残る薔薇の香りだけは、言い難い感覚として胸の奥の、ずっと奥のところへ記憶されていた。 それ以後、何の因果関係かは分からないが薔薇の香りを嗅ぐ度にツンとした胸の痛みを伴うようになってきている。 一切の記憶をなくした瑠輝にとって、この痛みこそが過去の自身を探る手掛かりで、唯一の真実なのだと。そう気が付いたのは、記憶をなくしてから比較的早い段階。 当然、なくした記憶のピースを埋める為、周囲の大人に自身のことを何度も繰り返し訊ね回った。 だがしかし不思議なもので、誰のどの発言も何一つとして確かなことを言っているとは思えなかった。完全に、勘というやつだったが。 もうじき、記憶をなくしてから丸六年。 六月で十八歳になろうとしていた瑠輝は、未だに記憶のピースを一つも取り戻せずにいた。 五年前、瑠輝が目を醒ました場所は国家が管理している未成年のオメガ専用の保護施設(シェルター)であったのも関係しているのかもしれない。ここで働いている大人たちは皆、国で雇われているベータやオメガばかりで、それぞれに守秘義務があると知ったのは、十六歳でシェルターの外にある高校へ通うことを許可されてからだ。 同時に、瑠輝が暮らすこのシェルターに連れて来られた十八歳以下のオメガたちは、全員何らかの理由で家族に捨てられた、もしくは引き離された、あるいは天涯孤独の身で保護された者たちであることも知ってしまった。 つまり、そこに暮らすオメガたちは誰にも必要とされないオメガばかりなのだと。 瑠輝は絶望した。 全ての記憶をなくしたのは、このせいだったのかもしれないと。オメガとして生まれてきたが故に、必要とされなかったのだと。その事実に気が付いてしまった時、瑠輝は初めて生まれてきたことを酷く呪い、男だというのに生殖機能が備わっているオメガ性の自身に強い嫌悪感を抱き始めていたのだった。

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