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『夜の魔法使い』

 仕事帰りの道中に新しく出来たバー。黒い看板にオレンジの文字で店の名前が書いてある、シンプルだが洗練された雰囲気の店だ。  ひとりで入るには少し勇気がいるが、こういう洒落た店を行きつけにするのも悪く無い。むしろ、そういう男に憧れている。俺は試しに少しだけ寄ってみることにした。  ひとりでこんな店に入るのは初めてだったから、地下にある店の入り口を開くときも、カウンターでカクテルを注文する時も、終始ドキドキしっぱなしだった。  そんな冒険気分を味わっている最中、俺はどこからか視線を感じ、あたりを見渡した。薄暗い店内でそう簡単に見つかるだろうか、と思った矢先。  ――……いた。  案外簡単に見つかった。一番端の席で飲んでいる黒シャツの男が、こちらをじっと見ている。口元には何故かゆるい微笑みが浮かんでいた。  彼の特徴的な黒目がちな眼は、視線の先にいる俺のことをすべて見透かしているようだった。俺はその目に見つめられているとどうにも居心地が悪く、落ち着かなくなった。  気を紛らわせようと煙草を取り出すが、今度はポケットに入っているはずのライターが見つからず、さらに焦る。  反対のポケットや後ろのポケットも探ってみるが見つからない。そんな時、不意に背後から軽薄な声が聞こえた。 「オニーサン」  呼ばれているのは俺だった。声のする方へ恐る恐る振り返る。  ……どうして人間というのは、こういう時の勘だけは鋭くなるのだろう。 「火が要るなら、これどうぞ」 「うわあっ!!」 「そんなに驚かないでくださいよ。親切にしてるだけなのに。ホラ」  瞬間移動でもしてきたのか、目の前にはあの黒シャツがいた。差し出されたライターを無意識に受け取ると、空いていた隣の席へ黒シャツが勝手に腰掛ける。 「えっ」 「どうぞ?」 「あ、あなたは……?」 「ぼくは煙草吸わないんで」  謎だ。謎すぎる。煙草を吸わないのにどうしてライターなんか持ってるんだろう。  っていうか、なんで隣に座ってるんだろう。そして今更だが、この男、金髪だ。ピアスもいっぱいしてる。それになんだか甘い香水の匂いがぷんぷんする。偏見かもしれないが、俺みたいな平凡で地味なサラリーマンとは対照的で、相容れぬ存在だ。  こんなチャラ男とオトモダチになるつもりは全然ないんだが……。 「――時計」 「はいっ!?」  悶々としていると、チャラ男はくすくす笑いながら俺の左腕を指さした。 「だから、時計。いいのしてますね。かっこいい」 「あ、ああ……これ、初めてのボーナスで買ったんです。……昔の話ですけど」 「ずっと会社勤め?」 「ええ、まあ」  友達になるつもりはない――けれど、どこか人懐っこい男に流されて、気づいたら自分の話をペラペラと話してしまっていた。ここのバーテンダーが出してくれる、美味いカクテルのせいかもしれない。  酔いも回ってきて、そろそろ帰ろうかと立ち上がったその瞬間、男が俺を見上げて「もう帰っちゃうんですか」と尋ねてきた。尋ねる――いや、違う。これは引き留めようとしている。 「明日も仕事なんだ。あまり遅くまではいられないよ」 「……どうしても?」  男の手が俺の左手首を掴む。弱々しく、掴むというより触れると言った方が正しいかもしれない。 「この店にはまた来るから」 「じゃあ、名刺お渡ししておきます」  男が俺の胸元を指差す。気がつくと、胸ポケットに黒い小さな名刺が差し込んであった。いつの間に? 不思議に思う暇もなく、今度は俺が持っていたはずの彼のライターが手元から消えていた。 「ああ、これは返してもらいますよ。商売道具なんで」 「あ、ああ。ありがとう。助かったよ」  なるほど、ライターは仕事で使うものだったのか。それなら煙草を吸わない彼が持っていてもおかしくはない。しかし、ライターを使う仕事とは一体なんだろう?  会計を済ませ、彼は少しばかり足元がふらつく俺を支えながら出入り口まで送ってくれた。 「今夜は楽しかったよ。じゃあ、また」 「ええ、今度会えるのを楽しみにしてますね」 「近いうちにまた来るよ」  そうして俺たちは別れた。歩き出して少ししてから、名刺をもらったはいいが、こちらの名前を教えていなかったことに気づく。まあいいか、次に会うことがあればその時にでも伝えればいい。会わなかったら、縁がなかったということだ。 「案外面白いやつだったな、チャラ男のわりに」  やはり偏見はいけないと思いながら空を見上げる。  今夜はやけに月が綺麗だ。いつもと変わらない帰り道だというのに足取りも軽い。  ところで今は何時だろうか。時間も気にせず長いこと喋っていたから、正確な時間がわからない。 「ええと…………あれ?」  ふっと左腕をあげた時、異変に気がついた。  ――ない。あの時計が、ない。  俺はすぐさま胸元の名刺を引っ張り出した。犯人は! あいつしかいない!!  その名刺を見てハッとする。  見覚えのある黒地に、オレンジ色の文字という色使い。  表面には店の名前『夜の魔法使い』。その上には小さく、Magic Barと記されていた。 「ま……マジックバー……」  中央には……さっきの男の名前だろうか。『Hakuya』とだけ書かれている。  そして裏を見ると、白いペンで携帯電話の番号とともにメッセージが書かれていた。 『村瀬様の次回のご来店、心よりお待ちしております。愛を込めて Hakuya』  謎のハートマーク付きのメッセージに、もはや怒りは消えて笑いがこみ上げていた。 「なんで名前知ってんだよ、まさか社員証見られたのか? いつの間に? ワケわかんねえ……さすが夜の魔法使い様だ!」  すぐに電話してやろうかとも思ったが、それではあまりにも『Hakuya』の思い通りに踊らされ過ぎて面白くない。そうだな。この野郎、と笑い合うのはまた今度。例えば、今夜のように月が綺麗な夜にでも。その方がきっと魔法使いも焦れて、楽しみが増すというものだ。  そう決めてもう一度空を見上げると、相変わらず夜空に浮かぶ美しい月が、隠しきれない俺の笑みを照らし出した。

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