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第13話 贖罪の終わる日【春樹】

 春樹(はるき)は、間もなく、青山医師の診察を待ち望むようになった。他人が理解・共感しづらい稀有な人生経験をしてきた春樹は、元々、自分の内に閉じこもりがちな性格だ。青山医師は、さすが心の専門家だけある。ずかずかと内面に入り込んでくるようなこともなければ、無理に理解したような顔をすることもない。しかし、自分は何かが、どこかがおかしいのではないかと深く恐れていた春樹にとっては、理想的な対話相手だった。 「それは決して異常なことではない」 と、そよ風のように軽やかに言い切ってくれ、なぜそう判断できるか論理的に分かりやすく説明してくれる。青山医師に説明するために、自分の内面でモヤモヤとくすぶっていたものを言葉にするプロセスも、心の整理に繋がる実感があった。  何度かの受診の後、青山医師から、自分史を書くよう言われた。 「いつ、どんな印象的な出来事があって、その時、春樹君はどう思ったか。時系列でまとめておいで。決まった様式や書き方は無いから」  その次の診察で、青山医師は、春樹が持参した自分史の分厚さに目を見張った。しかし、年齢の割に苦難の多い彼の人生を思い返し、納得したように頷いた。春樹はクリップ留めした自分史の束を一度自分の胸に引き寄せ、訴えるような表情で青山医師を見上げた。 「……青山先生。医師には、守秘義務がありますよね?」  かすかに震える唇と指先。自分史には、彼にとって非常に重要なことが書かれているのだろうと察した。真っ直ぐ春樹の目を見つめ、青山医師は(おごそ)かに言った。 「勿論だ。診察室の中での会話や自分史の内容は、他の人には秘密だ。医師である僕は、君を守る義務がある」  唇を噛みながら、春樹は自分史を青山医師に手渡した。 「……春樹君は、ご両親とお姉さんの死に、ずっと責任を感じていたんだね。そして、お義兄さんを好きになってしまって、お姉さんに罪悪感を持ってしまったんだね」  青山医師が春樹の自分史を読み終え、いたわるように優しく見つめると、(こら)え切れられなくなった春樹は涙を流し始めた。 「これだけは言える。ご両親とお姉さんが亡くなったのは、君のせいじゃない。お義兄さんと恋人になったことは、悪いことでも責められるべきことでもない。レイプされそうになったことは、君の責任じゃない。お義兄さんとの関係のせいでバチが当たった訳でもない。レイプ未遂の責任は加害者にある。君は悪くない」  青山医師の力強い言葉に、春樹は顔をくしゃくしゃに歪め、声をあげて泣いた。  両親の死以来、春樹は心の中で、彼自身を裁く法廷の被告人席に立っていた。一番彼を責めていたのは、彼自身だった。しかし、心の専門家に「その必要はない」と断言してもらったことで、長年続いた彼の裁判は『無罪』で閉廷したのだった。  春樹の、長かった贖罪(しょくざい)が終わった。  ()き物が落ちたような表情で帰宅した春樹の変化に、岳秋(たけあき)はいち早く気付いたようだ。 「おかえり、ハル」  淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、一つを春樹に手渡し、どっかりと座り込んだ。 「どうだった? 青山先生のとこは」  じっくり腰を据えて話を聞かせろという意味だろう。分かりやすい態度だ。 「長い話になるよ。……って、アキは分かってるんだよね? その腰の据わり方」  春樹は、自分の胸の内を素直に打ち明けた。  両親や姉が死んだのは、疫病神(やくびょうがみ)である自分のせいだと思っていた。  自分の悪運に岳秋を巻き込み、彼の最愛の妻子を奪ってしまい、申し訳ないと思っていた。  それなのに岳秋を好きになってしまい、亡き姉にも申し訳ないと思った。  岳秋と気持ちが通い合って嬉しかったけれど、色気づいたと、人から意味深な目で見られるのは嫌だった。  不良に襲われたのも自分のせいなのかと思ったし、「ハルは頑張った」と慰めてくれる岳秋の胸にも、素直に飛び込みづらかった。 「でも青山先生が『君は悪くない』って言ってくれてさ。完全に吹っ切れたとは言い切れないけど、肩の荷が下りたっていうか。気持ちが軽くなったよ」  彼を罪悪感に縛り付けてきた長年の頸木(くびき)から解放され、春樹は目に涙を浮かべながらも微笑んだ。 「そんなに抱え込んでたんだな……。話してくれて、ありがとう。  ……こっから、すげー小さいこと言う。お前の悩みの深さに気付けなくて、申し訳ないし悔しい。でも、俺一人の力じゃ解決できなかったんだろうから、青山先生には感謝してる。  これからは、何でも言ってくれよ。お前、良い子すぎて時々不安になるんだよ。もっと俺にワガママ言ったり、駄々こねたり、嫉妬で俺を振り回したり、して良いんだぞ? 『もー、コイツってば可愛いんだから。きゅんきゅん』ってなるんだから」  岳秋は自分の弱さもさらけ出した。わざとダメ男風に振る舞っているのは、春樹の気持ちを軽くしようとする彼の優しさであることも、分かっていた。 「えー、恋人同士って、そういうものなの? 僕、ワガママ言うの、慣れてないからさ。加減がわかんないよ。ものすごい重たい恋人になって、アキ、ウンザリするかもよ?」  おかしそうに顔を歪めて笑い、震えるお腹を押さえている春樹を、岳秋は目を細めて嬉しそうに眺めている。 「俺も相当、重たい男だぞ? これでも遠慮してんだ。ちょっとぐらいじゃ引かねえよ。むしろ、俺が重いのに引くなよ? ま、引いても、簡単には離してやんないけどな」  いつになく濃厚な愛の言葉だった。彼の眼差しに滲む熱と、マグカップを持ち上げる逞しい腕の筋に、春樹は急激に欲望を感じた。突然の高まりにうろたえる。頬が熱い。 「……こんなに好きだって言ってるのに、そんな色っぽい表情(かお)されたら、ハルに触れたくなっちゃうじゃん。蛇の生殺しじゃねえかよ。お前、ドSなの?」  春樹の表情や雰囲気の微妙な変化に気付いた岳秋は、困ったような笑みを浮かべた。 「アキと触れ合いたい。また急に怖くなっちゃうかもしれないから、自信ないけど……。でも、好きな人とするのは、全然違うよね?  愛のある行為ってどんなのか、アキが教えてよ」  おずおずと上目遣いで岳秋を見つめると、彼は少し怒ったような表情を浮かべた。 「……ハルのためなら、俺は、何だってしてやる。  あいつらのしたことは、ただの暴力だ。相手を愛おしみたい、もっと親密になりたい、気持ち良くしてあげたいっていうのが、恋人同士の触れ合いだからさ」  抑えた声と、軽く染まった(まなじり)は、恋の熱情を浮かべている。ソファの反対側の端から岳秋がにじり寄る。春樹は、おずおずと両手を差し伸べた。 「……ハル、好きだ」  緩く胸の中に抱き留められ、耳元に囁かれる。彼の熱い吐息が、春樹の身体をも熱くする。 「僕も。アキが好き」  興奮と緊張で声が上擦る。遠慮がちに彼の背中に腕を回し、Tシャツの背中を握りしめた。岳秋は春樹の頬に小さなキスを落とした。 「リラックスして。……難しいよな? でも、なるべく何も考えずに感じてて欲しい」  岳秋は、ずっと春樹の髪や背中を撫で続けた。二人の体温が溶け合い、春樹は安堵の溜め息を漏らす。 「アキの匂いがする」  車であちこち移動し、外を歩き回る彼からは、太陽に当てた布団のような匂いと、少し汗の匂いがした。 「汗くさくない? 外、走り回ってるから」  慌てて自分の肩に鼻先を擦り付け、匂いを嗅ぎ始めた岳秋に、春樹はクスクス笑った。 「ううん。僕、この匂いを嗅ぐと安心する。姉さんのお葬式で、これからも一緒にいようって抱き締めてくれた時と同じ。あれ以来、僕の一番好きな匂いだよ」  素直な春樹の言葉に、岳秋は、大きすぎる食べ物を無理やり飲み込んだ時の表情になった。 「……俺も、あの時のこと、よく思い出してた。お前、今より小さくて細くてさ……。俺が守ってやらなきゃって思った。  ……この状況で言われたら、俺、勃つものも勃たなくなりそう。今、『保護者の責任』ってキーワードが脳裏をよぎっちゃった」  春樹の肩に顔を埋めた岳秋は、少し涙ぐんでいるようだ。冗談めかして笑いにくるもうとしているが、春樹との絆が深まるきっかけが夏実の死だという皮肉と、当時の傷ついた二人を思い出したのは明らかだった。 「アキ……。僕を引き取ってくれて、傍にいさせてくれて、ありがとう」  感謝と愛おしさがこみ上げ、春樹は、岳秋の少し硬い手触りの髪に指を通した。そして彼の伏せた頬に自分の頬を擦り付ける。唇が彼の耳を掠める。ぴくりと身じろいだ岳秋が、ゆっくりと顔を上げた。鼻が触れそうなほど、互いの顔が近い。春樹が瞬いている間に、静かに唇が重ねられた。

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