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第17話 啓蟄①
「ちょっと杉本!」
相変わらず平日の昼間から暇を持て余している赤石が、開店準備中のビストロ椿に乗り込んできた。
「悠絃ちゃんに何てことしてくれたの!?」
「あぁ? 何のことだよ」
赤石の相手をするのも面倒で、不貞腐れたような声で答えた。あの日からずっと、体が鉛のように重たい。
「何って、ボコボコに殴ったでしょ! 酷い怪我だったんだから」
「あんなの、ただの喧嘩だろ」
「け、喧嘩ぁ?」
赤石の話によると、一昨日たまたま会ったそうだが、桐葉の顔面はガーゼと絆創膏だらけで、皮膚が所々変色していたらしい。
「まだ暑いのにハイネックのカットソーなんか着ててさ、どうしたのって聞いても教えてくれなくて。でも若干見えちゃったんだよ。首に痕がね、噛んだり吸ったりしたような痕がいーっぱい、これでもかってほど付いててさ」
怖くなっちゃった、と赤石は言った。珍しく目が笑っていなかった。
「喧嘩なんて嘘でしょ。杉本は何も怪我してないじゃん」
「俺もあいつに顔面蹴られたんだよ。口ン中がぐっちゃぐちゃになって、大変だったんだぜ」
嘘ではない。早朝までヤリ尽くした後、帰ろうとしたところで顎に膝蹴りを食らった。怯んだ隙にもう一発、横っ面に蹴りを入れられ、駄目押しに鼻っ面を蹴り飛ばされた。俺はもちろん床に倒れ込み、大量の血を吐いた。強かに舌を噛んだのである。頬の内側や唇の裏もざっくり切った。
桐葉は既に寝の体勢に入っていたし、俺も手当してもらおうとは露ほども思わなかったから、流血しながらアパートまで帰ったのだった。
「縫うようなことにはなんなかったけど、後遺症で口内炎が酷くって、食うにも困ってんだ」
赤石の引き顔は結構レアだと思っていたが、近頃は頻繁に目にしている気がする。本当に喧嘩なの? と疑うので、口を開けて見せてやった。
「まぁ、確かに……痛そうね」
「だろ? やめてくれよな。人をDV加害者呼ばわりしやがって」
「だって、あれ見たら誰だってそう思うよ。本人は何も言ってなかったけどさ」
しかし、俺をなじるような赤石の視線は変わらなかった。
「喧嘩だとして、どうしてそこまでするの。何が原因で喧嘩したわけ?」
俺はしばし閉口する。なんと言えばいいのかわからなかった。本当に、何が原因で喧嘩したのだろう。途中までは問題なく進行していたはずだったのに。
「……あいつが悪ぃんだ。あいつが、いらんこと言うから」
「子供みたいなこと言わないで、杉本にも悪いとこあったんじゃないの?」
「俺は何も――」
「いいから考えてみ? 思い当たる節があるかもじゃん」
こいつ、こういう時ばっかり年上ぶりやがって。やたらに桐葉の肩を持つし。心の中で毒づきながら、あの日の会話を回想する。
「……モールで会った時の話になって、急に機嫌が悪くなったような気がする」
「先週……先々週だっけ? 亜夜子ちゃんと行ったっていう?」
「そう。なんでその話になったかは忘れたが、とにかくその辺りからあいつの機嫌は悪くなった。で、俺もその時のこと思い出して苛々したんだ」
険悪なムードが最高潮に達したところで「他にもセフレがいる」などと桐葉が宣ったからつい手が出てしまったのだが、詳しいことは赤石には伏せておく。
「その後……昔付き合ってたやつの話をし始めたもんだから……こう、ね」
腕を振り、空中を殴った。赤石は深く嘆息する。
「相手が悠絃ちゃんだからまだいいけど、もし女の子にこんなことしたら大変なことだよ? 最悪捕まるよ?」
「んなこたわかってんだよ。でも、やっぱりあいつが悪ぃだろ? いらんこと言ってただろ」
赤石は腕を組み、首を捻った。
「うーん、杉本と亜夜子ちゃんの関係を疑ったとかじゃないの? そんでムキになって、あることないこと喋っちゃったんじゃない?」
「なんで桐葉がムキになる必要があるんだよ。あいつだって散々――」
「っていうか、過去の男の話をされたところで怒らなくってもいいじゃない。二人は所詮セフレなんでしょ?」
揶揄するような嫌な笑顔で赤石は言った。俺は、ごく最近どこかで全く同じ台詞を聞いたな、と思いげんなりした。
「どうだっていいじゃん。過ぎたことなんてさ。ケツ穴の小さい男だねぇ、杉本は」
ケツ穴が小さいのは桐葉の方だ、などとくだらないことを考える。
「赤石だって、嬢に抜いてもらってる最中に他の客の話をされたら、萎えるだろ?」
「最中に喧嘩したの?」
「違うけどさ。事後だったけど」
赤石はまた、にやにやと嫌な笑みを浮かべる。
「そりゃまぁ萎えるけど、萎えるだけ。二度とその店に行かなきゃいいだけじゃん。キレて手を上げたり、怪我させたりなんかしないよ。だって、そこまで期待してないもん」
最後の言葉に含みを持たせる。なんだ。俺が桐葉に期待していると言いたいのか。
「期待もしないし執着もしない。一人の相手にこだわらない。ま、すごいテクニックを持ってたら手放すの惜しいなって思うし、諦めて通い続けるかもしんないけどね。でも、それだけだよ。自分の思い通りにしたいなんてぜーんぜん思わないね」
「俺は……」
俺は、桐葉に期待しているのか。俺だけのものになってほしいと。俺だけを見ていてほしいと。まさか。本当に?
赤石の言葉を借りるなら、俺は桐葉に執着しているのだろうか。一人の相手にこだわっているのか? 桐葉を手放して他の相手を探そうとも思えないほどに? まさかだろ。俺は桐葉の体だけでは飽き足らず、心までも手に入れたいと思っているのか?
「きっと、世間ではそれを恋っていうんだよ」
考えこんでいたら、赤石がそう言った。全部見透かされていたような気がして、決まりが悪い。
「もし、もしもな。これが恋だっていうんなら、恋ってのはずいぶん厄介なもんだな。こんなにもどろどろとして気分の悪いものが、本当に恋だってのか?」
「さァね。オレも、恋だの愛だのってよくわかんないんだ」
「そんなんでよく説教垂れたもんだな」
「でもさ、恋愛は楽しいだけじゃないってのはみんな言うよ。だからきっと杉本のそれも恋なんだよ」
「どうだかな」
恋ってのは、要は相手のことを好きだと思う気持ちのことだろう。それくらい俺も知っている。だが、
「桐葉のことは、やっぱり嫌いだ。憎たらしいと思う」
恋は甘酸っぱいって言うだろう。ファーストキスはレモンの味、とかさ。もしも俺のどす黒い感情が恋だとしたら……いや、やはりありえないような気がする。どす黒い恋愛感情なんて聞いたこともない。恋愛映画で見聞きしたような、幸せな気分からは程遠い。むしろ苦々しい気分だ。
例えば、他の男と寝る桐葉のことを想像するだけで気が触れそうだ。いっそのこと殺してしまえれば、と思わないこともない。しかしそれはできそうにない。俺の前から永遠に失われるなんて、それこそ気が狂う。
恋愛感情というよりは純粋な性欲、あるいは食欲とでも言ってしまった方がしっくりくるかもしれない。例えば、最高級松坂牛のステーキが目の前にあっていつ食おうかと悩んでいる。食べるのはもったいないけど、決して他人に横取りされたくはない。他人に奪われるくらいならさっさと食ってしまいたい。そういう感覚と似ている。
「愛と憎しみは表裏一体って言うからねぇ」
「なんだ、それ」
「かわいさ余って憎さ百倍、みたいな。聞いたことない?」
「聞いたことはあるけど……」
「だから、憎らしいからって好きじゃないってわけでもないかも、ってこと」
「難しい話をするなよ。混乱する」
ただでさえ感情が大渋滞しているってのに。
もしも本当にこれが恋心なのだとしたら、世の人々はよく耐えているなと感心する。中学でも高校でも、誰もが恋人を作るのに必死だったけど、あいつらもこんな苦しみに耐えていたのだろうか。中学卒業間際に俺に告白してきた女の子、彼女も苦しみを抱えていたのだろうか。彼女も、俺を殺したいと思ったのだろうか。
「付き合った女の子は何人かいるけど、一度だって憎いなんて思ったことねぇよ」
あまつさえ、食いたいとか殺したいとか、激しい情動に心を掻き乱されたこともない。付き合っている間は好きだった気がするのに、別れることになっても惜しくはなかった。仕方ないと割り切っていた。言い方を変えれば、冷めていたのだ。
「本気の恋じゃなかっただけじゃない? オレが風俗嬢をとっかえひっかえするのと一緒じゃん。大体、杉本って相手に告白されてばっかりで、自分から好きになったことなんてなかったでしょ」
「まぁ、確かに……」
俺は長ぁ~い溜め息をつき、髪を掻きむしった。なんだか、何もかもがわからないという気がした。靄がかかったように、頭の中がはっきりしない。わかっているのは「獲物を奪われるのは悔しい」ということくらいだ。なんだよ、それ。桐葉は松坂牛じゃねぇんだぞ。ましてや野生の小鹿でもない。俺だって、狼でもヒグマでもない。
ドアベルが湿っぽい音を立てた。店長が買い出しから帰ってきたのだ。カウンターで赤石と駄弁っている俺を見咎めたが、赤石が駆けていって何やら話していた。俺はぼんやりと上の空で、頬杖ついて天井を眺めていた。
「だから、恋の病なのよ」
赤石の声が聞こえた。
「誰が病気持ちだって?」
「性病じゃなくて恋の病!」
不意に店長が寄ってきて、俺の頭を撫でる。気恥ずかしくて頭を隠した。
「な、なんすか、急に」
「お前も、やっと真面目に考え始めたんだな」
「……別に、宙ぶらりんなのはよくないなって、思っただけですよ」
「それでいいんだ」
店長の低い声は普段はおっかないけど、時々、包容力の溢れる優しい響きへと変化する。聞く側を安心させるような重みを持っている。大人の男なのである。
「ちょっとぉ、誰のおかげで恋心に気づけたと思ってんのよ。オレのおかげでしょ?」
「ああ、赤石もいい仕事したな」
店長は赤石の頭も撫でる。赤石も喜んで頭を差し出す。まともな精神状態の時ならば、気持ち悪いからやめろとツッコミを入れるだろうが、今はそんな光景をただ微笑ましく見ていた。
「あんたら、俺にどうなってほしいわけ?」
「幸せになってほしい」
「オレは、悠絃ちゃんにも幸せになってほしい」
「幸せに、ねぇ……」
ずいぶんと抽象的な願いだ。何が本当の幸せかなんて、死ぬまでわからないかもしれないのに。
「それからな、後悔だけは残すな」
店長が言った。
「人生なんて後悔の連続だが、それでも足掻き続けてほしいんだよ。お前には、なるべく後悔しないでほしいんだ。あの時ああすればもっと、なんて思い続ける人生は辛いもんだ。お前ら若者にはぴんと来ないだろうが」
しんみりと語り、厨房へ引っ込んだ。俺も店の掃除を始める。赤石にも手伝ってもらった。
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