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第1話

「なあなあ、聞いて、聞いて!俺さー。魔法使えるんだあ!」  俺の15年来の幼馴染みは、突然こういうことを言う奴である。思わず俺が、飲み干して空になったイチゴミルクのブリックパックを、芝生にポトリと落としたところで、誰も責めないって信じてる。  しかも、これをむさい盛りの高校生男子が言うわけで、これは普通キモがられるキャラの筈なのだ。  ――なのだが。テヘヘと、照れくさそうに、とっておきの秘密を教えようとでもいう顔をしているコイツは――、  可愛い………。  や、普通あり得ないよ?  男で、なおかつ、幼馴染だぞ?これが女ならともかく――いやいや、女でも幼馴染なんて、何でもかんでも知りすぎてる奴はお断りだけれども!――ともかく、男に可愛いというのは、まずいに決まっているのだ。  目の錯覚だ!俺の本能の異常だ!脳が誤作動してんだ!……そんなことを考え、はや5年。  あらゆるメディアを漁り、知恵袋的な奴に投稿し、知り合いの寺で滝行をし――その努力の末に出た結論は『やっぱ、コイツ可愛い……』だったのである。  いつしか、俺は達観した――別に可愛いだけで、アイとかコイとか、そういんじゃないわけで。言うなれば、コイツはペット!そう――自力で餌を食えば、排泄処理も出来るお利口な愛玩動物なのだと思うことにした。  生徒達の憩いの場、昼には燦々と太陽が差し込む校舎間の中庭。  向かって左は一年生のクラスと職員室、図書室なんかをはじめとした基本棟、反対側は俺ら二年生と三年生を詰めこみ、理科室、物理室なんかを配置した専門棟だ。  俺はその芝生に陣取って、今日も昼休みの争奪戦に打ち勝って手に入れた焼きそばパンを食べ終えたところだった。  特に約束をしたわけではないが、幼馴染みとはいつも昼食を共にしている。他のダチを誘っても、何故か「遠慮しとくわ…」と目を反らされるのは謎でしかないが。  芝生に落っことしたブリックパックを拾う。相変わらずストローの端っこをガジガジと噛むのが俺の癖だ。――これって何か意味があったような……忘れたけど。  屈んだ体勢を元に戻す過程で、学ランの胸元に光るバッジが目に入る。金メッキのバッジに記された『本豪』の名字に、いつも違和感を禁じ得ない。ほんごう、あきら。本豪 晶。――平仮名にしても、漢字にしても、可愛いこいつに反してゴツすぎないか? 「あー、はいはい。晶の魔法ってのはどれだ? 目覚まし掛け忘れて遅刻する魔法か? 何もない所で滑って転ぶ魔法か? それともなんだ――あえて鬼瓦の授業中に爆睡して『なーこ、かわいいー…』とか寝言言っちゃう魔法か?」  こういう不思議ちゃん発言は、取り合わないに限る。まともに取り合ったら、怒濤の可愛いに押し潰されて、俺が勝手に撃沈する。  ――ちなみに、『なーこ』は俺の家の飼い猫で三毛猫の美人さんだ。 「ふみ、馬鹿にすんなよ!……だって、なーこ、可愛いじゃん――」  反論するところはそこじゃないっ!!  もう、コイツなんなの。天然であざといとか。本当にマジで。萌え殺す気か、コイツ!  俺が言うことじゃないが、そこは『魔法を使える』って言葉を揶揄した点を怒れよ……。  しかも、口唇尖らせて拗ねてるってさぁ――男子高校生がだぞ?あり得なくね? 「うちのなーこが可愛いのは当然だろ。それより、魔法ってのはなんだったんだ」  当然だろ。なーこは太すぎず、細すぎず、絶妙なプロポーションで…おめめはぱっちり、尻尾は茶色が多いのに先っぽだけ黒いのがセクシー。あんな美猫がそこらにいてたまるものか。  …と、俺がなーこの尊さについて脳裏に並べている間に、晶は手をポンと打ち合わせ、思い出したように語りだした。 「あ、そーだった! 俺ね、二つ魔法が使えるんだ。ふみには特別に片方、教えてあげるね」 「いや、そこで敢えて片方しか教えないってなんなの」  なんなの?  顎の辺りに人差し指くっつけて?小首を傾げて?  へー、そー、ふーん…お前、二次元だったんだな。分かる。 「だって、もう一つは今話しちゃったら効かない魔法なんだよ。だから、その時がくるまで秘密、ね?」  うわ、まぶしっ!後光が差すってこの事かよ…。困った顔で笑うんじゃない。 思わず、俺は両手で顔を覆った。萌え死んだ顔なんて見せられたものじゃない。 「…俺ね、心が読めるんだ」 「………は?」 「ふみの考えてること、魔法で分かっちゃうんだよ」  くふりと笑って、とっておきを教える晶の顔は、それはもう――筆舌にし難い可愛らしさだった。 ◇◇◇◇◇◇    そういや、自己紹介してなかった。俺の名前は新島 文春(にいじま ふみはる)。  中肉中背、あ、身長は172ある。そこはちょっと自慢したい!中学までは剣道を習ってたんで、腕と足にはそれなりに筋肉があるものの、着痩せするらしく、注目を浴びた試しがない。目が細めで、よく言えば切れ長の瞳――ってやつで、悪く言えば三白眼なんていう恵まれない容姿。  今の部活はソフトテニス部。テニス部はテニス部でも、ゆるっゆる。キャッキャウフフしながら、球打ち合いっこしましょ~?みたいな。  かく言う俺も、数少ない女子との接点を求めて入ったという不純な動機があったりする。  だが悲しいかな、女子は速攻でハイエナどもに喰われた。俺みたいな奥手では、物の数にも入らない。  そのハイエナどもの中でも『女子?全員抱いたぜ?』という雰囲気を醸すキング・オブ・ハイエナが存在する――。 「ふーみー!梯子、梯子下ろして」  網戸を通して聞こえてくる能天気な声――コイツである。  俺はため息一つ吐き、マンション備え付けテラスの右端辺りから、縄梯子を下階に降ろしてやった。  新島家と、本豪家は上階・下階に位置しており、小さいときは玄関から、何時からだったか晶に強請られて縄梯子での行来になった。  晶曰く――その方が、秘密基地みたいで楽しいでしょ?――だ、そうだが。あいつと俺の部屋である以上の違いはないと思うんだけどな…。 「あんがと!」  下階のテラスから身を乗り出して、晶はブンブン手を振った。その様子も、小型犬が必死で尾を振っているようで、――…大変可愛らしい。  可愛いと思うのに反して、疑問も沸き起こる。………なんでだ。なんでこんな、ゆるふわ乙女みたいな奴がモテんの?どう考えたって、同じ女子みたいで男らしさの欠片もないじゃんっ!  あまりにも理不尽な現実に、同じクラスの男どもに、その本音を溢したことがあるのだが、而してその反応はというと…。 「あー…それは、本豪だからさぁ……」 「そうそう、本豪だもんな。仕方ないって。諦めろ、シマ」 「は?何言ってんだよ。あいつは元々、おと――……」  お調子者の岸田が、今さら何を言ってやがるとでも言いたげに語り出したときだった。周りのダチどもが、こぞって岸田を取り抑えた。 「ばっか!お前、死ぬ気か!」 「岸田ちんー、ちょーっと口が軽すぎん?」 「はーい、悪いお口は閉まっとこうね。閉まっとこ!!」  苦しげに呻く岸田に、俺の頭は疑問符で一杯だ。 「へ?何かあんの?」 「「「なんもない!」」」  岸田以外の三人の声がハモる。お前ら、部活も趣味もてんでバラバラの癖にそういう所だけ妙に仲良いのな。そんなに、晶のことはお前らの共通認識なの?仲間外れにされた俺は、ちょっぴりさみしいじゃないか。  ちなみに漫研部、軽音部、野球部、帰宅部の4人で、中学校の頃からのダチである。 「……俺、ちょっと意味が分からないんだけど、つまり…?」 「「「だから、本豪だからだよ!」」」  What?  思わず英語が飛び出るくらいの意味不明な感じ。何だそれ。  こいつらには口が裂けても言えないが、晶はあれだぞ――可愛いの権化だぞ?  純日本人だが、薄い色素のふわふわした茶色っぽい髪。同じく、薄茶のクリクリと大きな瞳。ピンク色の口唇――まぁ、身長は俺より僅かに高いけど――ともかく、晶は可愛いんであって、イケメンとかパリピとか、そこら辺から限りなく遠い生き物だと思うんだが……。 「なるほど、わからん!」 「シマちゃん。俺達、命が惜しいの。それ以上聞かないでくれる?」  両肩に手を置いた藤田が真剣な眼差しで言うのに、俺はただ、機械的に頷いた。頷いてしまった。  で…?結局、何で晶はモテるんだよ……。 「ふみ。俺の顔、何か変?」 「――ッ!ほわっ!!」  回想に意識を飛ばしていた俺の目の前に、ドアップで幼馴染みの顔が現れた。  初夏の僅かに高い気温のためか、晶のカッターシャツは肘の辺りまで捲られている。  その前腕は思っていたより逞しく、俺は思わず自身を振り返ってしまった。お遊びテニス部の俺と異なり、晶は近所の剣道場に通い、その腕を磨き続けることを選んだ。その差が現れたのかと思うと、少し悔しい。  そんな俺の内なる葛藤を知ってか知らずか、晶は腕の力で自身を持ち上げ、俺の家のベランダに侵入を果たした。  …そして、盛大に吹き出した。 「アハハハ!ほわってなに――?ぶっくく!」  晶が顔をくしゃっとさせて笑う。最近、可愛い笑い方しか見せていなかったから忘れていたが、元々こいつはこういう笑い方するんだよな。腹を抱えて、子供みたいに大笑いしている。  腹立たしいより懐かしいが先に立ち、思わずじっとその様子を眺めた。 「あー…笑った、笑った。そんなに懐かしい?俺の顔」 「……へ?」  晶は一頻り笑い、目尻に浮かんだ涙を拭うと、小首を傾げて不思議な事を言った。 「…ふーみ、俺は心が読めるんだよ?」  ………そういや、言ってたな。『俺、心が読めるんだよ?』なーんて。『アホか』って一刀両断にしたってのに、晶はニコニコしてたっけな。  やはり馬鹿馬鹿しいとしか思えず、俺は、真剣に向き合うことはしない。晶のために下ろしてやった縄梯子をしゅるしゅると引き上げるついでに軽く返事をする。 「あー…昼間の……」 「そ。当たってた?」  回収した縄梯子を適当にベランダ隅に放置した俺に、引き違い窓を潜った晶が首だけで振り返って尋ねる。  部屋からの照り返しを受けて色素の薄い髪が金にも近い色合いに見え、妙にキラキラして見えた。――確かに、黙ってればイケメンの類いなのかもしれない。可愛らしい顔立ちが、柔らかい印象で女子にも受け入れられやすそうだ。性格が天然なせいで、俺が見落としていただけか……。   「まあ、な。お前って小学生ん時とかは、そんな感じで笑ってたな…って、思い出してた。けどさ、何度も言うけどそんな非科学的なの、俺は信じないからな」  立ち止まった晶の背を押し、俺は室内に戻る。ベッドを背に胡座をかき、読みかけの本を手に取った。 「えー…でも当たってたんでしょう?」 「いや、それはほら。心理学とか勘とか」 「勘って!」  晶が適当に言った俺の根拠に笑う。おう、確かに勘はないな。――けど、魔法やら奇跡やらはもっとあり得ない。 「ほーんと、ふみって現実主義というか、四角四面というか」  晶は胡座を組んだ俺の膝にぽすりと頭を載せ、見上げてくる。  『何だよ、男の膝枕なんて互いに気持ち悪いだろうが』――そういうことを考えたり、言ったりするには俺達の仲は近すぎた。子犬がじゃれあう程度の事をされたって、もう何も感じない。むしろ、接触しないことの方が稀だ。学校ではベタベタしない――そのルールを守る限りは、晶の好きにさせている。 「ふみ、顎のトコ。髭の剃り残し」  ピッとあごの皮膚が引っ張られる。そうなんだよな、そこだけ剃り残しがちなんだ。 「痛いって。いいよ、明日の朝ついでに剃るって」  ピンピンと引っ張る晶の右手を捉えて、俺の右手と繋いで下に下ろす。何だかんだ、手を繋ぐと大人しくなるんだ、こいつは。そうしておいて、俺は読みかけの本に手を伸ばす。 「ふみ、随分手のまめが薄くなったね」 「ん…」 「それ、また空想◯学読本?好きだねぇ」 「おう、何度読んでも良いもんは良い」  晶が何か話しかけてくるのだが、半分も入ってこない。だが、それもいつものことだ。晶は飽きれば『なーこ』を構いに行ったり、別のことをしたりするが、大概は延々と俺の近くでボーッとしている。いつものこと、いつもの――ん?  放っておいた結果、突然、指の又の辺りに生暖かい感触がして、思わず手元を見下ろす。  背筋がゾクリとした――。 「ふみ、まだこのハンドクリームなの?バニラの甘い匂いがしたから舐めちゃったよ」  手首を捉えられ、中指と薬指の狭間から濃い紅色の舌先が覗いている。言葉の幼げな様子とは裏腹に、伏せ目がちの瞳と緩く開いた口許が――何て言うのかな、エロい…。けど、長年男という生き物をやって来て、ここで沈黙してしまうのが一番不味いってのも分かっている。ここで、動揺したことを知られれば、「やーい、冗談に動揺した!エロ大魔人~!」と、からかわれることが必定だ。 「…ッ、甘いわけないだろ、舐めるなよ。犬かっ!」  思わず動揺した心を理性総動員して叱咤し、何とか芸のない言葉を捻り出した。その俺の顔をじっと見つめた晶は、何を思ったか、ふっと笑った。 「ああ…エロいの想像して、動揺した?」 「―――ッ!」  俺は前言撤回したい。魔法なんてあり得ない、晶はアホの子だなんて言って悪かった。  ――ある…。魔法はあるんだよ!チクショウ!! 「ふは!ふみって、そーいうの興味無さそうなのに。…スケベ」  スケベの三文字が物理的破壊力で俺の頭にクリティカルヒットした。  純真な笑顔で笑う晶に図星を突かれて恥ずかしいやら、情けないやら。 「きょ、興味なさそうってなんだよ。そんな訳あるか」 「あは。じゃあ、興味津々ってこと?」  無垢なキラキラ笑顔に、きっと深い意味はないんだろうなと思うと、反論するのも逆に不味い気がした。無意識に逃げ道を断つって、晶、お前はすげぇな…。 「ふぅん?そっかぁ。そうなんだね!」 「…お前、何で嬉しそうなんだよ」 「え、そんなことないよー?」  いや、明らかに嬉しそうだし、笑いがだだ漏れだろ。幼馴染のそんな事情知って何が嬉しいってんだ。からかう以上に利点なんてないだろ――晶に限って、そんな深いこと考えてるわけない。 「あー、そうそう! 明日さ、俺図書委員の集まりなんだぁ。ふみの部活終わり待ってるから、一緒に帰らない?」  俺が一人悶々と考えていると、先の事などなかったように、晶が朗らかに別の話を切り出した。…ほら、やっぱり深い意味はなかったんだ。 「…いいけど、何かあんの?」 「ん。ふわりんの誕生日だから、プレゼント選ぶの手伝って?」  ふわりん。きっと、画面の前の君は可愛いキャラクターか何かを想像しただろう。  …違うからな?不破繁光(62)だからな?晶が通い続け、俺も小さい頃に世話になった剣道の師範。 「ふわりんって…、師範の誕生日か。去年は確か…」 「陶芸にはまったって言ってたから、『お家 de 陶芸☆』セットだったよ」 「あー、そうだったな。結局、奥さんの方がはまって、師範が閉口したやつ!」 「なんか、ションボリしてたよねぇ。だからさ、今年はふわりんが喜んでくれるやつ、探そ?」  寝転んでいるために、自然と上目遣いになる晶の、色素の薄い瞳が誘うように揺れる。これを断れる猛者には、是非とも教えを請いたい所だ。リアル何これ可愛い!は勘弁して欲しい。 「…分かったよ、俺も師範には世話になったしな」 「うん、約束ね!」  晶が滑らかな肌質の小指を差し出してくる。指切りげんまんをする男子高校生って――。躊躇する俺の指を強引に絡め、晶が指を切る。 「嘘ついたら、針千本のーます!」  その指の切り方が、こどもの頃とは違う。関節の線を際まで確かめるように、触れあわされた面積を惜しむように、そっと離れていく。 「また、明日ね。ふみ」 ◇◇◇  晶は部活終わりを待っていると言っていたが、ほぼ親とは顔を合わせない俺とは異なり、アイツには門限があるのだ。少し早めに切り上げて、晶が委員会に参加しているであろう教室に迎えに行くことにした。  部活が終わる18時頃からプレゼント選びとなると、おばさ……晶の母さんに心配を掛けてしまう。俺は、昔から何くれと俺の世話を焼いてくれる晶の母さんが好きだった。いや、照れ臭くて言えないけど大好きだ。だから、心配はさせたくない。 「何で未読無視すんのよ!」  空き教室に響く、気の強い女子の甲高い声。――怖ェ……。俺はビクリとして思わず立ち止まってしまう。図書室、この先なんだけどなぁ――。 「…アンタもしつこいな。俺は最初に言ったと思うんだけどね」  あれ?  ――この声は。もしかして、もしかしなくても本豪 晶さんじゃないかな?  …けど、何この低くて冷たい声。俺がどこのどちら様って思っても仕方がないレベルじゃね? 「何言ったってのよ、本豪」  あ。晶確定――。  俺は、修羅場っぽい空き教室をこそりと覗き込んだ。別に野次馬したかったわけじゃねぇからな。晶を弄るネタみ~つけたって思っただけなんだからな。 「俺にとってはアイツが一番。アンタがそれで良いなら付き合ってもいいが、優先は出来ないって――俺は絶対に言った」 「…聞いたわよ、でもそれはあれでしょ?友情で合って、恋人とは別枠って解釈できるじゃない」 「ははは、別枠――言うに事欠いて別枠ときたか。…なぁ、アンタ。本当はアイツに成り代わって俺の一番になれるって自信があったんだろう?」  冷たい、蔑むような声音に背筋が凍る。これは断じて、俺が見て良いものじゃない――けど、足が張り付いたように動かない。 「アイツ以上にアンタを好きになると思った?――俺はね、アイツがいればいいの。そして、アイツに手を出そうなんて不届きな人間を遠ざけられればそれでいい」 「―――、サイッテー!!!」 「誰が。それでも付き合えって言ってきたのはアンタだろ」  固まったままだった俺の足を動かしたのは、バタバタと近づいて来る女子の足音。気の強そうな美人は、学年証が一つ上だから三年生か――俺は都合よく開いていた隣の教室に飛び込んで息を殺す。  普段ならば、モテる晶羨ましい、あんな美人を手酷く振るなんて…と臍を噛む所だが、今日は何だか――色々とショックが大きすぎる。  え……、何あれ。あれは本当に、マジものの晶?俺の見間違いじゃなく? 『アイツ以上にアンタを好きになると思った?』  あの乾いた笑い、蔑みと冷たい目線。生まれてからこの方、あんな晶を見たことがない。そして――『アイツ』が誰だかさっぱり分からない事が、幼なじみとして大変ショックだ。確かに晶のお相手はコロコロ変わってたが、どこかに本命がいるってことで――。  俺ら、何でも情報共有して分かり合ってたんじゃなかったのか…?少なくとも、俺はそうしてた。  晶は他の誰か――友人達や、『アイツ』さんには違う顔を見せてたのかな。  俺は、空き教室で一人佇む晶を窺ったが声を掛けることができず、来た道を当てもなく戻る。  ムカムカする。晶の事は一番知っていたかった。一番の親友でもあるって信じてた。  だけど。  晶と俺は、やっぱりどこまでいってもただの幼なじみで。知らないことや秘密な事がある方が普通なのかもしれない。  ムカムカ、イライラして、目の前が真っ赤になる。そして、呼吸が、胸が苦しい。目頭も熱い。  なんだろうこれ。これはイライラだと思っていたけれど、何かが違う。  胸が痛い。――悲しい…。  俺は昇降口を出て、グラウンドにほど近い校舎の陰で、妙な動機と締め付けるような胸の痛みに立ち止まる。  何だよこれ、何だ――立ってるのさえ、辛い。俺は座り込んで、情動が落ち着くのをひたすら待った。  …そして、踞ってよく分からない胸の痛みに耐えていた俺は、クラスの女子・小山さんの向こうから放物線を描いて飛んでくる物体を目に捉えた。  想定外に翔んだ野球部の場外ホームランって奴か?遠くで『避けろ!』って叫ぶ声がする。けど、小山さんはその声に固まって、動けないでいた。 「……っ!あぶな――!!」  咄嗟に身体が動いたものの、これ、恐らくアカンやつ……。硬式球がスローモーションで俺の目に飛び込んでくる。  女の子を守るためにも、時間的にも避けることは出来ない。  本当は、ほんの数秒の間にかなり高速の硬式球が俺の側頭部を直撃。くわん…と脳が揺れ、激しい火花と星が目の前に散った後――意識がプツリと途絶えた。 ◇◇◇  意識が戻ると、酷い側頭部の痛み、そして吐き気に最悪の目覚めを迎えた。 「お。目が覚めたみたいね――小山さん、良かったわね」 「――新島く――…ごめ、っく、うう――ごめんね、わたし―――!」  聞きなれたベテラン養護教諭の佐山鈴子先生の声がしたかと思うとと、目の前には真っ赤になった目の縁、潤みっぱなしの瞳――俺が庇った小山さんが泣いていた。 「あー、まだ混乱してるのヒーロー?貴方のお陰で、小山さんは傷一つなかったわよ、安心して」 「そ、ですか――」 「念のために病院には行くけど、そう長く気を失ってはいなかったわ」 結果的に泣かせて心配させることになったのは失敗だったけど。小山さんが怪我しなくて良かった。格好はつかなかったけど、俺もやるときゃやるじゃん。 「それにしても、君達二人は本当に今日のヒーローだったわね。身を呈してかばったり、応急手当完璧だったり」  泣き止まない小山さんのために、佐山っちが、ニシシと笑う。二人って、もう一人、誰…? 「あ…そうですね。本豪君、走ってきたかと思うと、テキパキ指示したりして――」  晶が…?小山さんは泣き声を落ち着かせて佐山っちの軽口に応えた。 「呼吸確認して、吐瀉物の有無を見て、出血や外傷を確認して――吐いても気道に詰まらせない体位をとらせてさ。迂闊に動かさなかったのも100点満点」  その後、保健室に佐山っちを呼びに行かせ、晶は俺の傍を離れないでいたらしい。その初動が完璧だったと佐山っちは笑う。だが、そこで彼女はニヤリと笑う――まだとっておきがあるらしい。 「その後がね、――もう年甲斐もなくきゅんとしたわよ」 「……ふふ、先生。私もです」  はてなマーク飛び散る頭を抱えた俺の前で、歳の離れた女子二人がキャイキャイ盛り上がっている。小山さんの涙が引っ込んだのは助かったけど…俺を放っておかないで頂きたい。 「リアル学校の王子様っているのね。漫画の中だけの話かと思ってたわよ」 「お姫様抱っこ、初めて見ました」  王子だの、姫だの。何の話なの?そう、混乱したままでいたかった。  でもさ、冷静に話を繋げていくと、状況が推測できるんだよな。  一、小山さんを庇って、俺撃沈。  二、ぶっ倒れた俺を見掛けた晶が応急処置  三、佐山っちが駆けつけ、急変する様子がないため保健室に運ぼうとする  四、居合わせた晶が俺をおひめさま……横抱きにして運ぶ  ……うん、何度想定しても高校生男子が横抱きにされた絵面が辛い……。  それと、晶さあ…俺、これでも62Kgあるんだけど、お前の背筋と腕の筋力どうなってるの……。  硬式ボール直撃、昏倒だけでも注目を浴びただろうに――その後が晶による公開処刑――お姫様抱っこだなんて…。俺、明日からどんな顔して学校行けばいいんだよ…。  その後、俺は佐山っちに送られてみっちり精密検査。幸いなことにただの脳震盪で、外傷もたん瘤くらいだった。  ……。  ………。  案の定というか。俺の家の母親とか父親とかいう人達は、佐山っちの連絡で病院に来てくれたりはせず。俺は、最後まで、ちょっと憤った様子の佐山っちにタクシーで送られて自宅に帰った。  ―――いいんだよ、知ってた。だから、逆に佐山っちの何とも言えない表情の方が、心に突き刺さった。家の親、迷惑かけてごめんね? 「文君っ!」  自宅マンションのエントランスでは、丸っこいフォルムの女の人と、見慣れた晶が待ち構えてた。やだな、いつから待ってたんだよ。 「女の子庇って怪我したんだって? ……あー!見るだけで痛そうだよ、帰ってきちゃって大丈夫なの?」  晶の母さんが、ぎゅむぎゅむ抱き潰してくれる。柔らかくて、暖かくて、うちの母親だという人とは段違いに『母さん』って感じ。  折角、気を使って晶を早く帰そうとしてたのに、結局心配させたなぁ…。 「――母さん、俺がふみ連れてくから。先生の対応して」  晶が俺の腕を引き、佐山っちに頭を下げる。 「二人とも怪我には気をつけて欲しかったけど、格好良かったわよ。…新島君、暫くは無茶しないようにね!」  チャーミングなおばちゃん養護教諭に投げキスされて、俺はタハハと苦笑い。晶は華麗に投げキスを返して手を振った。――お前、確か純正日本人だったよな…?  晶に手を引かれてエレベーターを待つ。前に晶、後ろに俺の構図。言葉はない…。  ――何で、自然に手を繋いでるんだろう。 「あき…」 「肩を貸した方がいい?おぶる?」 「…いや、手繋ぐのでいいです。」  晶はチラリと横目に視線を寄越すと、有無を言わさず三択を迫った。お前、なんか怒ってね  晶の様子を窺っていると、ポンッといつもの音がして、エレベーターの到着わ示すライトがチカチカと点灯した。  相変わらず無言の晶は、俺の部屋まで来ると流れるように鍵を開けた。…ああ、晶ん家に預けといた合鍵持ってきてたのか。 「あきら――ぶっ!」  またかよ。俺の話、少しは聞けよ!晶は話しかけようとした俺の手を引くと、コイツの母さんがやったようにムギュッと抱き締めてきた。…やっぱ、可愛くても晶は固いな……。 「……何であんな所にいたの」 「へ、ああ……部活早く終わったから晶を迎えに……」 「テニス部、まだ活動してたよ」 「あー…」 「ふみは、俺を迎えに早々に帰ったって聞いた」 「………」 晶は淡々と俺を責めているようで――その実、肩口の制服から熱く、濡れた感触がした。 わざわざ、テニス部に聞き込みに言ったのかよ、とか、カバン持ち帰ってくれてサンキュとか――色々言うべきことが思い浮かんだが、どれも言葉にならなかった。 だって、晶が泣いている――。 「ごめん。晶が女子と話中で――ちょっと待ってからって思ったらさ――その…ボールが飛んできて、咄嗟に――」  本当の事は言えなかった。あの、俺の胸を抉った晶の言う『アイツ』のことも、女子との会話を立ち聞きしたことも。 「迎えに行くって言っただろ!」 「――っ、ごめん、晶」 「心配したっ!」 「ごめん」 「――しんぱいっ、したんだっ――…ふみの馬鹿、――っ、」  晶の詰る声に、俺は何も言えなくなってしまった。そのまま、晶の囲いを引きずって俺の部屋に移る。  晶はくっつき虫になってしまって、全く離れない。  部屋が静まり返り、俺はどうにも晶の心配に報いていない気がして――罪悪感に胸が痛かった。  時計の長い針が1周した頃、俺はようやく懺悔をした――。 「あのさ、晶――本当はさ。俺、お前と女の先輩の話を聞いたんだ」 「―――ぇ?」 「俺、知らなかった。お前に本命がいたんだな――『アイツ』ってどんな奴?」  晶は、可愛い顔にポカンとした表情を載せて固まっている。何だよ――そんな言いたくないのかよ。 「知りたいの……?」 「そりゃ…俺が一番のお前の理解者だと思ってたから正直ショックだった。今からでも――教えてくれたっていいだろ?」  晶の喉仏が上下し、妙な緊張感が伝わってくる。俺も手に汗が溜まってきてどうしたものかと晶を見つめていると、コイツの指先が俺の顎先に伸ばされた。 「いいよ、ふみは特別だもん。教えてあげる――でも、その前に……ねぇ、ふみ。もう一つの魔法、知りたくない?」  右親指と人差し指で捕らえられた頤を、美しく長い、白い指が輪郭を確かめるように触れていく。その表面は思ったよりも乾いて、ざらついており、俺が思っていたポワポワふわふわの感触はしなかった。 「――っそれ、今、聞くことか?」 「えー?今、聞くところだよ。…当然じゃない」  高めの声が、深さを増した気がした。僅かに細められた瞳が、何やら背筋に怖気を呼んだ。 「……なんか、聞いたらダメな気がする」  聞いたら何かが決定的に変わってしまう。そんな予感がしてならない。  おかしいと思っていた。ダチどもの妙な反応、先ほど盗み見た冷たい対応の幼馴染。  俺の見ていた晶と、周囲が見ていた晶は、恐らく決定的に違う……。  俺の妙な予感を知ってか知らずか、晶は面白そうに笑いながら俺の顔をじっくりと見詰めて口を開いた。 「…嘘つき。聞きたいって思ってるくせに」 「いや、聞きたくないって思ってる!」 「そうかなぁ?」  可愛らしい瞳がウルリと揺れる。それは、あれか…『聞きたいって言って欲しいなぁ』って顔か?俺、この顔に弱いんだよな……。  いや、待って。  いやいやいや!ここだけは流されないからなっ!絶対に流されたらヤバい気がするっ! 「聞きたくないっ、聞きたくなーい!聞きたくなーいー!!」  見猿、聞か猿作戦――、それしか俺には自分を守る方法がない。両手で耳を覆い、眼を瞑って徹底抗戦…それだけの単純な作戦しか。  つつ…と、手の甲の静脈を辿られる気配がした。ざらりとした指紋に皮膚表面を擦られると、ゾクゾクとする。  咄嗟にやめさせようとした右腕をとられた。恐る恐る瞼をもたげれば、満面の笑顔を湛えた晶。 「嘘ついても無駄なんだよ?――言ったでしょう、俺、心が読めるって」  左手で俺の片手を拘束し、口唇の先に右手人さし指を当てて、晶は小首を傾げる。――可愛いの限界突破かよ!  あまりの可愛さに思考停止していると、口唇に添えられていた人さし指がスローモーションで動く。俺の心臓めがけて一直線。  『ふみの心なんて魔法でお見通し。ね?』実際には言葉にされた訳ではないのに、仕草が、表情がそう言っている。 「そんな事!」 「信じてないって?あはは。なら、そんな顔しないでよ、当たりでしょ?」 「――ッ!」  ――どんな顔だって言うんだよ!  その疑問は言葉に出来なかった。両頬に添えられた晶の手のひら。長年竹刀と共にある両手はざらりとした質感を持っている。 「聞いて?」 「嫌だ」 「俺ね」 「やだっつってるのに!」 「――魔法をかけた相手を、俺に夢中にさせる事が出来るんだ…」  あまりといえば、あまりに馬鹿げた内容に、俺は思わず色んな所が全開になった。傍から見れば、どれだけ間抜けだったろう――それをバッチリ、晶に見られた、死にたい……。  全開の目、弛んでだらしなく開いているだろう口。死にかけの魚かよ!と、俺なら突っ込みを入れる顔を晶はものともしなかった。 「魔法、かけちゃうよ?ふみ……」  包まれたままだった両頬をくっと持ち上げられたかと思うと、極自然に晶の顔が至近距離に迫ってくる。  待って、待って待って、待って、頼む……!  これってキスする奴―――!  …そうだよね?間違ってないよね?じゃあ、何――これは俺、強制的にキス待ち顔晒してんの?  ないわー……。三白眼野郎の間抜けなキス待ち面。俺なら速攻で噴く。 …… …  うん? … ……  問題はそこじゃないだろ、俺!  キス、男相手とはいえ、キスだぞ?どうすりゃいいんだ。目、閉じるの?今更だけど口閉じる?鼻息当たってひかれない?  ――そりゃ、晶は顔に似合わず肉食系リア充様だもんな、キスくらい余裕なんだよな。知ってた!  けど、俺っ!悲しい非モテの童貞野郎的には色々、色々、色々問題がある。問題があるんだよ、待てよ、待って――。 「ふみはる……」  開いた両口唇を覆うように、晶の柔い口唇の感触が覆って、俺のうるさい思考は静まり返った。笑ってやって下さい……。 ◇◇◇  文春はニブイ。  触れあわせた口唇を離し難く、上唇を食んだり、下唇を舐めたりすると、面白いように身体が跳ねた。  可愛いであろう表情を窺うべく薄目を開けば。困った様子の赤い顔が、時折キスの刺激に反応してキュッと目元に力を入れる。  もの慣れない様子が、それでも俺を突き飛ばしはしない純真さが、…たまらなく愛しい。  俺は息継ぎを装ってため息を溢した。――あのな、実際問題辛抱たまらんから、可愛いのいい加減にしてくれる?  もう一回言う。文春はニブイ。  なんていうのかな――例えば目の前で恋人同士がさりげなーくいちゃついてるとするだろ?膝を触ったり、指先触れ合わせたり、視線が合って笑ったり――そういうの、全然、まったく、微塵も気付かない奴なんだ。  誤解しないで欲しいんだが、あいつは日常生活では察することが出来る男なんだ。それが、殊、恋愛方面だけはまるっきり働かないというだけで。  ――当然、下心満載の俺のアプローチも気付かれた試しがない。それをラッキーと取るか、正直虚しいととるか、意見が別れるところだと思う。俺はまぁ……半々かな。  軽い触れあいに止め、嬉しいような辛いような気持ちになるのは、虚しいばかりじゃない。正直、欲望に負けそうな事もある。けれども、これは着実に文春を手に入れる計画の、必要な苦しみだ。  俺は、着実に、確実に――文春を手に入れ始めている。その実感がある。  俺が、文春に惚れたときの話をしよう。あれは小学校も低学年の頃の事だ。  俺の一番下の姉、美晴ちゃんがお嫁に行くという話を、文春にしたときの話だ。  その時の俺は、文春も一緒になって、大好きな美晴姉の門出を祝ってくれるものと確信していた。  だが、現実は違った。サッと顔を曇らせた文春は、泣きそうな顔をしたのだ。 「何で…美晴姉、僕のお嫁さんになってくれるって……」  俺は、想定外の反応に言葉を詰まらせた。幼くはあったが、俺は既に、姉のその言葉が世辞の様なものであることを理解していた。だが、文春の方は、それを純粋に信じていたのだとしたら、悪いことをしてしまった――と、俺には罪のない罪悪感が沸き上がってしまったからだ。 「ご、ごめんね?ふみくん…」 「美晴姉、お嫁に行かないで欲しかった……」  膝を抱えて座る文春は、目が真っ赤で、泣きたいのを堪えた鼻先がピクピクしてて、幼心にも大変可愛く、庇護欲をそそられた。  俺は知っていた。文春は、うちの6人兄妹が羨ましかったんであって、姉と本当に結婚したかった訳じゃないって。 「ふみくん…じゃあ、僕がふみくんをお嫁に貰ってあげる」 「……?僕、男だからお嫁さんになれないよ。それに欲しいのはお嫁さんだよ、お婿さんじゃないよ」 「えー、ふみくんは遅れてるなぁ。他の国では男の子同士でも結婚できるんだよ。お嫁さんじゃなくて、パートナーって言うんだ!」 「へー。ぱーとなー……。でも、それってやっぱり日本じゃ無理なんだよね?」  さすがは後のガチガチ理系人間。文春はその頃から理屈っぽかった。 「……だ、大丈夫!僕が変える! 知ってる?総理大臣になったら、法律を変えられるんだ」  ま、総理大臣に法律は変えられないし、政権与党に入り込めても、変えるのは至難の技ではあるんだが。そこは置いておくとして。  俺はこの時、単純に友人としての好意の一環としてその案を提案していたに過ぎない。だが。 「変えるの!?僕たちが、結婚するために?」 「うん!そしたらさ、ふみくんも本豪の家の子になって、寂しくないでしょ?」  細い目を限界まで大きくして、文春は俺をじいっと見つめた。その顔がむずむずと動き、頬に血が上って行くのが見てとれた。 「――うん。僕、待ってる! あきら君のぱーとなーになりたい!」  涙の滲んでいるくしゃりと弛められた目尻、上気した頬、弓なりに弧を描いた口許からは綺麗な白い歯が覗いていた。  それは今思い返しても、耐えがたいほど甘美で、尊いもので。俺は、文春の隣でずっと、その顔を見ていたいと強烈に思った。 「きれい……」  その美しさを表現する語彙が足りなくて、俺の口からはそんな陳腐な言葉しか出なかった。  けれど、その美しい光景と文春の可愛らしさが、俺の心を捉えてしまった。何者をもこれを覆す存在は現れず、俺は文春の虜。  俺は文春に恋をし続け、その心を手に入れるべく、あらゆる手を尽くしてきた。  文春が好きだ――そう意識して、最初に着手したのはアイツの好み調査。小学生の自分からそうだろうなとは思い始めていたが、中学生で把握し終わったアイツの好みは絵にかいたようなヒロインキャラだった。  守ってあげたくなるような、純粋無垢で天然の入った、でもちょっとロリ顔の『可愛い』女の子。なるほど、文春は『可愛い』に弱いらしい。  俺は――生まれながらに女顔であることも、文春がラノベに出てくるようなゆるゆるフワフワ系ヒロインが好みであることも、躊躇なく存分に利用したのだ。  俺の好みはもちろん、文春に決まっている。頭はいいのにどこか抜けていたり、強いのに一見そうは見えない、本番に弱くて失敗する――そういうタイプの可愛いが好きなんだ。  それはさておき。可愛いを追及すべく、俺は仕草を見直し、美容に力を入れ、性格を矯正した。文春好みの可愛らしいキャラを着実に作り上げたのである。  長年の友人たちはそんな俺にドン引き――安心しろ、俺も内心ドン引きだ。こんな男子高校生いるわけないだろう? 「ちょ…あきらぁ……お前、無茶が過ぎるだろ?昔から誰より漢らしいじゃん」  岸田がからかい半分、ドン引くの半分で告げて来たのに俺はこう返した。 「いいんだよ。テメェにゃ関係ない、そうだろ岸田。ぶりっこは文春の前だけだから安心しろ――その代わり、真相を一言でもバラしてみろ、ご要望通り報復させてもらう。漢らしくな」  ヒュッと息を飲んだのは、岸田だけではなかった。友人たちが揃って「絶対言わない!」と宣誓した。 「――ちなみに、春のスポーツテスト、握力おいくら万円?」 「60kgだよ、――握りつぶそうか?」 「何を!?」  自分で聞いておいて後退る岸田ににっこり笑ってやれば、脱兎のごとく逃げだしていった。――失礼な、握力60kgは純然たる事実だというのに。  ――友人たちにはこうして至極平和的に協力を取り付けた。  文春と部活を一緒にしなかったのは、正直、ちょっと離れる時間が欲しかったのだ。  文春は何をしていても可愛らしく、昼休みで、帰宅して家で――四六時中一緒にいるとどうにも堪らなくなってくる。――煩悩を時折醒まさない事には『可愛い晶君』を演じられない。 「ガッハッハ!――そいつは青春だな、よし!あき坊、俺と健全に汗流して欲を洗い流せ」  なんて言う、何とも心の広い剣道師範・ふわりんの言葉に甘え、ひたすら素振りしたり、打ち込み100本とかやりながら煩悩を封印し続けた。本当に師範は尊敬すべき大人だ。    こうして、周囲の声援を受けながら――俺は着実に晶の心を捉えてきた。 『魔法が使えるんだ』  この言葉を実際に舌に乗せながら、俺は内心武者震いしていた。これは、ただの不思議ちゃん発言ではない――俺の最終決戦の火蓋が切って落とされた事を象徴する言葉だ。  予定通りの反応を見せた文春――その身体は腕の内、口唇は俺の口唇の為すがままだ――。 「あ、き…くるし……!」  されるがままだった文春の顔が喘ぐように身動ぐ。俺の両手に挟まれたその顔が真っ赤なのは、半分酸欠なのかもしれない。 「だいじょーぶ?」  意識的に作った猫撫で声に、文春がほうっと、安堵の息を漏らす。  キスの時にひたすら息を止めちゃうのとか…お前は本当に男子高校生なのか、文春。鼻の機能を忘れてないか?  ――まあ、そこがお前の可愛いトコだよな。  息が整った様子の文春の腰を引き寄せて、今度は僅かに口唇の狭間を探った。  驚いた文春は僅かに俺の胸を押そうとして、あえなく固まってしまった。与えられる刺激に、思考停止したんだろうな。  小学校の頃、綺麗に揃っていた文春の歯列は、ガタガタになることこそなかったが、可愛らしい犬歯を備えるようになった。笑うと、猫科の動物のようで愛らしく、いつか存分に舐めてやろうと思っていた。それを今、堪能している。  あーあー……そこでぎゅっと、目ぇ閉じちゃうの?お前は本当に――今まで食われなかったの、俺のお陰じゃない?  文春は相変わらず、鼻呼吸が出来ていない。苦しげに寄せられた眉間の皺さえ、お前は可愛いけれど。 「息、しなよ。……ふみ」  そう告げたことに、深い意味はなかったんだ。決して、噛み合わされた歯列の扉を開けてくれと請うた訳じゃない。  俺は感触を知りたくて仕方のなかった文春の犬歯を存分に味わえていただけで十分だったし、息苦しそうな文春への単純なアドバイスだった。 ――だが、文春はそうは取らなかった。  泣きそうな瞳がうっすら覗き、緩く首を振る仕草にぞくりと背筋が粟立つ。  ――分かっているのか、文春。それは、お前…深いキスの想像をしたって事だろう? 「――ふみ、もう……お前は本当に……」  滅茶苦茶にされたって、文句は言えないぞ?  口内でその独り言を噛み締める。本当に残念だが、俺のミッションは完了していない。ここで、文春を怯えさせるのは『可愛い』本豪 晶のやることではない――暴走しかける恋心を閉まっておく。 「――目がトロンとしてる。ふふ…ふみ、魔法がかかって、俺に夢中になったんじゃない?」 「へ……?」  『夢中になった』んではなく、『夢中にさせた』事を、俺は――いや、文春以外の身近な人間は知っている。  魔法?…――まさか、そんなわけがないだろう。俺は文春の…お前の事を知り尽くしているだけだ。  お前だけを見続け、あらゆる恋敵を排除し、お前好みに自身を作り替え――確実に手に入れるべく策を練ってきたのだから。 「ね、夢中になったでしょ。俺は魔法使いなんだよ」 「……んなわけ――っ」 「信じない?」  反らされようとする顎先を捕まえる。逃すわけがないだろう。 「じゃあ、魔法は信じなくていいや。一つ教えてよ」 「…何だよ」 「――俺のこと、好きでしょ?」  文春は喉を震わせて、目を泳がせた。  ――ごめんな。答えは知っているんだ。でも、その口から紡がせたい。俺が聞きたい、その勝利を決する言葉を。 「あ、きら」 「うん」 「お前は、幼馴染みで――」 「そだね」 「男で……」 「ふは、今更!」 「……可愛くて」 「そ?嬉しい」 「…好きかって言われると、そりゃ好きだけど」 「…俺もだよ」  最大限に計算された角度で、俺は小首を傾げた。そろそろ身長的に厳しいものがある。 「だけど、れ、恋愛的に好きかって、事だろ?」 「――そういうつもりだけど」  おっと危ない思わず声が一オクターブ低くなる。可愛さをかなぐり捨てるにはまだ早い…。 「…わからない。好きに、なったことがない、から」  そう言って、文春は俯いてしまう。これは誤算だな、文春を恋愛から遠ざけすぎて「好き」が分からないときたものだ。  さて、どうするかな?――俺は思わず舌で乾いた口唇を舐めとりながら、思案のために斜め右上を眺める。経験者の声として、童貞君を導いてやるのはどうだろう――悪くない。そして、俺は文春へと視線を戻した。  ――ああ…。  その、食い入るような視線が口許に注がれている。目は口ほどに物を言うってね…。 「文春、そんな目で見ないでよ。食べられちゃいそう」  俺は精一杯首を曲げ、俺よりやや低い文春を上目遣いで見上げる。我ながら、役者だと思う――食べられちゃうのは文春だというのに、この責任転嫁。可哀想な、文春。 「はあっ!?…い、や、いやいや、そんな、ちがっ、な、……っぐ!」  訳の分からない言葉を繋ぐ文春は、やっぱり可愛い。隙だらけだ。付け入り放題だ。文春、分かってるのか? 「怒ってないよ?――さっきのキスが気に入ったってことでしょ、嬉しいな。 ――経験者の俺に言わせると、それは……」 「それは……?」 「相手の事が好きって気持ちだよ」 「そうなの、か………?」 「お前は俺が好きなんだよ」  可愛い、可愛い文春。お前を食べるのは俺だよ。この欲望を、計算をお前に見せてはやらないけれど、結末は同じなんだから、仕方ないよな? 「好き?」  真っ赤な混乱した顔で聞いてくる。  抱き締めたくて腕の筋肉がプルプルする。まだだ。まだ、もう一押し。 「好きで合ってるよ、信じて?」 「――経験者で魔法使いが言うんじゃ仕方ない」  ――本当に魔法だなんて信じているのかな。そうだったら、もっと愛しい。  信じて貰わねば困る。けれど、現実主義者の意外な純真を、俺は愛しく思うのだ。 「そうでしょ、…じゃもう一回聞くよ。俺のこと、好き?」  声に、瞳に、熱が籠る。期待に喉が喘ぐ。早く、早く言ってくれ――! 「ああ、好き…だよ」  ああ……、ああ―――っ!!!  この歓喜を何とすればいい!手に入れた!手に入れたぞ――!  苦節10年余り。俺の「可愛いと思わせるための表情」が綻びる。腕が勝手に伸びて、文春を抱き締める。 「あきら……?」 「ふみ、文春!俺も、好きだよ――さっき聞いたでしょ?『アイツ』って誰だ――って、お前だよ、お前以外にこんな愛しい人はいないよ」 「え、そ――エェっ!?」 「大好きだよ、文春。ずーっと、一緒にいてね?」  俺の急変に驚いた文春の首元に顔を埋めて、その表情を隠した。  ずーっと、一緒?――自分で言って、笑えてくる。 『もう一生、逃がさない』が正解だ。 了

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