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「運命の男③ 狂う男」

 はじめてその男にあったのは繁華街の端の方にある寂れた路地の前だった。暗闇の中一点だけ光が見えたような気がした。輪郭ははっきりせず、ただ、その眼だけが僕をとらえて離さなかった。その男は、一歩ずつゆっくりとゆっくりと僕の方へ近づいて来た。来るな、来るなと何度も心の中で唱えた。嫌だ、会いたくない、関わりたくない、出会ったら、きっと。暗闇から小さな声が聞こえた。 「何か、食べさせてくれないか。」  数軒の小さなスナックの入る古いビルの一室が僕の診療所だ。弱い立場の人を助けることが僕の理想だった。大学時代に出会った二つ年上の彼女と二人で理想を語り合って作り上げた小さな診療所。寄付を募り、僕自身もアルバイトをして何とか続けている小さな城。  路地で出会った若い男は、僕の買ってきたコンビニのおにぎりを食べながら、診療所の中を見回していた。 「あんた、タダで病気見てる人だろ。みんな噂してるよ、金持ちのボンボンで、貧乏人に施してあげてる嫌な奴、って。」 「ひどい言い方だな。」  僕は苦笑した。意外と見抜かれているものだな、高尚な理想と共に社会的弱者に対する優越感が存在することを、僕は否定できない。 「でも、俺はそうは思わない。俺は今日お前に助けられた。感謝してるよ。」  男は、食いモン、どうも、と言って立ち上がり、部屋の電気をパチンと消した。そして、小さな声で「でも俺は親切の借りっぱなしは嫌いなんだ。」と言って、男は着ていた白いシャツのボタンをはずし始めた。暗闇の中で、この男の目は光っているかのようにはっきりと見える。右腕だけシャツを脱ぎ、その手を僕の首に絡ませてきて、こう言った。 「だから、俺もお前に施してやるよ。」 その時、僕は抗えなかった。そして、僕の時間は止まってしまった。  僕が助けた男は、看板も出していない繁華街のはずれのビルの一室で営業している探偵だといった。 「仕事ないからさ、時々食べさせてほしいんだ、貧しい人に施しを、あんたの理念だろう。」そう言って時々僕の診療所に来るようになった。そんな関係が続くはずだった。  しかし、僕は静かに狂い始めていた。彼の来ない日、どこにいるのか、誰と会っているのか、なぜここに来ないのか、そんなことばかり考えるようになった。彼に死んでほしいとすら思った。もう、終わらせなくてはいけない、このまま静かに狂い続けることはできない。 「もう誰とも会わないでほしい、ずっとここにいてくれ、僕のそばにいてくれ。」 彼は驚いたような顔をしてから少しふっと笑った。僕は彼に罵倒されるだろう。気持ちの悪いやつだ、独占欲がみっともない、僕は彼に憎まれて嫌われてこの関係を終わらせてほしかったのだ。 「わかった、もう誰とも会わないよ、ここにずっといる。今抱えてる仕事を終わらせたら、ここに帰ってくる。」 と言って部屋から出て行った。  でも、僕にはわかっていた、嘘だ、もう彼は帰ってこない。  ここにいてはもうダメだ、彼がいなくなっても帰ってきても、もうダメになる。彼女にすべてを告白してどこかへ行こう、そうだ、海外へ行こう、家庭を作ろう、そんなことを考えながら僕は走り続けた。走りながら、なぜかはわからないけれど、僕の心は死の幻想にとらわれた。このまま彼に会えなくなるのなら生きていても仕方がない、死ぬことも一つの選択肢ではないのか、と。彼にあった時僕の魂は美しく凍り付いた。純粋で無垢な澄んだ愛が僕を貫いた。それが不幸であっても幸福であっても、僕の魂はもう動き出すことはないのだ。このまま死んでも、いい。ただ、最後に僕の心に浮かぶのが、あの若い探偵の美しい目であること切に願いながら。

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