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「運命の男④ 堕ちる男」

 幾度となく、彼に抱かれる夢を見た。一つの経験もない子供のころは、ただ延々と彼の唇に触れるだけの夢。年齢を重ね、経験もそれなりに積んだ頃には、彼の腕を足を背中を胸を、そのすべてに触れることができた。私の顔は年齢を重ね、彼はいつまでも高校生のままで、非常にアンバランスな絵面になっていった。そんな夢もここ最近は見ることもなく、つまり無味乾燥な毎日を送っていた。  無味乾燥なモノクロームの生活に色を付けたのは小さな出来事だった。私の兄の長男、つまり甥が不登校になり、兄が私に泣きついて来たのだ。甥とはもう何年も会っていなかった。小さいころミステリー小説を買ってやり、その話で盛り上がったことを覚えている。長い年月を経て会った私の甥の姿は在りし日の彼を彷彿させるような、美しい少年に成長していた。モノクロームだった私の世界は一変し鮮やかな色彩を持ち始めた。「挨拶しなさい」兄に促され、甥は少し頭を下げた。そして上目遣いに私の顔を見た。その眼に私は射貫かれた。  時間に都合のつく限り私は甥のもとに通った。小説の話をしたり、時々勉強したり。甥に会うことは楽しかった。そして私の心の中に、この美しい少年に対する邪な妄想が膨らんでいくことも否定はできなかった。  その日はやたらと暑い日で 「今日はお父さんもお母さんも夜まで帰ってこないんだ」 甥の言葉に私の理性は崩れ去った。あの美しい目にもっと近づきたいと、あの美しい白い肌に触れてみたいと、その想いが私を暴走させた。甥は何も言葉を発さず、ただ私を受け入れた。私は幸せだった。何も見えないほどに、聞こえないほどに、夢を見ているようで。けれどわずかに残った罪悪感が、突然私の脳裏に彼の姿を作り出した。彼は、非難するような軽蔑するような、それでいてどこか寂しげで、そんな目で私を見ていた。私はうろたえ、目から涙がぽろぽろと流れ落ちた。私は怖くなって甥の足にすがり彼の影に謝り続けた。 「許してくれ、許してくれ。悪気はなかった。魔が差したんだ」と何度も何度も語り掛けた。 「どう解決する。未成年の甥を凌辱か、ああ人生終わり、だね。」 誰が言ったのか、甥なのか、彼なのか。私は抱き着いていた甥の足から離れ、それは甥の足なのか彼の足なのか、もうわからなくなってしまっていたけれど、ひどく動揺したような情けないような顔をして、彼の残像に怯え、その場から逃げ出したのだ。  甥を、抱いた。あの美しい眼をした少年を。私の人生はこれで終わってしまっても構わない。ただ、彼を焦がれ続けた私の思い出はそれを許さなかった。答えの出ない問題に途方に暮れていた時に、一本の電話が鳴った。女の声だった。  あなた、主人の古いお友達、ですよね。探したんですよ、本当に、名字しかわからなくて。主人が亡くなりました。それでね、遺品を整理してたら、宛名のない手紙が出てきたんです。封はきちんとされていて。勝手に読んではいけないと思ったのですが、主人の書いた手紙だということは字を見れば明らかで、気になって、開けてしまったんです。内容は、そう、ラブレターですよ。延々と。好きだ、愛してるとそればっかり。何通か開けてみたんですけどね、内容は同じ。その中の一通に名前があったんです。名字だけ。そう、あなたの名前です。頭がおかしくなりそうでしたけどね、死んじゃった人に文句言ってもね、仕方ないですしね。それで、この手紙どうしようかと思いまして、捨ててしまいたいのはやまやまなんですけど、なんか、主人がかわいそうになってきて、あなたを探して、こうしてお電話差し上げてる次第です。手紙、読んでやってもらえませんか、でないと成仏できないような気がして。  今、私は彼の手紙を読むために、彼の住む町に向かって、夜の山道を車で走っている。彼が私と同じ気持であったことについて動揺は少なかった。それは、私の彼に対する想いがもう消えてなくなってしまったことを意味する。私は、私と同じ血を持つ一人の少年に狂おしいほどに恋焦がれている。彼の夢を見なくなったのは、この少年の存在が私の魂を掴んで離さなくなったからだ。私は、この少年に堕ちていく。もがきながら苦しみながら、それは違うと叫びながら、尚も少年の名前を呼び声が枯れる程に呼び続け、愛してくれと懇願し骨の軋みが聞こえる程抱きしめ、お互いの肉を食らいあうように愛し愛され、そんな恍惚。少年と私はこのままどこまでも走っていくだろう。何を言われても誰に蔑まれても、私たちは決して離れることはないだろう。それは破滅を意味し、私たちに未来はないのだ。もし私たちに何の名前もなければ、男とか女とか叔父とか甥とかそういった名前が何もなければ私は何度でも少年に愛を叫ぶのに。けれど、私を想い、先に逝った彼は、一つの言葉も発さず、想いを書き連ね、そして一人きりで消えていった。彼は私の来訪を待っているのだろうか。少年と肌を合わせた私を彼はどう思うだろうか、在りし日の笑顔のまま、裏切り者と罵るのだろうか。  山道のカーブは急で、すぐ横は谷になる。谷の底から彼の声がする、来なくていい、お前は生きろ、と。けれど私の心はもう決まっていた。愛する君よ、堕ちていくのは私一人でいい、君は生きてくれ。私は山道のカーブを前に、ハンドルから手を離し、アクセルを思い切り踏み込んだ。  

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