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第1話

「りゅーたク~ン。りゅーたクンいるんでしょ~ぉ」  安普請、薄い木の扉一枚に叩きつけられる拳の音で目を覚ました。  枕元の携帯に手を伸ばす。午前3時。世間様はとっくに寝静まっている時間だ。 「りゅーたぁ。あけろよコラぁ」  呂律の回らない、たどたどしい口調。声の主が泥酔しているのは確かだが、問題は3駅離れたところに住む『彼』が、こんな時間のこの場所で、一体何をしているかだった。  自分が知っている限り、彼の知り合いはこの界隈には住んでいない。  そして自分が知っている限り、彼は『ある理由』でしか、酔いつぶれるほど酒を飲まない。 「いますぐ開けないとここでションベンすんぞ~」  ……やめてくれ。  夜中に騒がれるだけなら両隣の住人に謝れば済むだろうが、扉についた尿のシミは、少なくとも3ヶ月は隆太の気分を憂鬱にさせそうだった。 「りゅうった! りゅうった!」  ついに呼び声に手拍子が交ざり始める。いよいよ隣室で人の起きる気配がしたところで、 「あーもうわかったようるっせぇな!」  隆太は観念して布団から飛び出した。手拍子が終わった瞬間、彼はチャックに手をかけるに違いなかった。  冷たいドアノブに触れると背筋が震える。当たり前だ。今は2月あたま、路端にはまだうっすらと連日の雪の名残が荒く固まっている。 「あ、りゅうたぁ」  へら、と笑った顔が近い。  玄関から一段上がった場所にいる隆太と、突然の訪問者は同じ目線だった。隆太の身長は、高校時代に測ったときのままなら182㎝。目の前の彼はたしか188はあったはずだ。 「こんな時間になんすか、永井センパイ」 「いやぁ、ちょっと、呑んでたら、終電のがしてね」  だから上がらせて? と大きな手をすりすり擦る。媚びているわけではない。ただ単に寒いのだろう。隆太はため息をついた。  終電のがした? 見送ったの間違いだろ。 「上がってください」  どうせ追い返したところで、当てつけのように非常階段の隅で寝られるだけだ。朝起きたら知り合いが凍死しているなんてことになったら、もうこのアパートに住むことはできない。  ―――しかもその知り合いが、元カレなんてことになれば、なおさら。 「はぁぁ悪いね~……あれっ、暖房は?」 「電気代節約です。俺、しがない院生なんで」 「えええ寒ぃじゃん。つけろよ暖房。はやくぅ」 「……」  爪先に纏わりつく靴を振り飛ばし、危うい足取りで永井は部屋の奥へと進んでいく。  元カレ―――正確には高校時代、何度か身体を重ねただけの永井の髪は、いつの間にか夜目にも痛々しいほどのかすれた金髪になっていた。 「永井さん、どうしたんすかソレ」 「ん?」  結局自分でリモコンを探し出し、暖房を点けた永井が振り返った。ソレ、と指差された髪を指先でつまみ、 「コレ? 抜いた」  実にあっけらかんと答えた。  永井の職場はデザイン事務所だ。職種的には明るい髪色も、まぁ許容範囲だろうが、それにしても唐突だった。彼の髪は昔から濡れたように青黒く、本人もそれを気に入っているふしがあった。少なくとも隆太は彼が髪を染めたところなど一度も見たことはない。 「お前さぁ、色抜いたことある? アレ2回目がすっげー痛いのね。頭の皮焼けんじゃねぇのってくらい」  めくれて毛布の露わになった薄い布団へ寝転び、永井はこめかみを人差し指と中指で揉みほぐす。 「俺、ブリーチ合わない人だったみたい。めっちゃ後悔」 「はあ」  部屋の灯りを点ける。電灯の真下にいた永井が、きゃあ、と小さく叫んで目を覆う。  無理矢理叩き起こされた隆太の両目も、じくじくとした抗議の痛みに涙を滲ませた。  深い眠りの途中で起こされたにしては、意識ははっきりしている。  安堵した。少なくとも、眠気からくる苛立ちで彼を適当にあしらうことだけは避けられそうだ。  一度拗ねると、彼は手のつけようがなくなる。 「痛いなら止めればよかったんすよ」 「ね。でもなんか、そんときは負けたくねぇって思ったのよ」  手のひらの間から、赤い唇が突き出る。くっきりとした顔立ちのなかで、そこだけは妙に儚げで柔らかいことを隆太は知っている。 「ウーロンでいいっすか」 「うん」 「またフラれたんすか」 「うん」  失恋して髪を切った。今どきそんな女の子いるんだろうか。  ―――じゃあ、切るほど髪の長くない男の子は、失恋したときどうすればよかったのかなぁ。  突き出た唇が、呟いて震えた。  永井操は一級上の先輩だった。  バスケ部副主将。ポジションはセンター。  強引で、自分勝手。上級生に嫌われ、下級生に慕われていた。  入学早々、背が高いというだけの理由で隆太を部へ勧誘し、隆太が入部するまで放課後、毎日教室まで押しかけてきた。  高校でマンガ同好会をつくろう。そう約束していた同中の親友を、隆太はひとり失った。  入学したての一年生にとって先輩命令は絶対で、とくに永井操は怒らせると面倒だと、上級生に兄弟がいるクラスメイトは言っていた。  入部してからは地獄のような練習に付き合わされた。他の新入生が吐き気を堪えながら帰り支度をするなか、隆太だけは吐きながらドリブル練習に付き合わされた。身長は平均以上にあったが運動神経の欠片もなかった隆太は、結局3年に上がるまで一度もスタメンには入れなかった。出場した公式試合も1つだけだ。  ひとつ隆太自身も意外だったのは、それでも3年間バスケを続けたことだ。永井が卒業したあと、退部しようと思えば、できた。それをしなかったのは、永井のバスケに対する情熱が、いつの間にか硬くなった指先や、太さだけは一人前になった太腿の筋肉に溶け込んでいたからかもしれない。  卒業したあとも永井は部活によく顔を出した。そのとき部に隆太の姿がなかったらきっと彼はひどく悲しむだろうと思った。2年に上がった頃から、隆太は永井を恐ろしいとは思わなくなっていた。 「はい」  コップに注いだウーロン茶を手渡すと、永井は礼も言わずそれを受け取る。身体を起こして一口含み、じっと何かを考えたあと、ようやく喉が、こくり、と揺れた。可愛げのない、筋と血管の浮いた男の首筋だ。 「気分は?」 「悪くない」 「少し寝ます? 起こしますけど」  というよりも自分が休みたい。隆太の両目に込められた懇願は、俯いたままの永井の目には映らなかった。 「俺、明日ヒマ」 「会社はさすがに行かないとマズいっしょ」 「辞めてきたから、ダイジョウブ」 「ソレって大丈夫なうちに入るんすかね」  それでその〝アタマ〟なのだろう。大体予想はついていたので今さら驚きはしない。  ―――これで明日の午前の休講は潰れたな。 「センパイ。もしかして失恋した相手って、上司?」  永井は答えない。彼の沈黙は肯定だ。それは数え切れない彼の悪癖のうちのひとつだった。 「じゃあ俺、どうします? そのクソ野郎の愚痴でも聞きます?」 「……なんでクソ野郎ってわかんだよ」  独り言のように呟かれた言葉は、たぶんその男への未練をあらわしているわけではない。  永井操という人は、その名前とは正反対に股がとことんゆるく、そして一度自分を捨てた人間にしがみついたりはしない。彼がゲイだと知る人間は彼のことを『ミサオビッチ』と愛を込めて呼ぶ。本人は「サッカー選手みたい」と喜んでいるが、その意味をわかっているのかはわからない。 「センパイは男を見る目がないから」  縋るような目を無言で押し返した。 「先輩の愚痴、全部聞き流しますから。そんで終わったら抱けばいいんですよね」  他称ビッチな彼はよく男に捨てられる。部活の顧問、年上の大学生、上司。そういう星の下に生まれたのではないかと思われるほどあっさりと捨てられ、いつも隆太へ泣きつく。 クソ野郎とどんなふうに付き合っていたか。その男がゲイか否か。身体の相性はどうだったか。そして、今回はどんなふうに捨てられたのか。  そんな話は聞きたくないと耳を塞ぐ隆太を張り倒し、俺を慰めろと泣き喚く。大きな背中をぶるぶる震わせ、ズボンに手をかける。  センパイ命令だ。抱け。めちゃくちゃにしろ。痛くするな。優しくしろ。 抵抗したのは高校一年の夏だけ。  何度も繰り返される悪夢のような行為は、隆太の純真な精神を激しく蝕んだ。  傲慢で股のゆるい〝センパイ〟は、少し丁寧に愛撫してやるだけで嘘のように大人しくなる。それを学んでからは大分気持ちが楽になった。  ―――4年か。いい加減、潮時だな。  黙ったまま俯く永井の隣へ跪き、顔を覗き込んだ。酔いはあらかた醒めたのか、紅潮していた頬は白くくすんでいた。 「で、話するんですか、しないんですか」  手の中で温まったウーロン茶のグラスを取り上げる。かすれて細くなった金髪は、永井が顔を上げると澱んだ部屋の空気にふわりと揺れた。 隆太が永井の身体のパーツで唯一気に入っていた艶やかな黒髪は、見る影もなく枯れ果てていた。ひどくイラついた。 「俺、けっこう迷惑してんすよ」  そこだけは変わりようのない、黒々とした瞳が隆太の唇を見つめる。たったいま聞いた言葉を信じられないとばかりに見開かれている。  いまはその目だけが、永井が永井であることを思い出させてくれた。隆太のよく知る、わがままで、図体がでかいうえに人一倍甘えたがりの永井操だ。 「いっつもいっつもフラれるたびに俺んとこ来て、夜中に叩き起こされて。センパイがどんな男に抱かれてるのかとか本当は聞きたくもないし、つかすっげー不愉快だし。だから、今日で終わりにしませんか」 「……気持ち悪いって言うのね、お前も」  ―――お前も? ああ、今回はソレ。  興味本位で付き合って、やっぱり男はナシだと言われて捨てられる。彼によくあるパターンだ。  好きで男らしくなったんじゃない、好きでデカくなったんじゃない。俺はただ、誰かに可愛がられたいだけなのに。  行為のあと譫言のように呟かれるその言葉を、隆太は何度聞いたことだろう。  可愛いわけがない。188㎝。3年間みっちり部活に励んだ鋼の肉体だ。  ワガママで、暴力的で、今回はそれに安っぽい金髪まで加わった。この外見で『可愛がられたい』などと、どの口が言うのか。  ―――でも。 「俺と付き合いましょうよ、センパイ」  ぽん、と隆太が投げた言葉を、永井は受け取り損ねたようだった。伏せられた目が大きく左右に揺れ、広い肩が浅く上下した。 「センパイやっぱ男だし、可愛くないし。俺は女とも付き合えるし……まぁ付き合ったことはないけど。でも、こうたびたび家に来られると気が休まらないんですよ」 「は……え?」 「何が『はえ?』なんすか。気持ち悪い」  男の萌え言葉など吐き気がする。あの永井が発したものなら、なおさら。 そういんじゃない、と首を振る永井は足元に転がる言葉をまだ拾いきれずにわたわたしている。 「男にフラれるたびに家に来られちゃ面倒なんですよ。それなら付き合っちゃえば早い話じゃないですか。俺だけはセンパイを見捨てないし、それをわかってるから俺んとこ来るんでしょ」  捨てる男がいなければ夜中に押しかけられることもない。  黙って抱く男がいれば、巨体を震わせる姿を見て面倒だと思うこともない。 「俺はあんたを可愛いとは思わないけど、あんたが泣いたら気が滅入るくらいには」  続く言葉は、胃の奥に飲み込んだ。  口にした途端、長年抱えていた想いは陳腐な口説き文句に変わる気がした。 「あー……とりあえず、抱く?」  お決まりのルーティーンは消化するか。  訊ねる声に永井はぷるぷると首を振った。  筋の浮いた、ごつごつとした男の首を。 「はは。可愛くねアイテッ」  岩のように大きなゲンコツが飛んでくるのをわざと額で受け止めて、隆太は立ち上がる。 「隆太」 「ん?」 「朝になったら髪染めて」 「はいはい。ホント、しょうがねぇな」  この人に大人しく従っていれば、隆太の心の平穏は保たれる。  きっともう二度と、憧れた大きな背中が泣く姿を見ることはない。

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